田中義一内閣総辞職の真相 

 田中義一は忠臣にして愛国者、河本大作は不忠にして、似非愛国者である。
 昭和天皇は、聡明の御資質でありながらも、当時、君徳未熟であらせられた。


 前回の末尾でそのように断言したが、これはあくまで秦郁彦氏の『昭和史の謎を追う』第二章「張作霖爆殺事件」を、河本大作単独犯行説が揺らいでいることを前提に、提示史料を中心に熟読することで得られた結論であることをお断りしておかなければならない。

 昭和天皇激怒・田中内閣総辞職の原因は謎でもなんでもない。
 秦氏は自己が提示した史実や史料によって自己の解釈が否定されていることに気づいていないだけである。
 これに対して河本大作については、引用史料も少なく、まだまだわからないことが多く、張作霖爆殺事件そのものの真相については、藪の中というほかない。
 河本大作が似非愛国者であるというのは、秦論文を読むことで得られる彼に対する予備判断でしかない。藪の中で一つの手がかりを得たという以上のものではないのである。


 さて、まずは田中内閣総辞職の意味するところである。

 昭和三年六月四日の張作霖爆殺事件から半年以上が経過した十二月二十四日、田中義一首相は、昭和天皇に拝謁し、事件に関する内奏を行った。

 以下の青太字部分は『昭和史の謎を追う』からの引用である。

『昭和天皇独白録』(一九九一)には、「田中総理は最初私に対し…河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する積(つもり)である、と云ふ事であった」とあるだけだが、木下道雄『側近日誌』(一九九〇)の「聖談拝聴録原稿」には「朕によって首相田中義一に事の真相の調査を命じ、もし事件が日本人の手によって行われたるものならば、厳重処罰すべきことを厳命せり…調査の結果…(首相は)朕に対し厳重処罰すべきことを言明上奏」とある。 

 つまり田中首相は昭和天皇の事件の真相究明およびもし犯人が日本人の場合は厳重処罰すべきことを命じ、首相はそれを約束したのである。
 実はこの拝謁の二ヶ月前、十月二十三日に首相は、もはや唯一の元老であった西園寺公望を訪問して、助言を受けていた。
 
 十月二十三日、首相を迎えると、(西園寺は)「断然処罰して我が軍の綱紀を維持しなけりゃいかん。一時は支那の感情を悪くしても、それが国際的に信用を維持する所以じゃ。内に対しても、総理が陸軍出身だからこそ軍部を抑えられた、政友会だから思いきってやれたと国民も思うだろうし…」(原田日記)と強く説いた。

 つまり、田中首相は正論であるからこそ、天皇の厳命に尽力する決意をしたと見るべきなのである。

 ところが秦氏は次のように書く。

 しかし田中は閑院宮元帥を含む陸軍首脳が十一月二十八日の会議で公表と処分に反対する決議をしていたことを知らされ、十二月八日に小川鉄相(小川平吉鉄道大臣)から、真相上奏はかまわないが、処置については必ず閣議決定にかけるよう力説され、応諾していた。
 それにもかかわらず、陸軍や閣僚から「独断内奏」と責められるような内奏になったのは、天皇からきびしく迫られ、逃げ切れずに約束するはめにおちいったのではないか。


 読者諸氏はおかしな解釈だと思われないだろうか。
 田中義一は陸軍出身の政治家であり、当然決断力を持っている。
陸軍機密費をめぐる、いかがわしさを感じさせる噂もあったが、政界に転身するだけの気概もある。
 古巣の陸軍が正論に反する決議をしている。
 また、さらには、大臣からは処分は重大な問題であるから閣議決定にかけろ、と議会政治である以上は当然の要請を受けている。
 これら難しい内政情況を背負いながら、昭和天皇の厳命を受けたのである。
 当然「独断内奏」と責められることを覚悟しての約束だったろう。
 しかし、よく考えてみると、なぜそう責められたかといえば、田中首相が昭和天皇の厳命であることを秘したからだ。
 これが天皇を守るという忠義心からでなくてなんだろう。
 以後、彼はこの昭和天皇の厳命を実行すべく、尽力するのである。
 
 内奏四日後の十二月二十八日の閣議で、首相は正式調査を進めてさらに閣議に付すことを申し合わせ(小川秘録)、白川陸相はその日の午後、「調査を開始すべき旨内奏」(奈良日記)している。…
 だが反対派とくに陸軍の抵抗は強まる一方だった。白川陸相は一月に入って天皇から「まだか」と催促されているが、二月二十六日の拝謁では、調査が遷延している理由として「関係者は尋問に対し昂奮し、国家の為と信じて実行したる事柄に付取調べを受くる理由なしとの見地により、容易に事実を語らず、陸相種々説諭を加え漸く自白に至り…」と苦しまぎれの言い訳をしていた。
 河本一派は、すでに前年十月、峯憲兵司令官に自白していたから、白川が言及した新たな動きは、後に軍部クーデター運動の主役となる二葉会(一夕会)など陸軍中堅将校の横断的な「圧力団体」(舟木繁『岡村寧次大将』)による突き上げ運動を指していたと思われる。
 彼らのスローガンは「河本を守れ」であったが、『昭和天皇独白録』には「聞く処に依れば、若し軍法会議を開いて尋問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると云ったので、軍法会議は取止めということになった」とある。そのくらいの脅しをかけても不思議はないほど、事件に対する陸軍の組織をあげた抵抗は強かったのである。
 このように、年が明けてからの情勢は首相にとって最悪の方向へ急転していく。


 
 私はこのくだりを読んで河本大作は似非愛国者であると判断したのだが、これについてはまた別の機会に触れよう。

 このように田中首相にとって状況はどんどん悪くなっていった。
 それでも彼は拝謁以来の方針を堅持している。

 白川陸相の言い訳は苦しまぎれではない。
 事実、陸軍は処罰を受け入れる状況ではなかったのだ。
 やがて、陸相は、陸軍に突き上げられた上に、小川鉄相にけしかけられて、首相反対にまわった。 
 こちらこそ苦しまぎれの行動というべきだ。
 小川はこれによって「閣僚全員首相に反対」へと持ち込んだ。
 そして、三月末、陸軍は真相不公表、河本等を行政処分とするとの決定を下す。

 その間、田中は宇垣前陸相に陸軍部内のとりまとめを頼んだが、体よく断られる始末。
 宇垣は日記に「彼が軽挙に元老その他に広告したりし言質を如何に取り繕うか、一種の見物」と冷笑的に書いているが、これが実は、元老のみならず、昭和天皇御自身の大御心であることを知れば、冷笑の立場は逆転していたであろう。
 
 それにもかかわらず、田中は昭和天皇の名などおくびにも出さなかった。
 これは田中が総理の責任として背負い込んだということだ。
 どちらが立派な態度といいうるのか。

 ともかく、態度を翻した白川陸相は、三月二十七日、天皇陛下に事件調査の中間報告をしている。

 三月二十七日、陸相は天皇に中間的な結論を報告した。鳩山一郎文書に入っている内奏写によると、「矢張関東軍参謀河本大佐が単独の発意にて、その計画の下に少数の人員を使用して行いしもの」と犯人を特定したが、処罰については「処分を致したく存ずるも、今後この事件の扱い上、その内容を外部に暴露することになれば、国家に不利の影響を及ぼすこと大なる虞(おそれ)あるを以て、この不利を惹起せぬよう深く考慮を致し充分軍紀を正すことに取計いたく存ず(後略)」とまわりくどい論法でぼかしている。 

 別にまわりくどくはない。
 河本大作の単独犯行と断定したが、国際的事件であるから政治的配慮が必要と言っているに過ぎない。
 輔弼の一翼を担う内閣構成員の報告として適当なものだと思うがどうだろう。

 こういった難しい状況でありながら、民政党は党利党略から、満州某重大事件との名でマスコミで騒がれた、この問題を突いて、何とか倒閣に持ち込もうとしていた。
 秦氏は議会における民政党代議士・中野正剛の、田中首相に対する鋭い追及を紹介しているが、野党の無責任な追及はいつの時代も変わりがないのである。

 田中首相の窮状は察するに余りある。
 首相はついに軍法会議での河本の処罰を諦め、「関東軍は爆殺に無関係だが、警備上の手落ちにより責任者を行政処分に付す」という五月二十一日付の陸軍報告を呑むことに決した。

 田中首相がようやく参内し上奏に及んだのは、六月二十七日午後のことであった。
 鳩山一郎文書に含まれている上奏案の内容は、秦氏によると次のようであったという。

 まず、爆破の真相は不明と結論を示すが、それだけでは心苦しかったのか、各論風に「我軍部又は軍人に於いてもこれに関与したる証跡」はなく、かといって「支那人の側にも在留邦人の側にも何ら証跡を得ずとのことで、御座ります」と補足したので、犯人はいません、自爆でしょうともとれる言い回しになってしまった。
 おまけに一度は犯人と指名した河本大佐を、「独断で陸橋下に支那国憲兵の配置を許容した」陸軍の調査結果に沿ってという、訳のわからぬ理由で行政処分に付し、爆破のとばっちりで保護すべき満鉄線を破壊された責任者にはすでに懲罰を加えました、と言わずもがなの事柄まで付け足してある。



 河本大作単独犯行説に立てば、確かに小ばかにした内容に映るだろう。
 中間報告で河本大作の単独犯行であることを断言し、本人がすでに自白していることを天皇はご承知であった。
 白川陸相自身がそう上奏しているからである。
 しかし、六月二十七日の首相による奏上内容は明らかにそこから後退していた。

 そこで昭和天皇は首相の食言を責め、辞職を促したのである。
 これについては諸記録が一致している。
 別に謎でもなんでもない。
 天皇はこの問題の解決に関して、信任に応えられなかった田中総理に不信任の意思を伝えた。
 そこで田中総理は辞職した。
 これだけのことに過ぎない。

 秦氏は次のように書く。

 ともあれ、慌てふためいて退出してきた田中は、鈴木貫太郎侍従長(終戦時の首相)に「辞職する」と何度も口走り、陸相よりの言上が不十分だったせいだと責任を転嫁する口ぶりなので、鈴木もとりなしようがないと判断したようだ。
 田中が本当の醜態をさらすのはこのあとである。これだけ叱られても、一晩寝るとケロリとした田中は、翌朝の閣議に出て、叱られた様子を報告した後「事件はこれを摘発すると、国家のため不利と認むるとなし…」と理由付けした同じ処理方針を、今度は白川陸相に持たせ、参内させた。
 ところが、以外にもすんなりと御裁可があったと電話が入り、続いて鈴木侍従長から首相に参内せよと連絡が来たので、田中も閣僚も、天皇が反省して折れたらしいと喜んだ。


 秦氏はここで前日の奏上案を解説した上で次のように書く。

 これほど拙劣な嘘で塗り固めた筋書きを聞かされれば、「ばかにするな」と怒らないほうがどうかしているが、それに気づかず、いそいそと参内した田中は、鈴木侍従長から前日の上奏を責める天皇の意向をもう一度伝えられた。田中はなんとか拝謁を、と食い下がったが、鈴木から「御説明に関し召されずとの思召(おぼしめし)なり」と聞き、さらに天皇が宮田警視総監の汚職についても言及されたと聞いて、「もはや御信任は去った」と諦め、その足で元老を訪れ、内閣総辞職の決意を告げた。
 首相官邸詰めの岡田益吉記者は、七十キロのフルスピードで帰ってきた田中が、自動車から降りるや、「オラはやめる」と叫ぶのを目撃している。よほど動転していたのだろう。
 辞めたくない閣僚たちの間には、未練がましく、陛下に直訴しようと息巻く者もいたが、もはや内閣の命脈が尽きたのは誰の眼にも明らかであった。…

 

 秦氏の筆にかかると田中首相は喜劇役者のようになるが、それは喜劇性とは背中合わせの悲劇性に眼を瞑っているからだ。

 悲劇性に重点を置けば次のような解釈になるはずだ。

 そもそも田中総理は昭和天皇の公正明大なる方針を、困難を承知で、その忠義心から受け入れて、そうなるよう内閣の議論をまとめようとした。
 しかし、正論を世が受け入れるとは限らない。
 陸軍内部の反発が高まって、上手くいかず、やがて、内閣全部が首相方針の反対にまわってしまった。
 こうなったについては、この方針が昭和天皇のご内意であることを隠して(だから「独断内奏」と非難された)、ひたすら首相方針として通したことが預かって大きかったはずだ。

 首相は孤立するもしばらく頑張った。
 この時の首相の精神的支えは、昭和天皇の大御心唯一つであったはずだ。万策尽きて陸軍方針を受け入れた首相は、経緯を説明すれば天皇にはご理解いただけるものと信じていたはずだ。
 君臣間の信任とは、上下関係はあっても、相互の信頼関係のもと成り立つものなのである。
 しかし、意外にも天皇は上奏を聞き終わるや、先の上奏と矛盾することを厳しく叱責され、首相が説明しようとすると、聞く必要なし、と耳をお貸しにならなかった。
 そして、翌日には再び、熟慮の上の叱責のご内意が伝えられた。

 若き天皇への信頼がこれまでの首相の支えであった以上、動揺するのは当たり前である。
 閣僚が直訴して事情を明らかにしようとするのも当然である。
 彼らがいい加減に事に処したならともかく、全力で事に処したなら、そうであればあるほど、直訴して誤解を解きたいとの思いを抱くのが普通だろう。


 失意の田中義一は九月二十九日死去することになる。
 狭心症の発作であったという。
 秦氏は「妾宅で倒れたため腹上死の噂もある」とこの論文を結んでいる。
 まさに死人に口なし。
 戦後悪玉にされた陸軍関係者となれば、容赦なしである。

 『昭和天皇』(小堀桂一郎)によれば、元首相急逝の三日前に小川元鉄道大臣が私鉄疑獄事件で起訴されており、世間は、天皇から厳しいお咎めを受けて自殺した、と噂したのである。



《「張作霖爆殺事件の真相 (その三)」 終わり》

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