平成二十三年、一年の計 ⑨

南洲翁の漢詩に「貧居傑士を生ず」という一節がある。


一貫す唯唯(いい)の諾(だく)、

従来鉄石の肝、

貧居傑士を生じ、

勲業多難に顕わる。

雪に耐えて梅花麗しく、

霜を経て楓葉丹(あか)し。

如(も)し能(よ)く天意を識らば、

あに敢て自ら安きを謀らんや。




 志を持って浪人している者は、当然貧居せざるをえない。
 富とは無縁の貧居は、優れた見識や、傑出した才能の温床となる。
 そして、その見識や才能は、多難の中で、花開き、葉は色づく。
 雪に耐えて麗しく咲く梅花や霜を経て丹く染まる楓葉のように。

 逆に言えば、その見識や才能が本物であるかどうかは、多難を経てしか判定できない、ということだ。

 歳寒くして、然る後に松柏の凋むに後るることを知る。

 先人達はこのことを知っていた。

 日本人が、日本という文明が、厳冬の時代を迎えるのはこれからである。
 日本の未来の行末を論じ、警鐘を鳴らす人々の真価はこれから明らかになるだろう。


 
 南洲翁は、明治八年九月頃、旧庄内藩士に

「これまで人を見るに、浪士は論高けれども、処分の力乏しく、十に五六の処分を見るも、その余に心及ばず。藩士は論卑しけれども、処分は却って始終会得したるところあるなり。実地を踏みたる為なり」

 と語っている。

 ここに言う藩士とは藩官僚、役人のことで、浪士とは、浪人志士のことだ。
 一般論として、貧居を厭わぬ志士は志が高くて論は高いが実務能力に欠ける。
 一方、官僚は実務能力が高くとも志が低く、論も低い。

 なるほど個人個人の資質としてみればそのとおりであろう。
 浪人志士を自任している私とて例外ではない。

 
 
 浪士たる自分は未熟で、まさに、論は高くとも、十に一二の処分を見るも、その余に心が及ばず、という状態で、南洲翁の批判には甘んじざるを得ないが、むしろ今の日本の現状を見ると、伝統に由来する高い論こそが必要ではあるまいか。

 社会が健全に運営されていくには、内部に高い論も必要であるし、論は低けれども実地の処置も必要である。それらが当初は激しく対立することになるだろうが、最終的に統合調和されていくという過程を踏まなければ、日本の再生は難しい。
 今の日本の問題点は、実務に就く人間の議論が余りに大衆化・低俗化してしまっているところにあるのだ。
 
 高い見識に立つ本質的な理に基づく行動が、時勢に触視することで、さらにその理を精到なものにし、それが謀(はかりごと)となっていく。
 もちろんそれは個人の仕事としてなされる必要はない。
 同じ志を持つ人々の間で共有され、大きな動きとなっていけばよいのである。

 そもそも明治維新とは、そういった、人間が本来的に持つ思惟の働きが、社会性を伴って、国家の運営に生かされることを目指した改革であった。
 いわゆる「五箇条の御誓文」を読めばそれは明らかで、万機は公論によって決せられ(第一条)、国民の全てが志を遂げることが出来る社会である(第三条)。
 もちろんその志は、国家解体というような、倒錯した邪なものではなく、天皇を中心に国民が心を一つにして(第二条)、天地の公道に則り(第四条)、知識を世界に求め(第五条)、国家の繁栄を目指すものでなければならない。
 これらの条文から、必然的に専制を伴う共産主義が天地の公道でないのは自明のことだ。
 国民精神の中にある良識的な価値規範を集約し、それが夜郎自大にならぬよう、天地の公道という普遍性や智識によって、陶冶されたものである。

(「五箇条の御誓文」ウィキ記事;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E7%AE%87%E6%9D%A1%E3%81%AE%E5%BE%A1%E8%AA%93%E6%96%87

 大日本帝国は厳しい国際環境の中で、概ねその良識が担保された文明を築き上げていたと思われる。
 その良識(やまとごころ)が西洋文明の世界制覇の欲望や有色人種への人種差別とぶつかったのが大東亜戦争だったといいうるであろう。
 共産主義を含む西洋文明や中華文明はこれを封殺したがるが、あの戦争によって西洋の抑圧から解放された民族、あるいは未だに抑圧を被っている民族は概ねこのことを了解している。
 何も世界は西洋文明と中華文明だけで成り立っているわけではないのだ。

 

 さて、ここ十年の活動で、この伝統の種は自分の中に宿り、そして育ちつつある。合理的に考えれば、命も、名も、金も、地位もあった方が仕事はしやすいに決まっているが、その一方で心の問題はそう簡単には行かない。
 一般に成功は堕落の元である。
 成功したとたん初志を忘れる人は多い。

 以前「株式日記と経済展望」というブログの天才に関する記事を引用させていただいた。


「若い時に音楽的才能があっても、ある時からピタリと曲が書けなくとこがあるようですが、ヒット曲を出して儲けようという意識が才能を枯渇させてしまうのかもしれない。最初の頃は儲けようとして曲を書いているのではなく好きで書いていたのが、ヒット曲を出して何億も儲かると生活が変わってしまって、それを維持するためにヒット曲を書こうとする。しかし欲が先にたつと曲が書けなくなる。
 
 ブログにしても同じであり、前はいい事を書いていたブログが有料化して精彩がなくなってしまったようなブログやメルマガが良くあります。欲が先にたつと良いものが書けなくなるというのは才能が枯渇しやすいからだろう。もちろん良い小説を書き続けたり良い曲を書き続ける音楽家もいますが、好きで書いていたものが評価され続けていたからであり、1億円儲けてやろうと書いたものではないだろう。

 有料ブログやメルマガを書いていると才能が枯渇しやすいのは、内田氏が言うところによれば「才能は自己利益のために用いると失われる」ものらしい。才能は世のため人のために使わないと枯渇してくるのは神による差配によるものだろう。『才能を威信や名声や貨幣と交換していると、それはだんだんその人自身から「疎遠」なものとなってゆく』と内田氏は書いていますが、欲に目が眩めば世の中が見えなくなってくるからだろう。」



 この記述に対して、次のようなコメントを付した。


「このことは自分がずっと頭を痛めてきた問題である。
 これについては自分自身の年頭の計に関わってくることなので、また後で書くことにする。」



 このことは、これから国體論という「はかりごと」を経営していくにあたって、今解決しておくべき問題と考え、自分語りをして、自己の立ち位置を明確にしておきたかったのである。足元を踏み固めるとはその意味においてである。

 『新西郷南洲伝』執筆・出版の事業には、三十代の精力と数百万の資金を投じたが(その八割は史料の購入や執筆のために投じている)、ほとんど獲た利益と言えるものはない。印税はびた一文入ってこないし、ブログを通じて拙著を購入してくれた方は数人いるが、投じた額からいえば微々たるものである。

 2009年の1年間で、働いた日本人4650万人の内、25%の人の年収が200万円以下だそうだが、すでに述べたように己の好む所に従って、糊口を凌ぐ手段として非正規雇用を選択し、その上、西郷南洲翁の謎を解くという無茶に挑んだので、いまだにそういった境遇に甘んじている。
 これは、南洲翁について世に問う、あるいはそこから見えてきた日本の国體を問うという行為と、食を謀るという行為を結びつけるのに抵抗を覚えるからである。

 孔夫子は「君子は道を謀りて食を謀らず。耕して餒(う)えその中に在り、学べば禄その中に在り。君子は道を憂えて貧しきを憂えず。」と言ったが、食を謀らずとも、道を謀ることに食が付随していることが望ましい。
 そうであればこそ、道を謀ることに全力を集中できる。

 しかし、これまでは、自分の中で、食を謀る意識と、道を謀る意識とがどこか未分化で、食を謀る意識が道の「はかりごと」を害することを、心のどこかで心配していたようなところがある。
 その点、自分の心の弱さを経験的に自覚している私は、まだ雪や霜の季節を乗り切っていない自分の心というものを信用し切れて来なかったのである。
  
 しかし、今回これまでの自分を振り返ってみて、そういったあいまいな心配は無用と考えた。
 まず、ブログ「株式日記と経済展望」の管理人氏が指摘しているようなことは自分に当てはまらない。自分に才能などないし、私欲のために書いているわけでない。
 そもそも日本再生のために書いている。
 だから読者にとって面白い物を書こうという意識もさほどない。
 むしろ、どちらかと言えば読者にとって苦い内容だろう。歴史好きにしたって必ずしも好む内容ではないはずだ。

 蓼喰う虫も好き好きというが、こういった苦い読み物を好むのは、日本の現状に対する嘆きや危機意識を共有している人に限られるだろう。
 ならば危機の時代が過ぎ去ってしまえば、誰も振り返る者もいなくなってしまうにちがいない。

 仮に私が心配するように、日本が現在直面している内憂外患を克服できなければ、中国共産党やその影響下にある日本国内の勢力の焚書坑儒に遭って、私のような主張が世間から抹殺されてしまうのみならず、その生命さえも侵されてしまうことになるだろう。
 中共が、チベットやウイグルのみならず、自国民に対しても行ってきたように。 

 中国共産党が自国民に対して為してきた悪行の数々。
 人民に対する苛政や虐殺はシナ専制権力の伝統といってもいいのだが、中国共産党においては、それが、共産主義の持つ暴力性も相俟って、より過激化された形で継承されている。
 文化大革命や天安門事件を想起してみればそれは十分であろう。
 この国で人民の権利は、命は、権力者に虫けら同然の扱いを受けている。
 日本の既存のマスメディアで隠されてきた事実は、インターネットで調べてみれば、まだまだ容易に触れることが出来る。
 
 中共の影響力が日本に及ぶということは、そういった無慈悲が国内に浸透してくるということである。
 中共やその傀儡を批判する時、自身が遭遇するであろう、そういった情景が頭を離れることはない。
 
志士は溝壑(こうがく)に在るを忘れず、勇士はその元(くび) を喪(うしな)うを忘れず。

 『孟子』「膝文公章句下」に、孔夫子の言葉として紹介されている一文である。

 そこまでは一応の覚悟をしながら、名前を出して、小沢一郎氏や民主党、中国共産党を批判しているのだ。
 よって腐敗・堕落する心配はない。

 あるとすれば、それは中国共産党および傀儡の脅しに屈した時だが、変節は必ず論調に表れるはずで、読者はすぐそれを察知されるだろう。
 天下にそれを隠すことは出来ないし、後世に醜名を晒すことになる。





以下、櫻井よしこ氏のブログより参考となる論文を引用させていただく。


「 毎年10万件の暴動が起きる中国 胡主席が幹部に強調した規制徹底 」http://yoshiko-sakurai.jp/index.php/2011/03/05/%e3%80%8c%e3%80%80%e6%af%8e%e5%b9%b410%e4%b8%87%e4%bb%b6%e3%81%ae%e6%9a%b4%e5%8b%95%e3%81%8c%e8%b5%b7%e3%81%8d%e3%82%8b%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e3%80%80%e8%83%a1%e4%b8%bb%e5%b8%ad%e3%81%8c%e5%b9%b9%e9%83%a8/


中国では毎年10万件の暴動が発生している。一般国民の不満や訴えが、毎日約300件、爆発し続けているのだ。なんと不幸な国家だろうか。それでも、中国共産党は国民の怒りが昂じて、反政府運動に発展しないよう、巧妙に処理してきた。不満や怒りを手っ取り早く抑制するために、中国政府は反日運動を利用し、情報も日常的に規制してきた。それでも足りないとき、彼らには奥の手がある。1989年6月、天安門広場に集まった学生や国民に戦車を繰り出し数百人を殺して鎮圧した。人民解放軍こそ中国共産党統治を支える最終手段だ。

チュニジア、エジプト、リビア、他のアラブ諸国へと広がりつつある国民蜂起を前に、中国共産党首脳部は眠れぬ夜を過ごしていることだろう。2月19日、中国共産党中央総書記、国家主席、中央軍事委員会主席の胡錦濤氏が共産党の幹部教育機関である中央党学校で重要演説を行った。その席には胡主席を含む常務委員会(内閣)のメンバー9人が勢揃いした。

胡主席は、緊急に幹部を集めたのは、「国内外情勢の新たな変化と特色を正しくとらえることが目的」だと説明した。口には出していないが中東の動きを念頭に置いた発言だ。そのうえで取るべき政策は、「社会管理の強化・革新と新しい情勢の下での大衆工作」だと述べた。中国のように「13億の人口を擁し、経済社会が急速に発展している国では、社会管理の任務はより難しく重い」として、「思想・道徳づくりを一段と強化、改善し、社会主義精神文明建設をうまずたゆまず強化し、社会全体の法秩序意識を強めていく」ことが重要だと強調した。つまり、情報管理と規制をより徹底させるというのだ。

中国ではこのときすでに、インターネットで中国共産党の一党独裁打倒などを求める集会が呼びかけられていた。そうした「危険な動き」を十二分に把握ずみの当局は、胡主席の重要演説当日の夜、民主運動関係者らに、20日(日曜日)の外出を控えるよう警告し、数知れぬ警官が主な運動家らの自宅を取り囲み、軟禁した。

それでも翌20日には、13の都市で数十人から数百人がデモをした。小規模なデモである。しかし、この小さな一歩には大きく深い意味がある。

胡主席が「小康社会」(少しゆとりのある社会)の建設を急げと指示したのは、中東の国民蜂起が貧困と格差拡大に由来すると分析したからである。確かに格差縮小は貧しい人びとの不満解消の有効策だが、その先の国民の渇望である精神の自由を、いったいどうするのか。豊かになれば、人間の本能は必ず社会の公正さや精神の自由に向かう。一党独裁を維持できる可能性は大幅に縮小する。それを嫌って、国民を力で押さえつければどうなるか。

人民解放軍の歴史を見ると、誰でも壮大な皮肉に気づく。89年の天安門事件や、2008年のチベット人弾圧、09年のウイグル人虐殺に見られるように、彼らは主として自国民に銃口を向け、武器なき市民を問答無用で撃ち、戦車で轢き殺した軍隊だ。

いま、そして近い将来、国民の蜂起に軍事力で対処すれば、人民解放軍は人民虐殺軍となり、中国共産党もろとも国民の支持を失うだろう。小康社会、力による抑圧、いずれにしても独裁専制支配は危機に直面する。そんなとき、リビアのカダフィ大佐が演説した。「最後の血の一滴が尽きるまで戦う」「戦車を繰り出し、たたきつぶした天安門事件のように(反体制運動を)たたきつぶす」(2月23日)。

国民の敵の正体を自ら語り尽くしたような「名演説」である。人類の歴史に残る許しがたくもこの不名誉なカダフィ大佐の政治のモデルとなってしまったのが中国共産党政権である。彼らが死に物狂いで打ち出す対策とその先の動きから目が離せない。






「 自民・民主両党で国土を守れ 」
http://yoshiko-sakurai.jp/index.php/2011/03/10/%e3%80%8c%e3%80%80%e8%87%aa%e6%b0%91%e3%83%bb%e6%b0%91%e4%b8%bb%e4%b8%a1%e5%85%9a%e3%81%a7%e5%9b%bd%e5%9c%9f%e3%82%92%e5%ae%88%e3%82%8c%e3%80%80%e3%80%8d/

1995年、中国の李鵬首相(当時、以下同)がキーティング豪州首相に「日本は30年後には潰れているだろう」と語った。同発言は、97年、キーティング首相から直接この発言を聞いた自民党の武藤嘉文総務庁長官が、帰国して自民党の行政改革推進本部総会で報告したことから、日本人の知るところとなった。

当時、李鵬発言は中国の外交的、軍事的圧力で日本が潰れていくという意味にとられたが、いま、日本は国土喪失という形で潰滅への道を歩んでいる。官民あげて、中国をはじめとする外国資本に国土を売却せんとする事実を見て、そう思うのだ。

私の故郷新潟県では、新潟市長の篠田昭氏らを筆頭に、市内の一等地である万代小学校跡地の5,000坪を中国政府に売却しようという動きがとまらない。市民の皆さんが開始した反対の署名活動に篠田市長が理解を示すわけではない。名古屋市では名古屋城周辺の一等地を、これまた中国政府に、国が売却する動きがある。売却理由はなんと公務員宿舎建設の資金繰りという国賊のような理由だそうだ。

東京財団は今年1月、外資による日本の国土買収とその対策を「グローバル化時代にふさわしい土地制度の改革を」としてまとめ、発表した。その中に瀬戸内海の無人島、三ツ子島を国が売り出した事例が紹介されている。政府は入札に際して国籍条項を設けておらず、入札価格が高ければ中国でも韓国でもお構いなしに売る姿勢である。

果たして三ツ子島はどうなったか。隣の島で操業する地元の港湾荷役会社が買い取った。この経営者は国家の無防備な姿勢に危機感を覚え、外国資本に買われた場合に生じ得る未知の危機を回避するために島を買ったそうだ。

国土売却の狂想曲

すでに広大な土地が中国資本に買われている北海道では、外国資本への土地売却を地元農協が仲介する事例が報告されている。国土を外国に売る最前線に立つ農協などに存在意義はあるのだろうか。

国家は国土とその上に住む国民によって成り立つ。国家の根幹であるその国土を、政府や市や農協が国籍も問わず利用法の制限もせず、売却する姿は、李鵬発言が現実になりつつあることを示している。

昨年4月、自民党内に「日本の水源林を守る議員勉強会」を立ち上げた高市早苗氏は、わが国の国土管理における無防備ぶりは世界に類例がないと驚く。

「種々の報道からも、切迫した現状がわかります。わが国の国土の約4割は私有林で、そのまた4割近くの土地で所有者が不明です。わが国の地籍調査は1951年に始まりましたが、51%がまだ調査もされていません。所有権も境界も不明の山林が広がり、しかもそれが豊かな水を蓄えているのですから、世界に狙われるのはある意味、当然なのです」

地籍不明の国土の広がりを「太閤検地以降、手つかずのままの土地が残っている」状態と描写したのは『奪われる日本の森』(新潮社)を著した平野秀樹、安田喜憲両氏だった。島国の日本は、国土を外国の勢力から守るという考え方が薄いのである。だが、所有者不明の日本の森とそれに付随する豊かな水資源はいまや国際資本にとって最も魅力的な投資商品になっている。だからこそ、厳正な法律を作って国土を守り、ゆめゆめ、悪用を許さない制度が必要だ。再び高市氏が語る。

「地籍調査が行われていない山林が半分にも達する国は、世界でもわが国だけでしょう。韓国でも国土の地籍調査は100%完了しており、他国ではあり得ない状況です。21世紀は水戦争の世紀です。国民を養い、農業を支えるのに死活的に重要な水資源が、日本では所有者不明の形で広がっている。日本人の目には価値を失ったかに見える土地や山林は、水や木材資源の見地から考えれば他国の垂涎の的でしょう。所有制度の無防備さという盲点を突けば、広大な日本の山林は比較的容易に入手出来る。外国企業にとっては豊かな資源を入手する好機なのです」

日本の土地所有権の強さも外国企業にとってもうひとつの魅力である。一旦取得した土地の利用法について、わが国は政治も行政も殆ど介入出来ない。いわば買ったもの勝ちの世界である。

新潟市で多くの市民が中国政府への土地売却を懸念する理由のひとつが、町の中心部の広大な土地を中国側がどのように利用しても、新潟市も日本国も、口も手も出せないという現実があるからだ。

なんという怠慢

日本として、この一連の山林、土地売却にどう対処出来るのか。外国資本の土地買収を規制すべきだという指摘は、何年も前からなされてきた。だが、外国資本を市場から閉め出すことは世界貿易のルールから見て困難である。最も現実的で国際社会とも折り合っていけるのは、諸国が行っている土地の利用規制である。国土の利用に関して、国防上、環境上、さまざまな規制をかけるのは国際社会においてはごく普通のことであり、日本もそうした事例に倣えばよいのだ。

高市氏ら自民党はこの点に着目して昨年11月、森林法改正案を国会に提出した。内容は、まず民有林の所有者に市町村への届け出を義務づけ、市町村の長が森林の有する公益的機能維持に必要があると認めるときは、伐採の中止や造林を命ずることが出来るというものだ。農林水産大臣及び都道府県知事に対しては、水源の涵養や土砂の崩壊防止など公共の目的に沿って保安林を指定するよう権限の適切な行使を勧める内容ともなっている。

自民党は水源地の取水規制法案も提出済みだが、国防上必要な土地や離島についての売却規制については、現在法案を作成中だ。

肝心の与党民主党はどうか。「外国人による土地取得に関するプロジェクトチーム(PT)」の副座長、田村謙治氏は、毎週1回乃至2回、専門家を招いてヒアリングをしており、民主党としての森林法改正案を3月中にまとめたいと語った。が、座長の一川保夫氏の見方は異なる。

「ようやく現行法の問題点や課題が見えてきた段階です。森林売買などを事前の届け出制にするのか、事後なのか、利用法を規制するのかについても方向が確定したわけではありません。関係省庁の横の連絡をスムーズにするところから始めなければならず、最大限努力するということ以上は、いまは言えません」

なんという怠慢か。多くの国民がわが事のように国土の喪失を憂えている。菅直人首相の「国民のための政治」という言葉が本物なら、たとえ自民党案を丸呑みする形になっても、即、党派を越えて法案を可決せよ。



(引用終了)



ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック