明治維新における狂気と理性のダイナミズム

 吉田松陰は、井伊直弼が大老に就任し、幕政改革派や尊皇攘夷派の志士の弾圧に乗り出すと、理性によって突き詰めていった結果、この閉塞した状況を破るには狂の精神によるしかないと達観した。
 この間の彼の言動には、まさに狂的な自己衝迫に駆られたものを感じさせる。
 松陰は老中間部詮勝(まなべあきかつ)の殺害を企て、長州藩の中枢に訴えた。彼は長州藩を攘夷運動に叩き込むことこそ、藩主への忠であると考えたのだ。
 それは幕府という権威に対する挑戦であった。
 これが彼の命取りとなるのだが、彼のこれらの行動の背景にあったのが、既に触れたように「孔孟の教え」であった。
 特に松陰を突き動かしていたのは、この狂の精神であったと言ってよい。

 さて、当初攘夷家たちは名目上朝廷から征夷大将軍職(夷狄を征する将軍)に任命されている幕府にこれを期待したが、安政の大獄を経て、幕府に失望すると、攘夷倒幕を目標とした。
 これもまた狂の発出であったといえるだろう。
 それは文久三年(一八六三年)から元治元年(一八六四年)あたりにピークに達した観がある。
 刑死した松陰の狂の精神を受け継いだ長州藩は、文久三年八月討幕の挙兵を画策し失敗(八月十八日の政変、ちなみにこの直前の七月には薩摩藩が薩英戦争を戦っている)。翌元治元年七月には、君側の奸を攘(はら)う目的で御所に攻め込み、撃退される。
 長州を発憤させたのが松陰であっただけあって、この藩の行動は理性よりも狂気の発動の方が濃厚であったように思える。

 一方の薩摩藩にも固有の狂気がある。
 井伊暗殺への藩士の参加や精忠組の突出計画、島津久光東上時の寺田屋事件など、いずれも狂気の発出である。
 特に寺田屋事件の首謀者の一人で、南洲翁と同じ誠忠組の同志、年齢的にはやや先輩に当たる薩摩藩士有馬新七などは、理性によって突き詰めていった結果、島津久光の上京を機会に、藩主に対する忠義と皇室に対する忠義という矛盾の克服を、この一挙によって成そうとした。
 有馬は、楠木正成の信奉者で、藩を皇室守護のため、討幕に立ち上がらせることこそ、藩主への忠義と信じたのであった。
 それは理性であると同時に、狂気の発出でもあった。

 しかし、それは皇室への忠義を尽くそうとする久光自身の手によってさえぎられた。それが誠忠組の同士討ちという、悲惨な結果に終わったことで、久光の後世の評判は滅法悪いものになったのだが、実は、久光の命令は、島津家と関係の深い近衛家を通じて伝えられた、孝明天皇の上意に則ったものであったことが、今日判明している。

 この事件に前後して南洲翁が捕らえられ、死罪一歩手前の遠島に処されたのは、翁がこの者たちを扇動したと誤解されたからである。
 詳細は鹿児島郷土史の権威芳即正氏の『島津久光と明治維新 久光はなぜ、討幕を決意したか』(新人物往来社)に詳しいが、久光というと、とんでもない保守主義者と考えられ、人物像が歪められて、後世に伝えられている側面があるので、それが誤りであることを一言記しておく。
 久光は浅見絅斎の『靖献遺言』や頼山陽の『日本外史』の愛読者であり、実は南洲翁と同じ思想的背景を持った人物だったのである。このときの卒兵上京そのものが、尊敬する異母兄斉彬の遺策を継いだものであり、江戸幕府開府以来の前代未聞の出来事であった。強い理性と狂気なしには成し得ないことであった。
 
 このように薩摩藩の場合、当初は藩主島津斉彬が、彼の死後は、島津久光を頂点に、遠島から復帰した南洲翁を中心とする指導者群が、指導力を発揮して、狂気の発出を抑え、藩の政治的活動を理性へと導いた。
 翁自身「理に当って後進み、勢を審らかにして後動く」(『西郷南洲翁遺訓』 岸良真二郎との問答で引用されている陳龍川の言葉)と、その方針を常々語っていた。それは孔子の正名論に由来する思想であった。

 そして、孤立して幕府に単独抵抗し、狂気を発出し続ける長州藩も、薩摩と組んで、理性の支配へと移行することになる。
 薩長盟約の意義はそこにあった。
 これらの行きついたところに慶応の末年がある。
 この過程においても、両藩の固有の狂気が、当初は対立しつつ、徐々に支える役割を果たすことで、理性を研ぎ澄ましていることを忘れてはならないだろう。
 薩長盟約締結時、狂的な自己衝迫に駆られた木戸孝允が南洲翁に対して行った、いわゆる八月十八日の政変における薩摩藩の行動への論詰と長州藩冤罪論による切実な訴えは、翁のそれまで持していた理を転換させ、研ぎ澄ました。あの時翁が木戸の言い分の全てを聞き終えてから、「如何にも御尤もで御座います」と言ったのは有名だが、「尤も」とは、今で言えば「道理である」ということである。
 そして以後も、幕軍と対峙し孤立状態に置かれた長州藩の狂的な自己衝迫は、常に理にこだわる薩摩藩の迂遠な方針をせっつき続けたのである。
 まさに、白川博士が言うように「理性は無限に螺旋的に循環し、いつも対極者(すなわち狂気)の力を呼び起こしながら運動する。理性が狂をよぶのか、狂が理性をよぶのかはいずれとも知られない」という感じである。
 明治維新とはまさにこういった螺旋的運動であった。

 南洲翁の内面においても、この狂気と理性の緊張関係は非常に重要である。彼自身理性的でありながらも、狂の精神を濃厚に漂わせていた。

 翁が斉彬に随従して初めて東上した安政元年(一八五四年)はペリー再来の年であったが、彼は藤田東湖に接し影響を受け、水戸の老公が攘夷の魁(さきがけ)をするなら、一目散に駆け付けて攘夷の埋め草になりたい、とまで言った。
 斉彬の死の直後、安政の大獄の嵐が吹き始めたときに、討幕の挙兵を画策したあたりに、翁の狂的な自己衝迫は濃厚に表れているといえよう。
 しかし、天の命か生き残った翁は、島での学問を通じて、内面における狂気と理性の統合へと向うのである。それは狂気を支点としつつ、理性を目覚めさせようとするものであった。

 維新の指導者が攘夷を唱えつつ、政権を取ると開国に豹変した態度を問う人がいるが、それに対する答がこれである。
 これは攘夷から開国への豹変というような浅はかな対置ではなく、この狂気と理性の関係で思考されるべきものだったのである。

 実は翁はこの攘夷というものを、まさに運動のエネルギーと捉えていた。
 すなわち翁は、藩内に未だに充満している攘夷という狂的自己衝迫を、理性的なるもの、すなわち理に基づく方針とは区別・疎外し、それでいて支えとしていた。しかもこの攘夷という狂気は、かつて彼ら南洲や大久保がそこから出発した、いわば自己に内在する精神であった。

 南洲翁に親炙した薩摩人の一人に有馬藤太という人物がいる。
 王政復古の大号令煥発の数日前、翁の教示を受けるまでは、攘夷論者であった。 
 有馬はそれ以前、幕府の専横に対する怒りから、京の二条城を焼き払うために一人脱藩を企てるような狂者であった。
 彼の語るエピソードは、どれも狂的な匂いが漂っている。
 そして、有馬が回想で語っている、翁と彼の関係はまるで『論語』の中の孔子と子路の関係を思わせるものである。
 翁の死とともに、狂なる彼を扱える人物はいなくなってしまい、栄達とは無縁の人生を送らざるを得なかったが、本来、桐野利秋や村田新八のように、西南戦争で死んでいたはずの人間であった。彼が翁の死後、玄洋社の頭目頭山満という南洲翁崇拝者と大アジア主義を唱え、明治日本の狂的運動と合流していくのは自然なことであった。

 のち、大東亜戦争後来日したGHQの調査分析課長で歴史学者(というよりコミュニストにしてソ連のスパイと言った方がいいかもしれない)のカナダ人ハーバート・ノーマンは、この玄洋社を念頭において、「福岡こそ日本の国家主義と帝国主義のうちで、最も気違いじみた一派の精神的発祥地として重要である」と、その西洋人独特の偏見で、日本の理性の部分には眼を向けず、狂気の部分のみを看取した。
 しかし、その狂気の源流には明らかに南洲翁が立っており、幕末の薩摩に遡りうる。
 それはさらに遡れば、日本の神話にたどり着く、いわば日本人の根源的な始原性にかかわるものであった。ここで我々は、霧島を中心とする南九州一体が、天孫降臨を中心とする日向神話の地であり、いわば皇室の聖地であることを想起すべきであろう。
 狂性を含んでいるのは自然である。
 マッカーサーは占領軍指令によって玄洋社を強制的に解散させた。

 しかし、国家主義と帝国主義の気違いじみた狂気はむしろ、それがキリスト教そのものに内在するものなのか、それともキリスト教化以前の始原性に由来するものかは知らないが、ともかく西欧国家の方が凄まじかったといえるだろう。
 彼らにより強く見られる帝国主義という名の、他民族圧服と搾取の意志は、世界の陸地の全てを植民地化するまで止まるところを知らなかった。
 その根底にある人種差別の甚だしさは、ナチスによるユダヤ人の大虐殺、アメリカ人による日本本土空爆という民間人の大量無差別殺戮、果ては原爆の投下まで行きついた。
 アメリカは未だにその狂気を、何の反省もなく、彼らが下等と見なす他民族に向けて発散させている。ベトナムにおける枯葉剤の散布やイラクにおける劣化ウラン弾の使用がいい例だ。
 冷戦崩壊後の文明の衝突という狂気の拡散に、アメリカが自分で気付かぬ内に加担しているのは、自己の狂性を未だ自覚し、反正することがないからである。
 その意味でも唯一の被爆国である日本の存在は、彼らの狂性に対する道徳的抑止力となりうるものである。なぜなら、いくら彼らが、戦争を早く止めさせるためだったと、原爆投下の正当化を試みたところで、その非人道性は覆い隠せるものではないからである。
 原子爆弾の早期開発を、ナチスへの危機意識から、大統領に訴えた天才物理学者でユダヤ人のアルバート・アインシュタイン博士は、戦後、湯川秀樹博士に会った際、その手を握り、涙を流しながら、自己の原爆開発への加担を謝罪したという。
 まともな理性を持っている者なら、自国民の戦争犠牲者を減らすために、対戦相手への原爆投下が許されるなら、世界は破滅に向わざるを得ないことに、気付くはずである。それほど原爆投下の非人道性・残虐性は覆い隠せないものであった。ましてや日本が降服する意思を持ち、和平交渉に動いていることをアメリカ政府は知っていたのだからなおさらである。

 アメリカの自己正当化の論理は、裏返せばアメリカへの脅威となりうる論理である。だからこそ、かつて自身が差別してきた発展途上国の核保有に、アメリカは神経質にならざるを得ないのである。心の奥底で、人種差別も含む、自己の行為と論理が、自分に返ってくることを恐れているのだ。
 それが現在でも世界を混乱させる要因の一つになっている。

 これら西洋国家固有の狂性の発散に対抗する唯一の存在が、明治維新に成功し、近代化を達成した、非西欧国家としての日本であり、実際に歯止めをかけたのがその行き着いたところの大東亜戦争であった。
 このような世界を覆う邪悪な狂気に一国で対抗するには、やはり狂気の発出が必要であった。
 戦後の太平のぬるま湯に浸かった知識人が、戦前戦中の日本人は集団発狂していたと観察したのも、故のないことではなかった。

 ハーバート・ノーマンが指摘するように、戦前の日本に国家主義や帝国主義があったとするなら、それは西欧文化を摂取した時に当らざるを得なかった毒の部分であり、西欧人が憎悪した偏見に満ちた日本人の姿は、鏡に映った自己の姿であり、本来彼らが自ら裁かなければならない彼らの姿そのものであった。
 その毒された部分を過大に取り上げて、それが日本のとらわれた全てだったとする一知半解の言論人が戦後猖獗を極めたという点で、大久保ら外遊組が結果的に南洲翁を政治的に葬り去り、彼に象徴される明治維新の精神を没却あるいは封印することで、西欧文化の毒の流入を許したことは、日本の歴史に非常に大きな禍根を残したと言わなければならない。

 南洲翁は日本が西欧の狂気に包囲されつつある時代状況下で、日本の再生を志し、それを担う者たちとして、有馬や桐野利秋のような命知らずで剽悍な薩摩隼人を愛した。
 孔子の「剛毅木訥、仁に近し」(「子路」)という言葉を既に紹介したが、翁もまた、仁に近いものとして、狂の精神を持つ者を愛したのに違いない。
 翁の遺訓にある有名な「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るものなり。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」(三十条)とは、このことの自己流の表現であった。

 また「道を行う者は、天下挙って毀(そし)るも足らざるとせず、天下挙って誉めるも足れりとせざるは、自ら信ずるの厚きが故なり」(三十一条)なども、実際に実践しようと思えば、狂の発出を必要とするものであった。

 
 このような狂者に乗っかって成し遂げた国家の大業である明治維新を総体的に眺めてみれば、それは理性が、それに内在する狂気とより強く対立しつつも相互に支えあうことで、それを研ぎ澄まし、また一方で、その研ぎ澄まされた理性が、逆に狂という始原性を持ったエネルギーを高め、統合しようとすることで、より強い運動体となって成し遂げられたものであった。
 幕末の騒乱はその過程で起きた出来事であった。
 その統合の中心には必然的に南洲翁がいた。

 筑紫の勤皇尼・野村望東尼が高杉晋作に送った和歌に、「武士(もののふ)の やまと心を よりあわせ ただひとすぢの おおつなにせよ」というのがあるが、南洲翁もまた次のような和歌を詠んでいる。

 みだれたる 糸のすぢすぢ 繰り返し いつしか解くる 御世となりけり

 幕末維新の時代、黒船の来航と幕府の衰退に直面した日本社会は、もののふの理性と狂気が乱れいり、複雑にもつれ絡まり合い、混迷を極めた。
 南洲翁は、自らが孔子の教えに従って、中行、君子となることで、みだれたる糸のすじすじを解きほぐし、もののふのやまと心をよりあわせたのである。

 堯・舜を手本とし、孔夫子を手本とせよ、とは遺訓中の翁自身の言葉だ。

 また遺訓には次のような挿話も語られている。

 翁に従いて、犬を駆り、兎を追い、山谷を跋渉して終日猟(か)り暮らし、一田家に投宿し浴終わりて、心神いと爽快に見えさせ給い、悠然として申されけるは、君子の心は常にかくの如くにこそあらんと思うなり、と。

 南洲翁の泰然たる姿が目に浮かぶようである。

 長州藩との盟約、土佐藩との盟約、江戸城での談判の現場の中心に南洲翁が座っていたのは偶然ではない。庄内藩の降伏に南洲翁が大きな役割を果たしたのも偶然ではない。
 その証拠に、西南戦争の終結によって、社会の屋台骨を揺るがすようなもののふの組織的決起というのは終わってしまった。

 まさに『論語』に表れた孔子思想の神髄は、西郷南洲という時代を凝縮した人格を通じて国本培養の効を奏したのである。

 
 

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 7

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック