草莽崛起!尖閣抗議デモの歴史的意義 (その弐)

 前回、日本文化チャンネル桜の水島総氏が中心となって行われている国民運動、およびテレビメディアを駆使した情報戦が、楠木正成の決起の伝統に連なるものであることに触れました。

 これについてもう少し書いておきたいと思います。

 かつて司馬遼太郎は『この国のかたち』というエッセイの中で、ほとんど伝説的な楠木正成の英雄的な戦いについて次のように書いています。

 「楠木正成が宋学の徒であったかどうかは、直接の史料にはない。が、傍証的にはそうだったろうと考えられる。
 その家は草莽の土豪にすぎなかった。かれは後醍醐天皇の流浪時代に先んじて討幕の挙に参加し、河内金剛山のふもとの赤坂に、満天下の敵をひきつけるための城塞をつくった。
 これによって世間がどう動くかということを見きわめぬいていた人物だった。かれは卓越した戦術家だっただけでなく、世間というものを、心理学的に、あるいは政治力学という点で、心得きっていたといえる。こういう器量の人物は、それ以前の日本史には見あたらない。
 要するに、千に満たぬ手兵をもって幕府軍二十万七千六百騎(『太平記』)の大軍に対抗したのである。その間、神秘的なほどに巧緻な要塞戦を演じて、天下を統べる北条執権府がいかに無能で弱いかを天下に曝け出させた。げんに天下の多くが、北条執権府を見かぎった。大量伝達方式(マス・コミュニケーション)のない時代に、それとおなじ効果のことをやってのけたのである。」(『この国のかたち 一』)


 この戦いの伝統を踏襲したのが、幕末の王政復古討幕運動でした。

 王政復古討幕運動に多大な精神的影響力を及ぼしたのが水戸学です。
 その開祖義公水戸光圀、いわゆる水戸の黄門様は、それまで単なる軍略家として評価され、庶民的人気の高かった楠木正成を、宋学的規範における尊王家、忠臣として、再発見し、顕彰しました。
 それ以来、儒者室鳩巣などの批判もありましたが、概ね、大楠公の行動は、儒者の批判に堪えうるものであり、幕末において、勤皇家の鑑とされたのです。

 幕末の憂国家、勤皇家の多くは、楠木正成を自己の鑑として行動しました。それらは、西洋列強の横暴に対する怒りやこれに対する幕府の政治への不満に端を発する、単発的な草莽の運動から、薩長の盟約締結を機に、土佐を始めとする優柔不断な諸藩を巻き込んで、大きな王政復古討幕運動に向けての流れを合していくことになります。
 維新回天という歴史の大河はそのように成ったのです。

 その運動の統合者として、維新回天の偉業の中心的役割を果たしたのが、西郷南洲翁でした。
 南洲翁は楠木正成の戦いに呼応して九州熊本で討幕に決起した菊池一族の末裔です。南洲翁は、王政復古に際して、ご先祖が参加した「建武の中興」を範にし、これを継承発展させた戦略を以て、討幕を行おうとしたのです。


 薩摩藩首脳が義挙を決意したのは、慶応三年五月のことで、大政奉還の数ヶ月前のことです。南洲翁を中心とする薩摩藩首脳は、天下の公論に基づく政治への布石として、諸侯会議の開催に向けて運動を行い、これに漕ぎ着けました。
 これが同四月から五月に行われた諸侯会議です。
 伝統的な歴史観、国体観に則した道理を推究し、公論を掲げ、妥協なき態度で会議に臨んだ薩摩藩でしたが、それは幕府のために阻まれて、薩摩藩は挙事を決意します。

 
 その内容は、南洲翁が、国許への連絡のため、京に潜伏していた長州藩士に語ったことで明らかですが、後に続く人々がいることに期待して、京において、薩摩藩単独で挙兵を行うというものでした。
 これはもちろん、薩摩藩の自己犠牲的な義挙によって、天下の有志の義心に訴えて、これを奮い起こすことで、当時の閉塞した状況を打破しようというもので、大楠公の決起という歴史的記憶が、討幕の成功という歴史的経験があったからこその決断でした。 

 この決断によって、討幕派が合流するだけでなく、日和見の勢力も動き出します。
 南洲翁が坂本龍馬の盟友中岡慎太郎の斡旋で、土佐討幕派の領袖板垣退助に面会したのは、薩摩藩首脳が諸侯会議による幕政の矯正を断念した前後の五月二十一日の事でした。
 ついで、大政奉還策を引っ提げて、京の政界に登場した後藤象二郎が、龍馬の斡旋で、南洲翁に面会したのが、挙兵の準備のために薩摩に帰国する予定二日前の六月二十二日のことでした。
 この会合で薩土盟約が結ばれますが、これは必ずしも薩摩藩の方向転換を意味するものではありませんでした。
 なぜなら、諸侯会議の最中、南洲翁は、会議に出席資格のある島津久光公に、最期の将軍徳川慶喜公との交渉に関する建言を行って、その中で、大政奉還を勧めているからです。

 そこにはこうあります。

「いずれ天下の政柄(政権)は、天朝へ帰し奉り、幕府は一大諸侯に下り、諸侯と共に朝廷を補佐し、天下の公議を以て所置(処置)を立て、外国の定約(条約)においても、朝廷の御処置に相成り候て、万国普通の定約を以て御扱い相成り候わば、忽(たちま)ち御実行相挙がり、万民初めて愁眉を開き、皇国のために力を尽くさんことを冀い、人気振い起こり、挽回の期に至り、一新致すべき事と、大道を以て御諭解在らせられたき儀と存じ奉り候。」(「西郷隆盛全集」)

 米中に翻弄され続ける戦後日本の内政外交、自民党政治の末路、民主党政治の体たらくを見るにつけ、この文書の価値が未だ色あせずにあることを思わざるを得ないわけですが、全集の解説によると、この建言の署名は南洲翁と大久保甲東の連名ですが、本文は翁の筆跡。巻き表には久光公の筆によって「丁卯(慶応三年)五月 西郷・大久保の大趣意書」と記されているそうです。
 久光公もまたこの建言を、この諸侯会議の大趣意と受け取ったのです。
 だからこそ、薩摩藩の抗議が受け入れられないことが判明した時点で、鎌倉時代以来の歴史・伝統を誇る島津家、延いては薩摩藩を擲ってまで、日本に尽くそうとの決断をしたのです。
 久光公は公武合体派で、討幕に反対であったといわれますが、これは俗説に過ぎません。彼の自己犠牲の覚悟を見誤っていては、薩摩藩から見た王政復古討幕運動は何も理解できないのです。
 この後、久光公は京における薩摩藩の指揮権を、南洲翁・大久保甲東・小松帯刀らに委ねて帰国します。これは彼らを信頼していたからです。
 
 NHKの『龍馬伝』がどのように描いているか知りませんが、大政奉還策は、龍馬ファンはどうしても彼の手柄にしたいと思うところでしょうが、むしろ当時の先覚的な指導者が起こしつつあった大きな勢いに乗ったところに、彼の真骨頂はあったと見るべきでしょう。

 ともかく、王政復古討幕運動は、言論の自由や選挙なき時代における、公議公論という名の、言論による幕府矯正に失敗したがために、次の段階である武力決起の段階に移ることになりました。
 そこで用意されていたプランが、大楠公の決起をモデルにしたものだったのです。
 これは紆余曲折を経て、王政復古の大号令以後まで発動を持ち越すことになりますが、結局、鳥羽伏見の戦いにおいて幕府側が不甲斐ない戦いに終始したために、そのまま、発動されることはありませんでした。
 しかし、彼らの胸のうちにイメージされていたのは、常に建武の中興における大楠公の戦いをモデルにした戦いであったことは間違いなく、その物的・精神的構えが用意されていたからこそ、根気よく、しかも柔軟に王政復古討幕に向けて歩を進めていくことが出来たのです。


 私の力不足で、一般にはまだまだ認知されていませんが、後の西南戦争も同じ精神に則った戦いでした。
 私はこれを拙著『(新)西郷南洲伝』で一次史料・二次史料を基に、緻密に論証したつもりですが、数少ない読者からの反応は、私が南洲翁に惚れこみ過ぎていて、贔屓の引き倒しで、翁の言動に無理やり「理」を読み込んでいる、という趣旨のものがほとんどでした。
 しかし、です。
 惚れこんでみて、信じ込んでみて、初めてわかることがあるのです。
 しかも、似たような年齢だからこそ理解できることもある。
 似たような時代状況に置かれて、はじめてわかることもある。

 強く信じるからこそ、強く疑えるというのは、一つの真理です。
 そういった懐疑を潜り抜けなければ、本当の確信を得ることはありません。
 
 その懐疑を潜り抜けた私の経験で言えば、南洲翁は本物である、というのが私の持った確信なのです。


 
 それはさておき、南洲翁の、楠木正成の赤坂の戦いに匹敵する戦いは熊本城を巡る攻防ですが、これは孫子の兵法に則ったもので、俗説の言うように、薩軍は孫子が下策とした城攻めに固執したわけではありませんでした。

 彼らが熊本城を力攻したのは、実は最初の一日二日のみで、後は城を取り囲んで、これを囮に、雲霞の如き政府軍をおびきよせて、長期にわたって翻弄、あわよくば破ることで、天下を統べる明治政府、その実、非征韓派内閣が、いかに堕落して、無能で弱いかを天下に曝け出させようとしたのです。
 そして、現政権の政治に義憤を抱く勢力の全国的な決起を誘おうとした。

 南洲翁がただ単に担がれて、薩軍を積極的に指揮しようとしなかった、というのは、翁の言動をよく理解せぬままに好意的に解釈しようとした俗説に過ぎません。
 翁はこの戦いを義戦ととらえ、孫子の兵法を駆使して、本気で戦ったのです。そうでなければ、田原坂の激戦以降の、あのような難戦を半年の長きにわたって続けることは不可能だったでしょう。
 そのことがわからなくなったのは、第二次大戦後、西欧において反省されるようになった、クラウセヴィッツ以来の西欧近代兵学を以て、アジア伝統の孫子兵法を応用した戦いを理解しようとしたからです。

 では、本気の彼らはなぜ敗れたのでしょうか。
 主な敗因は、彼らが義にこだわり過ぎた事が一つ。
 もう一つは、官主導の近代的諸施設の導入や、讒謗律や新聞紙条例といった政府批判を封ずる法律により、政府軍の側に、電信や新聞といった大量伝達方式(マス・コミュニケーション)を独占されてしまったことにあります。

 このことによって、この戦いの大義は、天下に伝わることはなかった。
 天下の有志は、南洲翁が、薩軍が、政府による暗殺団の派遣を怒って、すなわち私憤によって、挙兵したと受け取った。

 これでは天下の義士が呼応して決起することの十分な動機とはなり得ません。

 このことは同時代の人々の南洲翁に対する理解を妨げただけでなく、後世の南洲翁を、西南戦争の意義を、読み取る目を曇らせることになりました。
 この問題に対するしっかりした反省がなされていれば、日本人の情報戦に関する感覚もよほど鋭いものになったと思われます。

 そうすれば、大東亜戦争敗戦後に始まった戦勝国の情報戦に対する態度も違ってきたでしょうし、それに擦り寄った日本のマスコミがそうやすやすと中国が仕掛けてきた工作にしてやられることもなかったでしょう。
 今の中国は彼らが「超限戦」と呼ぶ、無制限戦争を仕掛けてきています。その中で、中国共産党が成立当初から日本に仕掛けてきた伝統的戦略が、このマスコミを使った情報戦なのです。
 彼らの発する日本断罪の言葉は全てこの意図に則ったものと見ていい。

 西南戦争を正確に理解することは、ある意味、現在、第二次世界大戦の戦勝国の情報戦にやられて、日本人として腐敗の極みにあるマスコミ、政治家、財界人の根源を正すことに繋がるのです。

 ともかく今の時代は、彼らによって作られた偽りの情報の洪水の中で、日本人が溺死しかかっていて、待ったなしの状況に差し掛かっています。 
 
 西南戦争は、日本の伝統と近代が衝突する、その大きな、大きな節目の戦いでした。薩軍の主張は、マスコミという権力、およびこれに群がった人々の大きな声にかき消されてしまいました。
 西南戦争の大義、真実は、この戦争をきっかけに始まったマスコミュニケーションの普及による情報の洪水に埋没してしまったのです。

 唯一の光明がインターネットを介して、国民に真の情報がもれ伝わって、政治やマスコミの情報統制が及びにくくなっているという現状でしょう。尖閣問題における衝突ビデオの流出がいい例でしょう。 



「頑張れ日本!全国行動委員会」主催のデモには、楠木正成や南洲翁の戦いにおける兵力や城塞といった物理的実力はありません。
 しかし、戦国大名の武田信玄は、「人は城 、人は石垣、 人は堀。 情は味方、 仇は敵なり」と言いました。
 デモに自発的に集まった人こそが、城・石垣・堀と言った物理力に匹敵する力を持つのです。そして、これらの人々の良識、「やまとごころ」に発する義理人情こそ味方であり、中国共産党とその下部機関に成り果てている民主党政権を始めとする政治家、マスコミ、財界人こそが日本の敵と言っても過言ではありません。

 『中国共産党の日本解放計画』で紹介した中国共産党の工作機関の秘密文書「日本解放第二期工作要綱」にあるように、彼らは情報戦を行って日本を間接侵略しようと、何十年にもわたる工作を続け、これは完成間近まできています。

 楠木正成の時代にあっては、大量伝達方式(マス・コミュニケーション)は存在しなかったがゆえに、武力を使った英雄的な戦いを必要としていました。
 しかし、ますコミュニケーション手段の発達した現代は、まずは、この楠木正成、南洲翁の戦いの伝統に則って、情報を以て戦わなければなりません。


 今回大阪で行われるデモは、関西では初めての大規模な興日運動です。
 関西人は関東人には負けていられません。
 大楠公が決起した関西で、デモを盛大、整然と執り行って、日本人の意気を、世界および中国に見せ付けましょう。そして堕落した日本人にも。

 そのことが、国内の売国・犯罪的な中国協力組織や人物を燻り出し、下から突き上げて、彼らの影響力を国政から排除することに繋がるのです。
 現に、すでに行われたデモにいかに処するかで、NHKを筆頭とする反日メディア、反日政治家の異常は燻り出されております。
 彼らは軒並み中国共産党の立場を擁護するプロパガンダを、公共の電波を使って、あるいは公共の場で、行っているのです。
 デモに参加することで、日本国民がいかに正しい判断を行う上で必要となってくる正しい情報を与えられていないか、彼らにいかに愚弄されているか、そのことを肌で感じることができるでしょう。



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