もう一つの「天罰」発言

 「天罰」という言葉の語源は古く、白川静氏の『字通』によれば、『書経』にある「我すなわち明らかに天の罰を致し、爾(なんじ)を遐逖(かてき・・・遠方)に移さん」が初出だそうである。
 他にも、「天誅」(『墨子』)、「天網」(『老子』)、「天刑」、「天譴」、「天戒」、「天警」、「天討」、「天羅」などそれに類する言葉は多い。


 「『天罰』発言 再考」でそのように書いたが、次に紹介する藤井厳喜氏も、今回の東日本大地震を一種の天意の現れである、と受け止めた人物の一人のようである。

 (「藤井厳喜 オフィシャル・サイト」 http://www.gemki-fujii.com/blog/)


(引用開始)


「畏(おそ)る可き天の警告」

(※ 以下の本文は、既に発行された國民新聞5月号への寄稿文をNET上でも公開するものである。)


 東日本大震災と福島原発事故の全ての罹災者の方々に、心よりのお悔やみとお見舞いを申し上げると同時に、一日も早い復興をお祈り申し上げる。

 悲惨な罹災者の現状に同情を覚えつつも、同時に心中深く感じたのは、神々の振るう大鉈は悲情であるという事だ。

 筆者は元来が宗教的な人間ではない。
しかし平成23年3月に日本を襲った大天災は、正に天が日本に下した災であり、神々の世界から日本人への警告であると思えてならない。
日本人の今の有様、今の生き方を改めよ、との天からの啓示である。

 畏(おそ)る可き天の警告を畏(かしこ)み、傅(かしず)いて吾々は受け入れることが出来るのだろうか。

 復興の必要は言うまでもないが、復興の前に、従来の日本人の生き方を、それは原子力発電という技術の利用も含めてであるが、反省しなければならないのではないか。

経済効率至上主義や技術過信は、究極的には唯物論につながる「人間の生き方」であるが、それらへの根本的反省なしに、単に「旧に復する」事のみに専心する様では、日本の将来は益々危ういものとなる。

 天は日本人に警告を発し、その警告を通じて人類に黙示したのではないのか。
人類の文明の在り方そのものの転換を、示唆したのではないのか。

 では何故、日本人が、東北がその警告の対象として選ばれたのか。
神は、人類の中で最も劣悪な者ではなく、最も優良なる存在を選んで、敢えて巨大な試練を課したのではないだろうか。
神は日本民族が必ず正しい道に覚醒し、新しい文明の先駆者となる事を確信して、この使命を日本民族に課されたのに違いない。


 筆者は大正12年(1923年)の関東大震災もまた天から日本民族への啓示であり、黙示ではなかったのかと推察している。
あの天災を当時の日本への天界からの警告と捉え、日本の有り様に根本的反省と改革を加えていたら、大東亜戦争の敗戦は避けられたのではないか、と思うのだ。
あの美しい大日本帝国を亡ぼさずにすんだのではないか、と想像力を逞しくしているのだ。

 1905年、日本は日露戦争に勝利し、世界の一等国となった。第一次大戦にも参戦し、日本の国力は更に伸張した。
その後の1923年に関東大震災が起きた。
その21年後、1945年日本は未曽有の大敗戦を迎える。

今思えば、関東大震災は、日露戦争の勝利と大東亜戦争の敗北の丁度、中間で起きている。

あの時、日本人が明治維新以来の急速な発展の歪みを正し、政治・経済・軍事機構のオーバーホールを実行していたなら、敗戦という悲劇を回避する事が出来たのではないか。
素晴らしい帝国を亡ぼさずにすんだのではないか。筆者はこの思いに捕われている。

明治初期に来日し、日本陸軍の将校教育の基礎をつくったドイツのメッケルは、日本軍人の欠点として、希望的観測に依存しすぎる事を挙げている。
聴く可き言葉であると思う。


 東日本大震災の教訓を正しく生かさなければ、私達は一層、酷い敗戦にやがて直面する事になるのではないだろうか。
 


(引用終了)



 元来が宗教的な人間でない、と自ら言う、リアリストでなければならないはずの国際問題アナリストが、このように書くからこそ、日本人の持つ伝統的な感性がなお一層浮き彫りになるのである。

 似非科学であるマルクス的唯物主義に繋がりやすい、多くの自称リアリストが信奉する経済効率至上主義や技術過信に、氏を陥らせなかったのは、ひとえにこの伝統的感性という光源を持っているからであろう。

 いや、こう言うべきか。
 この光源を持つからこそリアリストたりうる、と。

 文中、「神々」という言葉が使われたり、キリスト教的な文脈で「神」という言葉が使われたりで、日本人の伝統的な「天」という言葉に施された彩色は人それぞれだが、藤井氏の論文の趣旨に深く頷く人は多いだろう。

 私もまた、藤井氏の言うように、昭和初期の政治・経済・軍事のあり方によっては、大東亜戦争は避けられなかったにしても、無残な敗戦は避けられたのではないかとの思いに誘われるのであるが、一方で、社会が諸々の事情から常に最善の選択を出来るとは限らないし、それでも最善の選択が出来よう努力していなければならない以上、無残な失敗も悲劇として受け止める心の用意は常にある。

 ある歴史の全肯定が何も生まないように、進歩の名の下になされる全否定もまた、何も生まないものなのである。それは本当の意味でのリアリズムではないからである。

 それを持つ国際問題アナリスト・藤井厳喜氏が日本人に警鐘を鳴らしている。

「東日本大震災の教訓を正しく生かさなければ、私達は一層、酷い敗戦にやがて直面する事になるのではないだろうか。」

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