平成二十三年、一年の計 ⑤

 画期的な仕事に孤独はつきものである。
 ブログはその孤独な作業であった『(新)西郷南洲伝』執筆の延長線上で書き続けている。

 読者は数は少ないが、そのほとんどが沈黙の読者である。私はこれを好意的に受け止めている。
 戦後的な価値観で育ったままの旧友には敬遠されているのを感じるが、私の方にも多分の違和感が生じていることも事実だ。
 だが、これは当然のことだ。
 南洲翁を通じて、日本の伝統というものに目覚める前の自分に、ここで書いていることを読ませても、やはりよく飲み込めず、敬遠するだろうと思うからだ。


 ところで、前に、南洲翁を富士山に譬えたが、これは独創でもなんでもない。

 「文天祥、正気の歌に和す」と題された藤田東湖の有名な漢詩がある。

 天地正大の気、粹然として神州に鍾(あつ)まる。秀でては不二(富士)の嶽と為り、巍々として千秋に聳ゆ、・・・・

 この、神の国日本に鍾まった天地正大の気。
 その気を凝縮したような、明治維新という先人達の偉業の中で、特にその正気が凝縮した人物として、南洲翁を想起したというに過ぎない。

 もっと種を明かせば、『論語』「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」とあるが、維新の人物でこれにふさわしいと思ったのが南洲翁だったからこそ、巍々として千秋に聳える富士に譬えるのが自然に思われたのである。
種は土壌がしっかりとしていれば芽吹き、後は太陽の光と水さえあれば自然と育つ。

 明らかに維新の功臣の中で、南洲翁は屹立した存在である。
 それこそ、日本に数ある山の中でも屹立した存在である富士のように。富士こそは日本を象徴する山といっても異論はないだろう。
 江戸時代、富士山が、二つとない存在という意味で、漢字で「不二」と表記されていたことからもそれはわかろうというものだ。

 水とは流れ行くもの、山とはかわらぬもの、動かぬものの比喩である。
 不易と流行。
 南洲翁はこの流行と不易の間で、真を追求した人である。
 翁はこれを天地自然の道といった。

 南洲翁は、事に処しては知者であると同時に、仁者であった。
 弟の従道などはこの兄を薩摩第一の知者として尊敬していたし、黒田清隆は仁者と見ていた。あの翁嫌いで有名な大隈重信でさえ、西郷は仁者に近し、と回想では、いやいやであろうが認めていたほどである。

 南洲翁はやはり山に譬えるのがふさわしい。

 薩摩の英雄として、桜島に譬えるのもいいだろうが、日本の英雄として富士山に譬えるのも決して的外れではないだろう。
 幕末維新の際雲霞の如く登場した人物群の中で、南洲翁の存在感は屹立している。近代合理主義者が見落としがちな、時代を超えた人格的影響力という点で、正に南洲翁の存在は別格なのだ。
 

 私が様々な視点、立場に立って記事を書き続けているのは、葛飾北斎の「富嶽三十六景」、あるいは「富嶽百景」のようなものだ。(ウィキペディア「富嶽三十六景」解説;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B6%BD%E4%B8%89%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%99%AF
 不動の実態である富士を、様々な季節、距離、角度から描写してみる。
 時には、庶民の生活風景の遠景に南洲翁がチラッと顔を覗かせているくらいの構図の画もある。さらには別の事件の背景に、姿を隠してしまっていることもある。 
 しかし存在が意識から消えているわけでは決してない。
 大東亜戦争を語る時も、そこには南洲翁という歴史的存在を意識しているし、幕末の情勢に近い、現在の政治や国際情勢、デモを語る時にも、当然ながら念頭にある。
 
 富士の麓で、常にこの山を意識しながら、抱かれるように生活し、時には移動して位置を変えながら、スケッチを描く。
 もちろん、麓に咲く野草、路傍の石を描くときも、それはある意味、富士のスケッチであるし、晴天の空を描くときも、暁の空を描くときも、黄昏の空を描くときも、それは富士のスケッチなのである。
 もっとも、この山に近づいて見上げた視点で描くことが多いが、私はこの山に日本の伝統、その中の至高のものを重ね合わせているのである。
 この山を中心とした天地のスケッチはやがて日本の歴史・伝統のスケッチとなるのを予感しながらの作業である。 


 二年程前に書いて、途中でそのままになっている『南洲翁遺訓解説』のように、主役として、正面から向き合ったスケッチもある。「凱風快晴」「山下白雨」のような、静的な威容の中に秘められた動的ダイナミズムを描こうとした記事である。
 
「神奈川沖浪裏」のような、静的な山と動的な波浪を絶妙に組み合わせて、静が動を、動が静を、お互いに引き立てあうような、富士の静的威容と動的ダイナミズムを同時に描くことは、ブログという媒体では難しいが、『(新)西郷南洲伝』の完成が目指すものはおそらくそれであろう。

 残念ながら北斎のような天賦の才を持たぬことが恨みであるが、ないものはないなりにやっていくしかない。
 まことに非才な私としては、任重くして道遠し、である。 

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック