昭和天皇の御反省

 秦氏の著作『昭和史の謎を追う』第二章「張作霖爆殺事件の真相」をよく読むと、その史料収集力には感心するが、その扱いのずさんなことにはあきれる思いがする。
 何にでもくっつく理屈というものの性質が存分に発揮されているのだ。
 要は屁理屈といいたいのだが、あらかじめ決まった結論に沿って、史料を選別し、その史料をなるべく多く並べ立て、そこに屁理屈を結びつけて論文に仕立て上げた、という感じがするのである。
 しかし、史料が豊富になればなるほど、論理のほころびは覆い隠せなくなる。
 受験戦争や官僚事務で培った事務処理能力が存分に発揮されているかもしれないが、再読三読に耐えられない、歴史に対する洞察を欠いた駄文となってしまっている。

 歴史に対する洞察に満ちた文章は、一種の名文となって、読者をして、自然と再読、三読へと誘うものだが、秦氏の文章を何度も読み返してみたいと思う人はまれだろう。
 だから論理の破綻が誰にも気づかれない。
 菊池寛賞の選考委員だって、秦氏の著作の参考文献や収集史料の膨大さに圧倒されても、誰一人、再読さえしていないのではあるまいか。



 さて、今回は「張作霖爆殺事件の真相」から見える、昭和天皇のこの事件に対する態度について焦点を当ててみる。

 この論文の中で秦氏は昭和天皇の態度については次のように評している。

 結論的に言えば、昭和天皇は熟慮の末、田中内閣を更迭するという決断のもとに行動したと筆者は見たい。
 天皇が鈴木侍従長に、首相が予期されるような上奏裁可を願ってきた時には「責任を取るかと反問したいが」と相談したのは、五月初めである。その頃の田中内閣は水野文相、鈴木内相の辞任や久原逓相の入閣問題など失政続きで、側近の重臣たちも見放す気分になっていた。爆殺事件の責任を天皇まで及ぼさず、田中に取らせて収拾をはかるのが得策と判断したのだろう。


 このような冷徹な政治的な利害判断で、田中内閣を見捨てたとなれば、御皇室の伝統から見てちょっと問題であろう。
 無私を心がけておられる天皇陛下を我々俗人の下種の根性で忖度するのもいかがなものか。

 確かに昭和天皇は熟慮されたであろう。もちろん秦氏が紹介しているような利害も考慮されたに違いない。
 しかし、天皇陛下も人である。
 全知全能ではない。
 御聡明とは言え、当時御年二十七歳。
 青年の聡明は青年の聡明、青年の熟慮は青年の熟慮だ。
 民の父母たる君主としての完全な判断、振る舞いではありえなかっただろう。

 昭和天皇は最後まで、河本大作単独犯行説を信じておられた。
 それまでお耳に達した田中内閣の振る舞いや処置に不信感が募っているところに、あのような、これまでの経過を反故にするような内容の上奏となったため、首相に対する不信がここに極まった。
 そう解釈するのが常識にかなっているように思える。
 現に、昭和天皇は首相の食言を厳しく責めているのである。

 その証拠に昭和天皇はこの件に関するご自身の態度を反省されている。

 秦氏は『昭和天皇独白録』のそのくだりを次のように引用している。

 私は田中に対し、それでは前と話が違うではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云った…私の若気の至りであると今は考えているが… 


 昭和天皇は後になって確かに反省されたのである。
 昭和天皇は『昭和天皇独白録』の中で、そのことについて次のように言っている。


 田中内閣は右のような事情で倒れたのであるが、田中にも同情者がある。久原房之助などが、重臣「ブロック」と云う言葉を作り出し、内閣の倒(こ)けたは重臣達、宮中の陰謀だと触れ歩くに至った。
 かくして作り出された重臣「ブロック」とか宮中の陰謀とか云う、いやな言葉や、これを間(真)に受けて恨を含む一種の空気が、かもし出された事は、後々迄大きな災を残した。かの二・二六事件もこの影響を受けた点が尠(すくな)くないのである。この問題あって以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持っていても裁可を与える事に決心した。

 例えば、かの「リットン」報告書の場合の如き、私は報告書をそのまま鵜呑みにして終う積りで、牧野、西園寺に相談した処、牧野は賛成したが、西園寺は閣議が、はねつけると決定した以上、之に反対するのは面白くないと云ったので、私は自分の意思を徹することを思い止まったような訳である。
 田中に対しては、辞表を出さぬかといったのは、「べトー」を行ったのではなく、忠告をしたのであるけれ共、この時以来、閣議決定に対し、意見は云うが、「べトー」は云わぬ事にした。



 ここで問題の本質を考えてみたい。

 すでに考察したように、田中義一首相が忠義心から誠実に事に当たったとの前提に立って考えると、表向きは犯人の厳罰処刑はあくまでも首相個人の方針ということになっている。
 当然下々ではこの方針を首相の個人的な方針と見て、天皇の厳命より軽く見、問題に対処しようとする。
 しかし、一応は奏上に至った方針であったから、ちゃんとした調査を行い、実情に応じた処分を決定した。
 その結果が六月二十七日の奏上、昭和天皇の叱責に至ったとしよう。

 昭和天皇がこれを受け入れなかったとしても、誠心誠意、事に処した側からすれば、不満があっても天皇を恨むわけにいかない。
 ならば天皇の側に仕える者たちにそれは向けられざるを得なくなる。それが「重臣ブロック」とか「宮中の陰謀」という言葉になって表現されるわけだ。
 これが積もれば「君側の奸」という言葉になる。
 確かに、君側の奸をはらうことを目的に青年将校が決起した二・二六事件にまで深い影響を及ぼしたのである。

 御皇室に尊崇の念を持ちながら、その処置に不満を募らせた青年将校の胸に浮かんだのは、「君側の奸」という伝統的な言葉であった。
 つまり、これは昭和の初期に限ったことでなく、歴史上何度も繰り返されてきた問題として捉えられたという事だ。
 彼らは幕末の騒乱を想起したであろう。
 そうでなければ「昭和維新」という言葉は出てこない。

 長州藩を苦境に立たしめた「蛤御門の変(禁門の変)」などは、御所を固めて長州を京都から追い払った薩摩と会津を、「君側の奸をはらう」として、御所に攻め込んで撃退された事件であった。
 長州人は、彼らを薩賊会奸と呼んで憎悪した。

 実を言えば、木戸孝允と西郷南洲翁が京都の薩摩藩邸で会見し、両藩が和解し、盟約を結ぶに至ったのは、木戸が長州の冤罪を訴え、南洲翁がこれを容れたからなのである。
 南洲翁は長州追い落としのクーデターである「八月十八日の政変」当時、沖永良部島への遠島中で、この政変における藩の立場から自由でありえたのである。
 保守に多くの誤解があるように、別に彼がマキャベリストであったから、会津と組んでいた薩摩が、時勢の急変で、こっそりと長州と手を結びなおした、というような話ではない。
 この政変で薩摩藩は世の不評を買い、行き詰まってしまった。
 藩父・島津久光の勘気を被って、死罪一歩手前の流刑に処されていた南洲翁の召還が実現したのはそのためである。
 南洲翁はそこを立ち直らせようとし、志士たちは南洲翁の人格に依頼した。そこで坂本龍馬や中岡慎太郎の土佐勢が薩長の提携を模索し始めたのだ。
 だからこそ、木戸も南洲翁なら、ということで、わざわざ危険な京都まで出向いたのである。
 この盟約における長州藩の義務は幕府に対する徹底抗戦にあったが、薩摩藩の義務は、朝廷に長州の冤罪を訴えて、これを徹底することにあったといっても過言ではない。


 さて、話を昭和に戻す。
 
 臣下はその忠義心からであっても、見解や立場の相違から意見が対立することがありうる。そして、信念が強ければ強いほど、対立者は相手を奸物視したりして、深刻な対立へと発展しがちである。
 しかし、一君万民思想の元では、天皇の下での平等観が却って災いして、たとえ首相であっても事態を収拾できなくなる。
 田中首相が陥った苦境はそれである。

 そこで君主としての昭和天皇の態度が問われることになる。

 昭和天皇は、首相に対し「べトー」を行使したわけでなく、忠告しただけだと仰っているが、忠告のご意図ではあっても、強く叱責した挙句、辞表の提出を促して、これに対する弁解・事情の説明を拒絶されれば、これは実質的な「べトー」であろう。

 昭和天皇はそこを反省された。
 しかし、どう反省されたかが問題なのである。

 昭和天皇は、これに懲りて、閣議で決定され、奏上された事案はすべて裁可することにした。これは「べトー」という言葉を用いられていることからもわかるように、英国の立憲君主制を範とされたものである。

 しかし、これは羹に懲りて膾を吹く類の反省ではなかったか。

 天皇は、田中首相の食言に怒って、なぜそうなったのか説明を聞こうとはしなかったのである。
 ならば、重大事件に関しては、とことん説明をお聴きになればよろしいのである。矛盾点は直にお質しになられればいい。納得いくまで聴いて、それで決断をお下しになればいい。
 あまりに馬鹿げた内容ならそのとき初めて「べトー」を行使されればいい。
 
 天皇はもちろん河本大作単独犯行説をお信じになられていたから(この独白録の冒頭でそう断言されている)、最後まで聞く必要はないと思われたのかもしれないが、調査の進展によって意外な真相が明らかになったかも知れず、そうでなくとも、田中内閣が直面していた、当時の難しい内政状況までは把握できたかもしれないのである。

 明治維新を創業の起源とする大日本帝国の国是は「五箇条の御誓文」にあった。 
 昭和天皇ご自身も大東亜戦争降伏後の国民に対する第一声で、日本の国是として明治天皇の御誓文を高々と掲げておられる。あの詔を、天皇の人間宣言と未だに思っている人は、まあ、G.H.Q. の洗脳工作にやられてしまっているわけだ。

 昭和天皇が少年時代から受けてこられた天皇としての帝王学では、第一に、三種の神器に則り皇道を体す、第二に、五箇条の御誓文を以て標準となす、第三に、教育勅語の御趣旨の貫徹を期す、となっていた。
 その御誓文の第一条は、有名な「広く会議を興し、万機公論に決すべし」である。

 内閣が仮に、昭和天皇のお示しになられた公明正大な方針に則って、事件の調査を行い、様々な世論を汲んで、紆余曲折はあったものの、一年の歳月を掛けて、ようやく公論と信じられる結論を形成し、これを奏上にまで漕ぎ着けたとしよう。
 つまり、最後まで昭和天皇の方針を堅持していた田中首相が折れたのは、国内外のやむを得ざる事情を汲んでのことであったということだ。
 ならば、当然、当初の方針と齟齬するとはいえ、内閣が出した最終的な結論をご理解いただけるはずと思っていただろう。
 昭和天皇の聡明のご資質を信じれば信じているほど、そう思っていたはずだ。
 なぜなら、それはすなわち、彼らが信じるところの公論であるからだ。

 昭和天皇はその結論を導き出した背景にある事情を知っておかなければならない。
その上で裁決を下さなければ、このシステムは完結しない。
 私は昭和の政治的意思決定能力がずるずると無力化していった背景には、この問題があると思っている。
 英国の立憲君主制は斟酌すべき他国の国體であって、日本の伝統と必ずしも一致するわけではないのである。
 
 天皇の統治を天下を「しろしめす」というのは、天下のことを明鏡にかけて知るというところにある。ならば、信任した以上は、首相の説明を最後までお聴きになるべきであった。


 君臣間の信義は、これがなければ成り立たないものであるが、『論語』に次のような言葉がある。


 「言必ず信、行必ず果、硜硜然(こうこうぜん)たる小人かな。」


 言った事は必ず守る、行っては必ず果たす。こちこちの小人だな。

 一国の首相たるものが小人であってよかったものだろうか。
 もちろん、一国の首相が小人で務まるはずがない。
 田中首相はそのような器の人物ではなかった。
 しかし、昭和天皇は、結果的に小人の基準で、首相の実質的更迭をしてしまったことになる。


 君徳の育成は明治以来の君臣間の最重要問題であり続けた。
明治初期、明治天皇の君徳育成に、西郷南洲翁や大久保甲東が腐心したのは周知の事実である。
 彼らが斃れた後それを継いだのは、横井小楠の弟子元田永孚である。彼を侍従に推挙したのは大久保である。
 以後、君徳の育成は重臣たちの最大の関心事の一つであり続けた。

 そして、少年期の昭和天皇のこれに尽力したうちの一人が悲劇の将軍・乃木希典であった。
 彼は昭和天皇の君徳養成のために創設された学習院(もちろんこの名前は『論語』の冒頭の一条から取られている)の初代校長を務めた。

 乃木希典は長州人である。
 田中義一は、この長州閥出身の人物である。
 当然同じ関心を抱いていた。

 だから、天皇が首相の説明もお聞きにならず、辞表の提出を促した翌日、参内する首相に小川鉄相は次のように述べたのである。

 以下は再び『昭和史の謎を追う』からの引用である。

 小川鉄相は、それでも不安を覚えたのか、出がけの首相を捉えてこまごまと注文をつけている。海千山千の政党政治家が、若年の天皇をどう見ていたかわかる興味深いくだりなので、一部を原文のまま引用してみる。

 「(昨日のことで)辞意もあろうかと察すが、補弼の責任者として、君主に過ちある時はその過ちを正すに非ずんば、宰相の責任をつくしたるというべからず、特に御壮年の陛下に対して君徳の完成を図るはお互に兼ねて熱心努力せし所にあらずや。…昨日の陛下の聖旨中説明を聞くの要なしとあるは…決して名君の言動に非ず。或は何者か君徳を蔽うの行動に出たるものあるやも計られず…。」


 小川はちゃんと、説明を聞かなかったのが君主として問題、と言っているのだ。
 明治以来の伝統を踏まえれば、小川鉄相の言うところはすんなり入ってくる。
 君徳を蔽っていたのは、実は昭和天皇御自身の君主としての未熟さにあった。そういうことになる。
 そして、この件では昭和天皇御自身も反省された。
 しかし、それは田中らが考えた君徳とは別の方向性のものであった。
 昭和天皇の眼は英国の立憲君主制に向けられていたのである。
 「五箇条の御誓文」第五条は次のようになっている。

智識を世界に求め大に皇基を振起すべし

 智識を世界に求めるという点から言えば、同じ島国でありながら、昭和天皇の御留学当時、隆盛を誇った大英帝国王室のあり方に学ぶのは正しい知性であったと言えたかも知れぬが、その目的は、続くくだり、皇基を大いに振起するところにある。つまり知識を世界に求めるのは後段の目的を達成する上での手段の問題であって、それ自体が目的ではないのだ。
 そのことを思えば、昭和天皇の態度は、それが創造の母であるにしても、模倣の域を出ていない。
 だから、条件として似てはいても、異なる伝統と事情を持つ日本の皇室のあり方として、そぐわなかった。
 この問題が統帥権の問題として深刻化することから見てもそれは明らかである。


 秦氏は小川鉄相の言葉の引用に続けて次のように書いている。

 もっともらしい敬語は使っているが、要するに、暗君の「御乱心」に動転して辞職など考えず頑張って来い、ということだろう。

 この注釈が最初から最後まで間違っていることは読者にはお分かりだろう。
 当事者は誰一人として、暗君の「御乱心」などととらえてはいないのである。  お粗末な知性はお粗末な注釈を生む。
 考えてみれば当たり前のことだ。

 「博聞強記は聡明の横なり。精義神に入るは聡明の竪(たて)なり。」(佐藤一斎)

 秦氏の歴史に欠けているのはこの竪である。
 彼は戦前を論じるだけの素養に欠けている。



《「張作霖爆殺事件の真相 (その四)」 終わり》

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