似非愛国者・河本大作 (その二)

 河本大作を似非愛国者と断ずる根拠は、秦郁彦氏の『昭和史の謎を追う』第二章「張作霖爆殺事件」中の次のくだりにある。


…白川陸相は一月に入って天皇から「まだか」と催促されているが、二月二十六日の拝謁では、調査が遷延している理由として「関係者は尋問に対し昂奮し、国家の為と信じて実行したる事柄に付取調べを受くる理由なしとの見地により、容易に事実を語らず、陸相種々説諭を加え漸く自白に至り…」と苦しまぎれの言い訳をしていた。
 …(中略)…
 『昭和天皇独白録』には「聞く処に依れば、若し軍法会議を開いて尋問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると云ったので、軍法会議は取止めということになった」とある。



 真の愛国者は愛国心が高じて違法行為を為したにしても、激情が去れば、法に服する。
 それが国家への不利益となると認識したならば、完全に黙秘するなり、いよいよそれが守れないとなれば罪を一身に背負って自決したりするものだ。

 もし、それが天下に恥じない行為だったのなら、逆に、裁きの場に堂々現れるだろう。

 しかし、昭和天皇の聞いたところによれば、河本大作は、証拠を固められ、自白した挙句、軍法会議にかけるなら、日本の謀略を全部暴露するといったという。
 国家のためと信じて決行した事柄ならば、軍法会議で堂々開陳すればよい。
 彼の正義は記録に残り、後世の審判に委ねられることになるだろう。
 吉田松陰の堂々たる態度と引き比べてみればよい。

 国家機関の仕事は謀略である。
 当時の世界はいわば戦国時代であり、特に支那大陸は謀略渦巻く動乱期にあった。だから彼の地ではシナ事変の勃発に至るまで全く不可解な事件が連続して起きている。

 そんな中で、満州を根拠地にする張作霖は、中華世界の支配者になろうとの野心を興して、北京で大元帥に就任し、そこに居座った。
 しかし、蒋介石率いる国民党軍が北伐を開始すると、中原の夢破れて、彼は満州に戻ろうとしたのである。

 秦氏の論文の冒頭は、事件当日である昭和三年六月四日付朝日新聞の次の大見出しで始まっている。


〈支那統一の夢破れて、去りゆく敗残の王者、北京脱出の張作霖氏〉

 
 この朝日新聞の大見出しの表現は支那の混乱の本質を適切に表現していている。記者は、万里の長城の北方の蛮族(これを北狄という)の地・満州を治める王が、中華の皇帝になろうとの夢に挑戦し、破れたことを理解していた。


 彼の満州帰還は同時に支那の混乱を満州に持ち込むことを意味していた。
 満州の安定を望む関東軍が困惑したのはこのことである。
 河本大作の暗殺の目的はそれを食い止めることにあった。

 しかし、張作霖の恩人でもあり、懐柔策を採っていた時の首相・田中義一は、事件を聞いて、「親の心、子知らず」と歎いた。
 小川鉄道大臣は、「壮なりといえど、政府の方針と相反し、有害無益の結果を来せり!」と苦い顔をしたという。

 内奏によると、白川陸相は、本人かどうかはわからないが、河本に種々説諭を加えたというから、当然政府の立場から、彼の行為が有害無益の結果を生んだということを理解させようと努めたことだろう。
 どう考えても、現役の関東軍参謀による暗殺が、国家の名誉を毀損し、国益を損じる行為であることは、この問題がいまだに歴史問題として政治的に扱われていることを見ても明らかだ。
 河本という一大佐にそれが理解できなかったとは思われない。

 しかし、彼は自身の犯行であることを自白したばかりか、軍法会議にかけ本格的に尋問を行うなら、日本の謀略、すなわち、機密をすべて暴露すると軍を恫喝したのである。
 当時の万国対峙の世界の中で、安全保障における軍の比重は大きい。
 軍の活動はすべて謀略である。
 他国に知られてはならぬものだ。
 謀(はかりごと)がなければ万国対峙はならないし、国家を保全することもままならない。
 そういう時代であった。
 いつの時代であっても治にあって乱を忘れぬ精神から言えば、国家機関の最も重要な任務は、有事を想定しての謀略にあるし、そうでなければ困るのである。

 その点、謀略を欠いた理想主義的な幣原喜重郎の協調外交が、あまりに無為無策で、国民の支持を失い、それに代わって登場したのが、居留民の現地保護を看板とし、対支強硬外交ともいわれる田中外交であったことを忘れてはならないだろう。
 しかも、その外交方針は、ほんの六年前までの二十二年に亘って同盟を組んできた大英帝国のパーマストン外交に代表される当時の国際スタンダードでもあったのだ。
 この毅然とした外交原則が大英帝国の威光を支えていたといっても過言ではあるまい。これもまた明治日本が西洋から学んだものの一つといえるだろう。


 長州閥の嫡流で、陸軍出身の田中は満州の謀略に最も精通した人物の一人であったといっていいだろう。
 もっと詳細に、精密に検討してみれば、田中内閣というのは、現実主義に立脚したかなり有能な内閣であった、という結論が出てくる可能性もあると思う。

 実を言えば、馬賊の棟梁に過ぎない張作霖に恩を与えて、実力者に育て上げてきたのは、田中自身だった。
 田中内閣は、中原の夢破れて満州に帰ろうとしていた張を、再び満州の安定に利用しようとの方針を立てていたのである。
 実力を蓄えて驕り高ぶった張ならともかく、蒋介石の討伐を受ける身となって、自信を失った張なら、再び命の恩人である自分のいうことを聞く筈だ、と田中首相は踏んでいた。
 彼が関東軍参謀による張の爆殺を知って「親の心子知らず」と歎いたのはこのことがあったからだ。

 田中の方針が最善であったかどうかわからない。
 そもそも馬賊の頭目の支那人が信頼できる相手だったとも思えない。
 しかし、打てる手の中で、実現可能な選択をしていたことは確かだろう。
 そして、それが、日露戦争以来の経緯を踏まえて、戦争で得た満州の権益を保全する目的で為された謀略であったことは確かである。
 

 国益、安全保障という見地から、機密の暴露ほど、非愛国的行為はあるまい。
 昨今、ウィキリークスで各国の機密が暴露され、アメリカを中心に各国政府がその火消しに躍起になっていたことを想起してみればいい。
 機密が暴露された国に対して、愛情を持たぬ者にとって、機密の暴露という不幸は密の味だが、その国家のために一生懸命働いている者から見れば、これほどの裏切り行為はなかろう。
 祖国を裏切ったスパイがそれを使った側からも信用されず、軽蔑されるのは、そのためだ。


 昭和天皇のお耳に達したように、もし河本が本当に「若し軍法会議を開いて尋問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露する」と言ったのだとしたら、彼は自己の正義を守るために、敢えて、日本の機密を暴露する、と国家を恫喝したことになる。
 もし、そうであれば、機密の保護という国家経営上の見地から軍法会議にかけられなくなるのは当然のことである。
 
 内閣が公正を期して河本を処罰すれば、日本の国家機密が暴露されるというジレンマに立たされていたことを、昭和天皇は理解されていたのだろうか。


 しかも河本は事件を起こす一月半前、四月十八日付の親友宛の書簡で、「張作霖の一人や二人ぐらい、野タレ死しても差支えないじゃないか。今度という今度は是非やるよ。止めてもドーシテも、やって見る。…僕は唯ただ満蒙に血の雨を降らすことのみが希望」と書いているという。

 これは張作霖に対する人格批判とも取れるが、その野垂れ死にしても差し支えないと彼が見下した張作霖であってさえ、文字通り野垂れ死にするならともかく、満州王である以上は、高級参謀によって派手に爆殺されたとなれば、国際問題に発展するであろうことを見通せなかったとはとても思えない。


 だから、自白も、恫喝も、愛国的行為としては言語道断なのである。
 河本大作を似非愛国者とする理由がお分かりいただけたであろうか。


 ここで疑念がわいてくる。
 河本が似非愛国者であるとして、彼はなぜ軍法会議にかけられるのをあそこまで拒んだのか、ということである。

 一つ考えられるのは、処罰を恐れたということだが、彼の経歴、言動を見るとこれは少々考えにくい。

 そこでもう一つ考えられるのは、彼には隠された別の目的があって、より詳細な調査によって、自白した単独犯行のシナリオが崩れるのを恐れたということである。

 あるいは、また別のケースがありうるのか。

 これ以上推理しようと思えば、秦論文で提示された史料だけでは不十分である。

 河本大作とは一体どのような人物なのだろうか。




《「張作霖爆殺事件の真相 (その六)」 終わり》

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