石原慎太郎氏の天罰発言に対する一考察 ①

 前回石原慎太郎・東京都知事の「天罰」発言を取り上げたが、これは「天罰」発言に違和感を感じるとともに、被災民が我欲にまみれた結果として天罰を受けているとの一読後の誤読があって、もしその意図での発言なら「とんでもない」との感想を抱いたからである。しかし前回書いたように、「天罰」という言葉には今でも違和感を抱くが、その発言の趣旨については了解した。

 政治的にはともかく、石原氏はその真意ついては何ら反省する必要を認めていないだろう。確かに、菅首相を初めとする政権の対応振りには、批判を通り越して、憤りを感じざるを得ないものがある。


 前回引用した記事にもあったが地震発生時、菅総理は、辞任に追い込まれた前原前外務大臣と同様に、外国人からの政治献金問題で追及を受けていた。

 前原氏や菅氏で発覚した、外国人からの献金問題は、民主党に限らず、多くの政治家が行っている国家国民に対する背信行為という氷山のほんの一角であり、これをつついていけば、彼らが推し進める外国人参政権などの政策が、実はその見返りであるという、日本国家・国民に対するとんでもない売国的犯罪行為であることが判明しかねない問題であった。
 前原氏があっさりと辞任したのは、これ以上この問題を追及されたくなかったからであろう。首相の席にしがみついている菅氏が前原氏を慰留しようとしたのは同じ穴の狢であるからだ。
 そして、総理が心配したように、次に追求の俎上に上げられたのは自分自身であった。

「『外国籍の方とは全く承知していなかった…』

 大地震が発生した11日、首相は参院決算委員会で野党の激しい攻撃にさらされていた。前原誠司前外相に続いて政治資金規正法が禁じる外国人からの献金が発覚し、退陣の一歩手前に追い詰められた。

 ところが、この日午後2時46分の地震発生で一気に政治休戦となった。」


 産経新聞(http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/497365/


 菅氏は内心、ほっとしたのではないか。
 日本国、日本国民にとっての窮地である、地震によって窮地を脱した。
 あるいは、天佑神助ぐらいに思ったかもしれない。
 そこで、チャンスとばかりに政治パフォーマンスに乗り出した。
 政治主導の演出である。

 そして、国民受けのいいパフォーマーを起用した。
 それがボランティア担当首相補佐官に就任した辻元清美氏、節電啓発担当大臣に就任した蓮舫氏である。
 前者は、自称「国壊議員」で、阪神・淡路大震災の際には、神戸で被災者をよそに、救援のために派遣された自衛隊を憲法違反と言い、救援の拒否を訴えかけるビラをまいていたとされる人物であるし、後者は災害対策費四千億円を事業仕分けと称して削ってしまった致命的な失政を行った人物である。
 そして、今回被災者達の精神的物質的支えとなっている自衛隊を「暴力装置」を言った仙石由人氏を官房副長官に据えた。

 彼らはこれを機会に、確信犯的に、日本をさらに混乱に陥れて、破壊しようとしているのではないか。
 菅総理が自衛隊の10万人の大量動員(陸上自衛隊員は十八万人)をいち早く言ったのは、西日本を手薄にするためではないのか。尖閣諸島や沖縄を狙っている中国共産党の工作に手を貸そうとしているのではあるまいか。
 日本人の意識が東に向かっているのをいいことに、人民解放軍は、人民救援、日本人民解放をスローガンに、背後から一気に人民解放軍の日本におけるプレゼンスを高める腹積もりではあるまいか。
 地震発生当初からこのことを大変心配している。
 
 もしそうであるなら、確かに天罰というものがあるとするならば、菅総理以下はそれを受けるに値する人間ということになるだろう。
 彼らは無為無策であるばかりでなく、現場を無用に混乱させ、日本侵略の手引きをしていることになる。


 政治家のレベルの低下は戦後とどまるところを知らないが、一方で、あの未曾有の敗戦以来、アメリカの占領政策を皮切りに、左翼活動家や日教組や特定アジア人によって、歴史を奪われ、自虐的な思想を植え込まれてきたにも関わらず、日本人が今被災地で見せている民度の高さや現場の人々の奮闘は感動的である。どのような自己主張をせずとも日本の持つ伝統が本物であることが証明されつつあるし、今後さらにそれは明らかになるだろう。

 これら無名の人々の自己犠牲的な献身が伝えられる中で、この国の政治の無能ぶり、腐敗振りは言語道断である。 
 ゲーテは「活動的な愚者ほど恐ろしいものはない」と言ったそうだが、菅氏を中心とする面々にそれは当てはまるだろう。
 千年に一度の天災である上に、人災である側面が強く出てきているのである。


 石原都知事はこの地震を「天罰」と表現したが、自分はこの言葉から旧約聖書「創世記」にある「ソドムとゴモラ」の話を連想してしまって違和感を覚えたのである。

 石原氏がそういったイメージで語ったかどうか知らないが、しかし、その言わんとするところをよく読むと、むしろ日本人の伝統的感覚がそこに現れているような気がした。
 それは日本の大きな変革期にしばしば現れる天人相関の思想である。 

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック