平成二十三年、一年の計 ⑦

 このブログをわたくしごとで埋めるのは不本意ながら、今回もまた自分語りが多くなる。
 どうかご容赦いただきたい。 

 私はこれまで非正規雇用で生計を立てながら、学問を継続し、執筆を行ってきたから、世間で言うところのフリーター(フリーアルバイター)になる。これは『(新)西郷南洲伝』上下巻出版後も変わっていない。
 いわゆるフリーターは34歳までを言うようだから、中高年フリーターに分類されることになる。(「フリーター」ウィキ解説;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC

 しかし、これはあくまで世間的な分類であって、主観的にフリーターと考えて生きてきたわけではないし、今でも考えていない。
 だから周囲の人に安易にそう規定されると違和感を覚えてきた。

 もちろん世間がどう自分を規定しようがそんなことはどうでもいい。
 そんなことを気にしていたら、何とか「南洲伝」執筆の環境を整えて、それに専念していた時期などは、精神活動を活発に行っていた時期にもかかわらず、ニート、引きこもりと分類されることになってしまうだろう。

 その人の置かれた位置、状況によっては自己集中の必要な時期はある。
 自己集中によって世界を見つめる時期は必要である。
 他者との交際が活発で、一見外に開かれた活動を行っているように見えて、実は、非常に閉ざされた精神情況にあることは多い。
 精神活動が見かけとは裏腹に停止していることが往々にしてあるものなのだ。

 江戸期の日本が一面、鎖国という、閉ざされた国際環境にありながら、精力を自己集中することにより、むしろ、多種多様で、より深い世界観を獲得していたことを想起してみてもいい。
 それが明治の大躍進の礎となった。

 江戸期の日本の国際政策は、戦国時代とは打って変わって、列島への引きこもりという一面を持っていたが、これは、日本文明とは異質で、自己中心的かつ独善的なシナ文明と西欧文明から一定の距離を取るという政策であった。
 文明的他者と適当な距離を取るというのは立派な国際政治である。
 むしろ開国、友好、一点張りの前のめりな姿勢のほうが、自分というものが見えず、他者との距離がはかれない、精神活動の停滞なのである。

 これは徳川時代の成果に立ちながら、その成果を否定した明治時代にも見られた、一つの主流を成した思潮であったが、この流れが、大正デモクラシーや戦後の昭和デモクラシー(アメリカに与えられた民主主義)という、啓蒙の明かりに照らされた、自己に対する実質的な無知蒙昧状態を作り出していった。
 この過程で、日本の知識人の多くは共産主義に被れていったのである。
 現在の日本の中枢の赤化の根源はここにある。

 ならば、今の日本に必要な態度が、TPPで開国とか、日中友好とか、東アジア共同体という美名を掲げての思考停止にあるのではなく、精神の自己集中にあることは自明のことであろう。
 自己の歩んできた道、すなわち日本の歴史を見つめ直すことで、日本人のこれからの生き方を見出すのである。
 困難な状況に直面して、失敗を恐れず、その道を歩めば歴史は伝統となって蘇る。

 国体論が重要になってくる所以はそこにあるが、どうしても、その前に国体論を世に問おうとしている自分自身の足元を固めておく必要がある。
公の問題を語るにしても、私という器を通じてしか語ることは出来ないからだ。
 世俗社会で利口に立ち回っているインテリの中には、自分は中道である、というポーズをとりたがる人間が多いが、実は中道という隠れ蓑の中に、はちきれんばかりの私を隠しこんでしまっているケースが多い。これと同じ轍を踏むことは、事が公の問題である以上は許されないのだ。


 先に「フリーター」という雇用形態に触れたが、それも含めた生活様式(ライフ・スタイル)は自らの生き方や事情と密接に関係している。
 いや、むしろこう言うべきだろう。
 個々の生き方や事情の発現したもの、それが生活様式(ライフ・スタイル)である、と。

 「フリーター」という言葉の語源は、ウィキの解説によれば

1985年5月、都内でライブ活動していたシンガーソングライター長久保徹が、夢に向かって自由な発想でわが道を走り続けた幕末の坂本龍馬が好んで発したという「フリー(Free)」に、ドイツ語のアルバイター(Arbeiter)をミックスして、「フリーアルバイター」を造語した。この後、様々な業種に冠としてフリーが付けられるようになる。

1985年6月、公式にフリーアルバイターが発表されたのは、中島みゆき・チャゲ&飛鳥など多くのアーティストを世に送り出したヤマハポピュラーコンテスト(ポプコン)の渋谷エピキュラス大会の際で、エントリーした長久保徹はプロフィール欄に記したフリーアルバイターについて司会者にインタビューされ、「激動の幕末に脱藩し夢のために生き続けた坂本龍馬のように就職というレールから外れても自分の夢を実現するために頑張り続けるための仮の職業」と答えると会場が沸き、会場の観客や同コンテスト審査員だった音楽家・村田博之、作詞家・松井五郎らを介して、マスコミやファッション界へ広がっていった。
 

 とのことである。

 自分の場合、自己実現というような、どこまでも私的な夢の実現のためではなく、自己の切実な問題と向き合った結果、そういった生活形態を選択せざるをえなかったのであるが、それを徹底するうちに、日本社会の問題、ひいては歴史の問題に行き当たったということであった。
 非正規雇用という雇用形式は、この場合、糊口を凌ぐための手段に過ぎない。

 その際、私の精神を支えていたのは、確かに坂本龍馬の詠草「世の人は われをなにとも ゆはゞいへ わがなすことは われのみぞしる」であったし、その師である勝海舟の「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与からず我に関せず」(福沢諭吉の『瘠我慢の説』に対する返事)であったが、当初からはっきりとした「わがなすこと」「行蔵」があったわけではなかった。

 ただ得体の知れぬ壁を感じて、そこに立ちすくんで、これを眺め、その正体を探っていた。今振り返ってみればそういった感じだったように思える。
 思える、と表現したのは、それほど自覚的でもなかったからで、見えない将来に対する不安を前にもがいているうちに、問題の根底にあるものが少しずつ明確になっていった、ということであった。
 その壁を明らかにするには、当時の私の状況では、限定的な責任を負えば成立する雇用関係である、非正規雇用という生活形態が必要であったと思う。
 自分は自己の切実な問題にとらわれており、社会との接点を保ちながらも、どうしても精力をそちらに傾ける必要があったのである。

 そういった生活形態に耐え続けるうちに、心は様々な言葉で満たされ、壁の正体が少しずつ見えてくるようになった。
 


 『論語』に次のような言葉がある。
 
 子曰く

 富にして求めべくんば、執鞭の士と雖も、吾またこれを為さん。
 如(も)し求むべからずんば、わが好む所に従わん。


 孔子は必ずしも富を求めてはいけないとは言っていないが、少なくとも自分の好む所を選択しようと言っている。

 その後半生を伝統の復活のために擲った孔子を誰もフリーターと同一視はしまい。 
 

 私の場合、これら賢人智者の言葉を精神の支えとするとともに、これを好み、歴史を好んだ。

 自分を内から顧みて、とことん掘り下げていくと、どうしても自分が歴史という大地に立っていることにいやおうなく気づかされる。
 日本の歴史という大地は地表面積こそ広大ではないかもしれないが、底知れぬ深さを持ち、重層的である。その地表の下がどのような地層、地殻で成り立っているのか、そう簡単につかめるようなものではなかったが、それを掴むきっかけを与えてくれたのが、南洲翁という屹立した歴史存在であった。

 私は前にこれを富士山に譬えた。
 この山は雲がかかっていて頂上は見えないが、少なくとも巨大で均整の取れた威容を持っていることだけは下界からでもわかる。
 私はそれを孔子という賢者の言葉を杖にして登ることで、その山容を明らかにしようとしたのである。 
 そこから日本の歴史という大地の景色が開かれはじめた事はすでに触れた。と同時に、この山が活火山であり、その地中深くに無尽蔵のマグマを静かに湛えていることを感知したのである。

 古来、富士山は「不二」とも「不尽」とも表記されてきたが、南洲翁もまた日本の歴史上「不二」にして「不尽」の存在であるし、それに表象される日本の歴史・伝統もまた「不二」にして「不尽」のものである。
 
 人能く道を弘む。道、人を弘むるに非ず。

 私にとって道を行うとはこれを再生するために尽力することである。


 孔夫子は言っている。

 君子は道を謀りて食を謀らず。
 耕して餒(う)えその中に在り、学べば禄その中に在り。
 君子は道を憂えて貧しきを憂えず。

 
 君子ならぬ自分は、飯さえ食っていければいいと考えているので、貧しきを憂えるということはないが、少なくとも最低限の食を謀らねば生活を維持していけず、今のところ「フリーター」という社会的地位に甘んじている。 
 まあ、しかし、そんなバブル時代の徒花である、内実を欠いた和製英語よりも、浪人志士という歴史的な言葉で表してもらった方が、その内実が、読者の脳裏に浮かんでこよう。
 最低限の努力で食を謀り、残りの精力を志した道に傾注する。
 もっと利口に立ち回れればこれに越したことはないのだが、不器用な生き方は、私の思想と根がらみなのでこればっかりは致し方ない。


 フリーターという言葉を作ったシンガー・ソングライターは、この言葉の意味を「激動の幕末に脱藩し夢のために生き続けた坂本龍馬のように就職というレールから外れても自分の夢を実現するために頑張り続けるための仮の職業」と規定したという。

 郷士という下級藩士の次男坊として生まれた龍馬にはそもそも職業の選択をする余地はなく、武士社会におけるレールなど目の前に存在しなかった。
 その意味で、このシンガーソングライターの認識は間違っているし、龍馬の夢そのものは「日本を今一度洗濯いたし」、皇室を中心とする伝統的な日本の国體を再生させ、外国に侮られずに済む国にする、という公のものであった。
 
 君がため、捨つる命は 惜しまねど 心に懸かる 国の行末

 この詠歌にはその思いが、命懸けの思いが、はちきれんばかりに詰まっている。
 そして、龍馬は実際にそのように生きたのであった。

 幕末という激動の時代に、龍馬は私的成功、自己実現という夢に走ったわけではないのだ。
 浮かれた時代の私的成功を夢見る芸人の卵の自己規定に引き合いに出されて、龍馬もさぞ迷惑していることだろう。
 
 
 江戸時代、浪士とは様々な事情で仕えるべき主君を持たなかった人だ。
 要するに幕府や藩という組織の正規の構成員ではなかった人々であり、藩から禄をもらっていなかったという生活形態に着目すれば、武家社会における、今で言う非正規雇用の人々ということになる。
 彼らは様々な手段で生計を立てた。

 一方で志士とは、公の志を持った人で、心の中に君子の種を持った人と言っていいと思う。
 この浪人と志士という言葉が結びつくと、志を持って浪人をしている人ということになる。坂本龍馬などは志あるがゆえに脱藩浪人となった。
 その意味で、浪人志士は、公を担う人としての完成を意味する君子の卵といってよい。

 今でこそ我々は、特に男子を呼ぶ場合に、大した意味も込めず、だれだれ君と呼んだり、複数の場合は諸君と呼んだりするが、こう呼び始めたのは、幕末の志士であった。
 一説によると、こう呼び始めたのは、長州藩の上士で、吉田松陰の高弟であった高杉晋作であったという。
 高杉といえば、『論語』「三軍も帥を奪うべきなり、匹夫も志を奪うべからざるなり」から、志願兵からなる身分を越えた軍隊「奇兵隊」を創始した人物である。

 この場合のだれだれ君は、当時の武士階級必須の教養であった儒教において人格的完成者を意味する「君子」から来たと見ていいだろう。ならば「諸君」「諸君子」ということで、英語で「レディース・アンド・ジェントルメン」といった時の「ジェントルメン」に近い。
 つまり、彼らは相手を君子と見立てたということだが、君子たることが難しい以上は、そこには君子たれとの相互の訓戒が込められていたと見たほうがいい。(もっとも高杉自身は、師である松陰に倣って、孔子が、中道なる君子の次なる者と高く評価した、進取の精神を持った「狂者」たらんとしていたようだが。)

 孟子は孔子の狂者に対する評を敷衍して次のように言っている。

「…何を以てこれを狂と謂うか。
 曰く、その志嘐嘐然(こうこうぜん…志が大きく言うことが大げさな様)たればなり。

 曰く、何を以てこれ嘐嘐たるか。
 (曰く) 言、行いを顧みず、行い、言を顧みずして、すなわち、古の人、古の人というも、行い何ぞ踽踽涼涼(くくりょうりょう・・・人に親しまず、独り行く様)たる。
 その行いを夷考(かんが)うれば、掩(おお)わざる者なり(行いが言葉どおりにいかない者である)。」(「尽心章句下」)


 読者の方には思い当たるところがあるのではないか。

 孔夫子、南洲翁と言いながら、志に、言葉に、なかなか行いが追いつけない人物がここにいることに。 

 今自分は、危機の時代を迎えて、その戦後社会を克服すべく、日本人たるの道とは何か、この国本来のあり方とは何かを国体論として問おうとしているのだから、内職で生計を立てようが、何で生計を立てようが、あくまでも狂者にして、浪人志士である。

 このブログは、その浪人志士が、日本人たる道を憂え、その道を謀る趣旨で書き綴っている。

ニッポン、ファイト!

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック