やまとごころ (その壱)

 大和魂、和心と聞いて身構えてしまう方には、そんな必要はない、と言っておきたい。

 「やまと魂」「ますらをの、をゝしくつよき、 高く直き、 こころ」としたのは江戸期の国学者賀茂真淵であったが、これは彼の思想が強く反映した定義であって、古来そのような使い方が為されてきたというわけではない。
 
 大和言葉としての「やまと魂」の初出は『源氏物語』で、光源氏の台詞の中に見られる。

「猶、才を本としてこそ、大和魂の世に用ひらるゝ方も、強う侍らめ」
 
 つまり才(ざえ)に対するものとして、大和魂という言葉が用いられている。
ここに言う才とは、漢学の才ということだ。


 一方、「やまと心」という言葉の初出は、『後拾遺和歌集』の赤染衛門の歌である。

「さもあらばあれ 大和心し 賢くば 細乳(ほそぢ)に附けて あらすばかりぞ」

 赤染衛門は文章博士大江匡衡の妻で、乳母として奉公に上がった女性の乳が貧相なのを見た匡衡が

 「果(はか)なくも 思ひけるかな 乳(ち・・・知とかけて)もなくて 博士の家の 乳母(めのと)せむとは」
 
 と詠んだことに対する返歌として、赤染衛門が詠んだ歌である。

 つまり、文章博士という当時のインテリの立場から、乳母の知のなさを皮肉った匡衡に対する反発から、妻は、大和心さえ賢ければ、乳母として問題ないではないか、と返したのである。
 ここでも「大和魂」「大和心」とは、才芸および知識に対する、生活に密着した知恵とか、常識とか、素直な感情とか、そういったものを表す日常的な言葉だったことがわかるのである。
 
 これは『今昔物語』の用例からもっとはっきりしてくる。

 ある晩、明法博士善澄の家に強盗が押し入った。
 善澄は板敷の下に隠れ、難を逃れたが、強盗たちが門を出たところで、門前に飛び出して、お前らの顔は皆見覚えたから、検非違使の別当に訴えて片っ端から召し取らせてやる、と言わずもがなのことをわめきたてたために、引き返してきた強盗たちに殺されてしまった。

 そこで物語の作者は次のように結ぶ。

「善澄、才はめでたかりけれども、露(つゆ)、和魂(やまとだましい)なかりける者にて、かかる心幼き事を云いて死ぬるなり。」
 
 作者が言いたいことは、善澄は学問が出来て、強盗たちの顔を覚えるほどの記憶力を持っていながら、和魂が露ほどもなかったために、余計なことを言って殺されてしまった。つまり世間知が欠けていたために、その才も生かせなくなってしまった。
 当時すでにそのような学問と常識との関係に対する世間知があったのだ。 

 知識ばかり詰め込んだ、頭でっかちが、いざという時に見せる幼稚な顔(それが素顔と見ていいだろう)。読者の身の回りの、そこかしこに、思い当たる人物はいよう。明治維新以来、漢学は洋学に変わったが、日本の典型的知識人の生態は古代から変わらなかったことになる。

 空理空論に走りがちな「からごころ」を排し、「やまとごころ」を 『古事記』の世界にまでさかのぼって推究し、これを止揚して、道の学問にまで高めたのが、賀茂真淵の弟子の本居宣長であった。
 これは日本人の本来的な知恵、精神を回復する偉業であったといえる。
 これが彼の有名な和歌、

「敷島の やまとごころを 人問はば 朝日ににほふ 山ざくら花」

に凝縮していると見ていい。

 この宣長の「やまとごころ」がどのような内容のものであったかを問うてみると、さまざまな連想が沸いてきて、これをどう説明したらよいものか戸惑う。
 ただ古代日本人の心に精通していた宣長の言う「やまとごころ」には、紫式部や赤染衛門が使った、生活に密着した知恵・感覚・感情という意味での意(こころ)は生きている、ということはいえると思う。
 だから我々はこれを恐れる必要はない。

 しかし、その全容がわかりにくいのは、彼はこの言葉の持つ下心(それは我々が知らず識らずのうちに捕らわれている、言葉自体が持つ言霊の働きだが)、彼はその根を掘り下げて、さらには、これを道という形而上の学問まで育て上げたからだ。
 その生育の添え木となったのが、孔子、特に荻生徂徠が読み解いた孔子の思想だったのである。
 彼が孔子の思想という、いわば「からごころ」を支えに、さらにこれを突き抜けて見えてきたことは、彼の主著『古事記伝』の序の、「この篇(くだり)は道といふことの論(あげつら)ひなり」との副題が添えられた「直毘霊(なおびのみたま)」に集約されて論じられている。

 『古今和歌集』には素性法師の「そこひなき 淵やはさわぐ 山河の 浅き瀬にこそ あだ浪はたて」という歌があるが、静寂に包まれた「そこひなき淵」こそが彼の「やまとごころ」の真骨頂だろう。
 あだ浪の立ち騒ぐ浅瀬に生きる我々には、その真の姿をなかなか見せてはくれないが、近代という喧騒を離れ、賢しらなおしゃべりを止め、じっとその声に耳を澄ませば、静かに応えてくれるはずだ。


 この宣長の「やまとごころ」は、幕末の志士、吉田松陰が留め置かんとした「大和魂」とはやや趣を異にするようだが、そんなことはない。
 宣長の活躍した寛政とは違い、幕末は、彼が再発見した、この「やまとごころ」が西洋列強という力の文明によって無理やり犯されそうになっている時代であって、鋭敏な松陰にあっては、「もののふ」としての矜持と相俟って、その伝統精神の防衛が強く意識された、ということなのである。
 つまり、松陰は長州藩士として、また山鹿流の軍学者として、「やまとごころ」の防人としての立場に身を置いたのであって、根は同じものと見ていいのだ。
 そして、それは賀茂真淵が言ったところの「やまと魂」に近いものとなった。
 
 そして、さらには、宣長にせよ、松陰にせよ、江戸期の学問の伝統から決して外れることはなく、その思想の添え木として、古代シナにおいて、伝統防衛のためにその生涯を擲った孔子の思想の感化を大いに受けたのである。
 これは南洲翁も同じであったし、明治維新の精神の結晶である「五箇条の御誓文」もそうだった。 南洲翁は遺訓において「孔夫子を教師とせよ」とはっきり言っているし、ご誓文の起草者由利公正は、草稿は四書の精神に則った、ということをはっきり言っている。
 岩倉具視の「王政復古の奏聞書」を見ても、そこに規範を与えているのは、歴史と『論語』である。

 これらの事実は『論語年譜』を書いた東洋史学者林泰輔が言った次の言葉と符合する。 

 中国および朝鮮・安南(ベトナム)においては『論語』を挙業の試験(科挙のこと)に用いたるがゆえに、盛はすなわち盛なりと雖も、名利のためにこれを読みこれを誦し、あるいはその粗を咀(す)いて、その精を棄つるの憾(うら)みあり。我が邦人のこれを読むは、すなわち然らず。その外皮を棄ててその神髄を取る、ゆえに国本培養の効を奏することを得たるなり。

 和魂は、近代という時代を迎えて、『論語』によって培養されたと見ていいのだが、源氏の君が言った「猶、才を本としてこそ、大和魂の世に用ひらるゝ方も、強う侍らめ」というのは、千年の歳月を掛けて、道という、より形而上的な価値規範にまで高められて、国本培養の功を奏したのである。
 その結晶が明治維新という偉業であった。

 問題はその後である。 

 「大和心」「大和魂」によって成った明治維新は、和魂漢才ならぬ和魂洋才を唱えたが、ここにも、洋才(ようざえ)を使いこなす和魂(やまとだましい)という、古代以来の日本の常識人たちが、生活に密着して、日常的に用いてきた言語感覚が息づいていたはずなのだが、やはり明治日本においても、外国由来の才に圧倒されてしまう和魂という葛藤は持ち越されてしまうのである。
 その一つの醜悪な姿が、鹿鳴館の舞踏会だろう。 
 この面から言えば、文明は必ずしも進歩するとは限らないのである。
 
 明治維新そのものに、この洋才に圧倒される和魂と、洋才を使いこなす和魂という、二つの流れは生じていたのだが、これが何とか王政復古の偉業を成し得たのは、志士たちの「やまとごころ」を大きく束ね、大綱により合わせた指導者達がいたからだ。

 その中心人物にして、最も力持ちだったのが西郷南洲翁であった。
 維新の元勲を国技である相撲に譬えるなら、南洲翁は横綱として最もふさわしい人物なのである。だからこそ日本の伝統を愛する人士の南洲翁に対する敬愛の念は尽きることはないのである。(「相撲」に関するwikiの記事はなかなか興味深い。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%92%B2

 さて、その南洲翁が不当に休場を強いられたのが、明治六年の政変、すなわちいわゆる征韓論政変だった。
 これは私の目から見れば、事情は単純ではないが、結果的に、行司家である岩倉具視ともうひとりの横綱である大久保利通が、筆頭行司家三条実美が病に倒れたのを好機として、長州部屋の追い出しを目論む佐賀部屋の新進力士(江藤新平)を排除するために仕掛けた陰謀のとばっちりで、人気、実力、共に一番の南洲翁が不正に追い出された政変だった。
 しかし、一方で、南洲翁もまた、この事件で相撲界を見限ったのであった。

 南洲翁は遺訓で次のように言っている。

 広く各国の制度を採り、開明に進まんとならば、先ず我が国の本体を据え、風教を張り、しかして後、しずかにかの長所を斟酌するものぞ。否らずして、みだりに彼に倣いなば、国体は衰退し、風教は萎靡して、匡救(ただしすくう)すべからず、終に彼の制を受くるに至らんとす(「遺訓」第八条)
 
 南洲翁の鋭い眼差しは、常に本質に向けられ、近代日本の宿痾を予言していたといっていい。
 戦後日本の有様をまるで予言していたかのような発言だろう。
 明治も始めにすでに日本社会が流されつつある、その兆候を嗅ぎ取っていたとはなんとも驚くべきことではないか。
 西南戦争はこの大きな流れに対する「もののふ」の、「やまとごころ」をより合わせての抵抗である。
 当時、「洋才」に圧倒され、これを操るべき「やまとごころ」とのバランスを失った者が政府中枢を動かし、佐賀の乱以降、西南戦争、そして大久保の遭難で終わる内乱の時代を作り出してしまったのである。
 その兆候を後世になっても嗅ぎ取れぬほど、日本人としての感性「やまとごころ」の鈍った人間にその文明史的意義が読み取れるはずがない。

 では、南洲翁が言うところの、我が国の本体を据え、風教を張るとはどういうことなのかといえば、続く条々に、「忠孝仁愛の道は政事の大本」(第九条)、「人智を開発するとは、愛国忠孝の心を開くなり」(第十条)という言葉があることを見ても明らかだ。

 忠孝仁愛「から」の言葉、すなわち「からごころ」を伴った言葉だが、江戸期の学問的伝統を継承していた維新の志士たちにとって、この言葉の下心は、「やまとごころ」であったと見ていい。

 南洲翁の残した和歌は決して多くはないが、遺訓に託した思いを和歌にするなら、忠孝仁愛はまた別の大和言葉に託されただろう。

 上衣(うわぎぬ)は さもあらばあれ 敷島の 大和にしきを 心にぞ着る

 君がため 深き海原 ゆく舟を あらくな吹きそ しなとべの神

 諸人の まことのつもる 船なれば 行くも帰るも 神やもるらむ
 
 いと嬉し 直毘の神の 幸ひかも ひとや(一矢)のうちに 真心は立つ

 敷島の 道に我が身を 捨て小船 風吹かば吹け 波立たば立て

 西郷南洲



 要は「やまとごころ」「やまとだましい」という大和言葉に集約される、直き、まことの心で歩む、八百万の神々に守られた道なのである。

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