歴史家としての秦郁彦氏

 秦郁彦氏の『昭和史の謎を追う(上)』第二章「張作霖爆殺事件 青年天皇の熟慮」を今読み返してみると、歴史家としての氏の凡庸さを窺わせる箇所が目につく。

 たとえばこんな風に。

「そもそも満州(東三省)は、中国の一部と言いながら中央政府の支配が及ばず、日露戦争の遺産として遼東半島租借地や満鉄を軸にする諸権益を確保した日本が、関東軍の武力を背景に睨みをきかせていた特別地域だった。…」

「そもそも…」と書き出すなら、満州は満州人の土地で、満州王朝である清朝は、この地を父祖の地として他民族の立ち入りを禁止してきた、というところからはじめなければおかしい。
 というのは、日本が満州での権益を確保したのは清朝の時代だったからだ。

 清朝にとって満州は確かに清朝の一部と主張しえたが、それは主張するまでもないほど自明のことだった。
 しかしシナ人にとっては違う。
 だから声高に主張するのだ。
 昨今の尖閣問題を見てもそのことはわかろうというものだ。
 秦氏は、中国共産党に遠慮して、そこを曖昧にしている。
 知らなかったとすれば、歴史家失格だ。

 辛亥革命が起こって、二五〇年以上にわたってシナを支配した清朝は倒れたが、共和制への移行は、実力者袁世凱が皇帝に就任するなど、シナ人の権力争いの激化によって後退を余儀なくされ、群雄割拠、動乱の時代を迎えることになる。
 悪名高い対華二十一箇条の要求などは、それまで日本の対朝鮮半島政策をことごとく邪魔してきて、新たに中華世界の最有力者に登りつめた袁世凱に、清朝との間で交わされた満州での権益を保証させるために提出されたものだ。
 反日の履歴を持つ袁世凱に対する日本政府の不信は当然で、要求の中身は、当時の国際常識から言って決して不当なものではなかったのである。
 しかし、西洋人の間でストロング・マンとの異名を持つ、強かな袁に国内外に向けての反日プロパガンダとして大いに利用された。
 ここでも日本人は国際社会の優等生、お人好しで、シナ人は狡猾にして強か。
 これは彼我の関係性において今も変わっていない。日本人の宿痾といってよく、むしろ病膏肓に入るというのが実情だろう。
 
 この対華二十一箇条の要求を日本の卑劣な行為として目くじらを立てる人士は保守にもいるが、彼らはいまだにシナ人や左翼のプロパガンダに踊らされているわけで、歴史から何も学んでいないお人好しということになる。


 ともかく、そういったシナ内部のごたごたの中で、一九二四年には共産シンパである馮玉祥のクーデターによって清朝最後の皇帝溥儀は、退位時の約定を反故にされ、居城紫禁城を追い出された。
 その彼が頼ったのが日本だった。
 シナ兵は北京における清朝の財産を奪うとともに、歴代皇帝の墓を暴いて略奪した。
 
 要するにシナ人は清朝皇帝退位時の約束を一切守らなかったどころか、すべてを奪おうとした。実際、馮玉祥は溥儀を死刑にするつもりだったのである。
 そして、シナ人は満州まで自己の領土と主張するようになる。
 辛亥革命は「滅満興漢」すなわちシナからの満州人の排斥を訴えた革命であった。これは、満州人はシナから出て行け、満州に帰れ、ということだ。
 つまり、満州は自分のものとのシナ人の主張は彼らの強欲の産物でしかないということだ。

 溥儀のシナ人に対する恨みは骨髄にまで徹した。
 シナ人が清朝の遺産を継承する正当な資格がない、というのはこのあたりのところに根拠がある。


 溥儀のシナ人に対する憎悪を決定づけた陵墓の略奪は一九二八年七月、すなわち張作霖爆殺事件の約一月後である。 
 
 大陸における諸々の事件は全て過渡期の流動的な事態の中で起きたのである。
 秦氏が満州に対するシナ人の態度を身勝手とするならまだわかるが、氏はそこをぼかした挙句、満州に対する日本の態度を、先に続くくだりでこう書くのである。

「…大正初年、馬賊出身の地方軍閥張作霖が、日本の後ろ盾で満州の支配者にのしあがる。それ以来、張と持ちつ持たれつの関係で在満権益を守り、拡張していくのが日本の満州政策となっていた。
 ところが北京に進出して、全中国に号令する勢いになると張は、おいそれと日本の言いなりには動かなくなる。陸軍や大陸浪人を中心とする強硬論者の間には、『忘恩の徒だ』『反日政策を取るのはけしからん』という声が高まり、さらに、『張政権を倒して悪政に苦しむ住民を救うべきだ』『満州の資源は日本経済に不可欠である』という身勝手な満州占領論が台頭した。」

 
 福沢諭吉の、立国は(世界大での)私なり、公にあらざるなり、との言をまつまでもなく、国際政治とは言わば身勝手のぶつかり合いである。
 戦前の世界はそれが特に熾烈であった。
 そういった現実を踏まえた上で歴史は論じられなければならない。
 ところが秦氏の言う昭和史とは、その現実が踏まえられていないどころか、前述の満州という土地の特殊事情でさえ踏まえられていないのである。
 戦前の日本人はその満州の特殊事情を踏まえて行動したのである。
 シナ人はそれを無視して欲望のままに行動した。
 日本人の満洲占領論が身勝手なら、シナ人の満洲占有論はそれ以上に身勝手ではなかったか。
 同じ身勝手のぶつかり合いであっても、どちらがより不正であったか、どちらがより公正であったか。
 少なくとも日本の占領論は一時のもので、あとは自己の保護下で、五族共和
(満州、モンゴル、朝鮮、漢、大和の各民族の共和)を理想とする王国を育てた。しかも、その君主の地位に就いたのは満州族の長たる溥儀で、歴史的経緯から見て、何の問題もない。
 要するに、日本は一度も満州の占有を、すなわち所有権を主張していないのである。一時的なものにとどまらざるを得ない。

 一方でシナ人は占有を、すなわち所有権をまず主張した。これもまたシナ人の特性といってよい。
 占有の主張の次に来るものは時機を見計らっての占領論である。
 しかも永久占領の意志だ。
 尖閣諸島、沖縄の占有を四十年前から主張してきたシナ人が、時機を見計らって、工作を活発化させている昨今の事情を考えれば、このことは自己の問題として考えられるはずだ。


 (もっと言えば、彼らは漢字という漢民族の文字を使用し、邪馬台国の卑弥呼が朝貢していたから、日本全土も占有権があると密かに考えているし、既に目立たぬところで主張してもいるのである。
 その意を汲んで、日教組は既に、沖縄は中国のもの、九州は日本のものではないと子供たちに教育し始めているそうである。これは暗に、これらの地域に日本の占有権がない、と国家の未来を背負う子供たちに教えていることになるわけで、その意味するところは、日本人の思想的改造であり、中国共産党による日本侵略の下工作である。彼らを操っているのは中国共産党なのである。
 中国の影響力が今後さらに増大すれば、彼らはこう子供たちを教育するだろう。沖縄は中国のもの、九州も古代は中国のもの、と。
 次に言いだすのはこうだ。邪馬台国は畿内にあった、だから畿内までも中国のもの、そして日本列島は日本人のものではない、と。
 これは北京詣でを繰り返す鳩山氏が既に言ったことだ。
 彼のルーピーのポーズに騙されぬほうがいい。
 彼は確信犯なのだ。)



 秦氏の主張はこれを認めることになる。
 秦氏も歴史家の端くれなら、常識をもって、それぐらいの比較考量はしてもらいたいものだ。


 ともかく日本は清朝から正式に得た権益を、張作霖という満州の実力者と結ぶことで守り、経営した。これは清朝が衰退し、満州の経営力を失っていたからで、彼の地の実情や国際情勢を考慮しての選択だったことは間違いない。
 やがて清朝は倒れ、中華民国は内乱状態となり、満州に主権者は存在しなくなった。

 ところがシナ人である張作霖は満州の支配者の地位に飽き足らず、中華世界の皇帝になろうとの野心を起こして、日本の言うことを聞かなくなった。
 満州を安定させるために張を育ててきた日本人からすれば忘恩の徒だし、けしからんとなっても不思議ではない。
 実際、張政権は人民を搾取してもいた。

 一方で、明治維新時三千万であった日本の人口はその後の近代化と朝鮮の併合によって爆増しており、資源小国でありながら、それだけの人口を養っていく必要に迫られていた。しかも日本は日露戦争による財政的疲弊に喘いでいた。
 満州は無主の地であるだけでなく、主要都市や満鉄沿線には、約二十万の日本人がいた。すでに日本人となっていた朝鮮人は百万近くが陸続きの満州に越境していたのである。
 この流れを一体誰が止められるというのだろうか。
 満州のかろうじての安定は日本の努力によるものだったし、これら在留邦人の保護は、政府の義務であったのだ。

 戦前の日本人を見下し、小ばかにしたような秦氏の筆致に、先人の歴史に対する謙虚さは見られない。
 しかし、扱っている史料は多いから、こちらの読み方次第では、意外な発見もある。


「時代はすでに政党政治全盛時代に入りつつあり、『憲政の常道』に沿って政友・民政の二大政党による政権交代がルール化していた。政党政治では、とかく党利党略が優先する。対中国内政不干渉に代表される協調外交を標榜していた民政党に対抗して、政友会は以前から居留民の現地保護を看板にする強硬外交を唱えてきた。」

 改めて、いわゆる大正デモクラシーにより日本の民衆政治路線が敷かれつつあったことがわかる。
 つまり、日本人はアメリカによって民主主義というありがたいものを与えてもらった、という戦後神話は嘘だったということだ。
 むしろ大局的に見て、アメリカがこの路線を破壊し、自分らにとって都合の良いアメリカン・デモクラシーを押し付けたというのが真相だ。

 しかし、日本流のデモクラシーが花開いた、その大正デモクラシーには、国内知的階層、エリート層におけるマルキストの増殖という問題が付随していた。
一九一八年(大正七年)に起きたレーニンによるロマノフ王家の処刑や、大正九年に起きた共産パルチザンによる尼港事件の惨劇はまだまだ人々の記憶に新しかったのである。

(日本人の立場がやけに軽く扱われているが、「尼港事件」ウィキ解説を参照。日本人がどのような残酷な殺され方をされたか、日本人の立場が意図的に省かれているようだが・・・ ;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E6%B8%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6)

 この凶暴なるマルキズムの日本国内エリート層への浸潤という衝撃が国体明徴運動を引き起こしたのだ。
 悪名高き治安維持法も暴力革命を目指す彼らを取り締まるために制定された法律であった。

 張作霖爆殺事件は昭和三年の出来事だが、その五年前の大正十二年には、日本史上最大級の被害を及ぼした関東大震災があった。その中で政党政治は党利党略に明け暮れ、国民の支持を失い、軍部の存在感が高まっていく。

 世界恐慌が起きたのが昭和四年、関東大震災がその六年前のことだから、史上最大級の災害が再び日本を襲った、本年の東日本大震災とリーマンショック(二〇〇八年)では、その順序を前後逆にしているが、政党政治が国民の支持を失い、政府が無為無策で、御皇室と自衛隊の存在が高まった今回と状況は似ている。

 しかも政府が実情を無視した日中友好という協調外交を推し進めている点でも同じだ。
 だが、力関係が逆転しつつある今ではその本質が、協調外交ではなく、朝貢外交に堕してしまっている。

 中国共産党は今、情勢を見極めながら、世界への攻勢に出ているが、その原点ともいえる結党は一九二一年。
 以後地下活動と果敢なテロを行いながら、日本と蒋介石の国民党を戦うよう仕向けることで、日本の敗戦後、まんまとシナの天下を取ってしまった。彼の地の有名な故事成語、漁夫の利を地でいくような話だ。
 建国は一九四九年。 

 戦後、中国を訪れたマルキストに、毛沢東は、謝る必要はない、日本の軍閥のおかげで天下を取れた、と言っているのだがら、彼らは日本人が育ててきたようなものだ。
 日中国交樹立後も、日本は何かと援助してきたわけだから、現在の苦境は、日本人のお人好し外交が自ら招いたものといえそうだ。
 しかし、彼らは一切感謝の念など持ってはいまい。
 なぜなら、彼らは確信犯的に日本を利用し、何度も勝利を勝ち取ってきたからだ。日本など、日本人など、利用すべき対象でしかない。

 現在、好意からか、功利からかは別にして、日中友好を推進している善男善女は心しておいたほうがいい。
 彼の地にある、狡兎死して走狗烹らる、という故事成語を。
 日本が、日本人が狡兎である間はいいが、そうでなければあなた方も煮て食われてしまうのだぞ、ということを。
 自分らだけは大丈夫、と思っていたら大間違いである。
 日本という文明がまだまだ死んではいないからこそ、彼らもまた身を保っていられるのだ。


 日本の多くの知識人やエリート層は戦前を見下している態度のうちに、自身に対する反省力を失った。
 そして、自身が限りなく愚かになっていることに気づかなかった。
 これが戦前と現状との比較でわかることである。

 中国共産党は建国以来七十年以上の、結党以来九十年の歳月を掛けて、この近代国家の枠組みに収まらぬ怪物国家を創り上げてきた。
 もっと大きく見て、シナ人としてなら、アヘン戦争以来、一七〇年以上の歳月を掛けて、何度も危機に直面しながら、幾度も辛酸を嘗めながら、世界中に睨みを利かす怪物を育て上げた。
 そして、ついに手段を選ばぬ無制限戦争(彼らはこれを超限戦と呼ぶ)を世界に仕掛けるまでになった。

 彼らは今世界に押し出している。
 半世紀以上の昔、彼らの権謀術数の舞台は支那大陸の内部にあったが、現在は外部になっている。
 今その矛先が向けられているのが太平洋だ。
 日本はその最大の舞台の一つであるが、これは国民の目から巧妙に隠されている。
 しっかりとした知識を持っていれば、秦氏のあの短い記述の背景にこれだけのことがあるのがわかるのだ。
 戦前は決して他人事ではない。
 歴史は現在の我々を、未来を映す鏡にして、鑑である。
 これを大事に磨き続けるという根気の要る作業を通してしか、我々の生は充実しない。
 このことを見下す人間ににできる仕事は、文明の衰退に手を貸すことしかないであろう。


 さて、それはともかく、そんな中国共産党結党七年後におきた事件が張作霖爆殺事件である。
 結党一六年後の一九三七年の、シナ事変の引き金となった盧溝橋事件は、中国共産党が仕掛けた事実が確定しているが、一九二八年当時は彼らの力はまだ微弱で、そんな大胆略を描く余裕も実力もなかった。まだまだソ連の操り人形だったのである。

 革命のためには手段を選ばぬ孫文が、コミンテルンの工作員ボロジンを受け入れて、国共合作を行ったのが一九二四年。
 翌二五年、孫文が死去すると、国民党の実権を握った蒋介石が共産主義への懐疑を深め、国共内戦に突入するのが一九二七年のことである。
 張作霖爆殺事件の前年のことだ。

 以後、共産党は、蒋介石の討伐を受け、一九三六年には、最後の五分というところまで追い詰められた。
 これを救ったのが、西安事件だ。
 共産党に寝返った張学良によって、形勢は逆転する。
 この張学良こそ、張作霖の息子であった。
 当時のシナは権謀術数が渦巻く、日本人の想像を絶する内乱状態にあったのである。戦前の日本人はこれに翻弄された。

 もちろん戦前の日本人を見下しているような戦後の知識人も、自身がそういった事態に直面していないだけで、その知性や人格が切実に問われることがなくて済んで来たの過ぎない。

 数年前まで、動かぬ事実としてほぼ確定していた、張作霖暗殺の首謀者は河本大作であるとの説は現在揺らいでいる。田母神論文が指摘したのは、そのことなのである。

《 「張作霖爆殺事件の真相 (その二)」 終わり 》

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