菅「奇兵隊」内閣の空虚 (その二)

 自民党が腐敗でだめになった、だから民主党は国民からの負託を受けたのだとするなら、本来なら、自民党の結党趣旨にして、独立国家であることの条件たる、自主憲法の制定こそが、民主党のマニフェストの眼目でなければならないはずだ。
 ところが、そうはならないどころか、それとは逆方向、すなわち日本国家解体を目指す、民主主義の仮面を被った左翼政党しか、政権交代の担い手がなかった、というところにこの国の病巣の深さは現れている。

 この場合、日本国憲法が日本人の手によって作られた、というのは詭弁以外の何ものでもない。
 大日本帝国憲法の改正手続きに則って制定された、日本人の手になる自主憲法であるならば、当然ながら、明治憲法の伝統に則ったものでなければならないはずだ。
 占領軍によって、実質的破棄に追いやられた大日本帝国憲法を取り戻して、それを前提に改正を行う。
 そこに立ち返るなら、ようやく高杉の奇兵隊創設の趣旨という、明治維新の伝統に則ったものともなろう。
 自民党政権がなすべきことは、自主憲法たる大日本帝国憲法、ひいては伝統の破壊者であるアメリカとの馴れ合いを止めて、これを回復することであったのだ。

 しかし、保守政治を目指したはずの自民党政治そのものが世代交代を経て、すでに空洞化していた。
 所得倍増計画そのものは必ずしも間違いではない。
 孔子も『論語』の中で、人口が多い衛の国を、理想の国家に育て上げるために、まずは富ませ、次いで民に教育を施すことを説いている。
 戦後日本が一応の復興を遂げた時に、そのまま所得倍増計画をぶち上げるにしても、それと同等か、それ以上の力を教育に傾注しなけなければならなかったのだ。もちろん、それは戦前(戦中ではない)の教育の伝統に則ったものでならなければならなかったはずだ。
 なのにそこを日教組に奪われてしまったところに、保守政党としての自民党の空洞化が見られるのである。もちろん空洞化ということは、前にそこには何かがあった、ということである。
 一方で民主党の空虚を言うのは、そこには始めから何もないからである。

 私が民主党の欺瞞的な空虚を非難する一方で、保守勢力の空洞化を批判するのは、その何か、つまり実(まこと)を回復して欲しいとの願いがあるからである。
 私はその手がかりとして『論語』を重視している。
 維新の精神を屹立せしめていたもの、それが『論語』に他ならないからだ。
 これは前回、高杉の言葉でも指摘しておいた。

 私が言うことを信じることに躊躇を覚えるなら、有名人に言ってもらおうか。

 著名な青山繁晴氏が二十三分頃から始まる教育論の中で、高杉晋作を挙げて、私と同趣旨のことを言っている。



  
 どうだろう。
 少しは、私の意見に箔がついただろうか。

 青山氏は結果、成果という面から教育のあり方を述べているのだが、これはあくまでも伝統に近づく第一歩でしかない。一面の成果・結果から歴史を見ているという点では、菅氏と歴史に臨む態度において絶対的な隔たりがあるというわけではないのだ。(もちろん、これは菅氏と青山氏が同じ穴の狢と言っているわけではないが、いくらなんでも奇妙な兵隊さんはないだろう。)
 私はそこから一歩も二歩も踏み込んで、その踏み込んだところから発言をしているだけである。
 その私に江戸時代の教育の伝統はこう言わせる。
 江戸時代の、幕末の指導者に、身分を超えた人間としてのあり方を教えて来たのが『論語』だったのだぞ、と。
 そして、その指導的役割を当時の武士が担ったのだ。
 高杉はその先鋭的な人物の一人である。

 さて、菅氏は自ら組閣した内閣の革命性を、奇兵隊になぞらえることで、表現し、国民に訴えているわけだが、奇兵隊創設の趣旨は別にあり、また創設者者高杉晋作の志が尊皇攘夷、勤皇にあったことは既に述べた。

 高杉は四カ国艦隊の襲来、長州征伐を受けて、俗論党の盛り返しによる、勤皇派の逼塞を打破するために、大胆な挙兵を行った。
 功山寺における劇的な挙兵がそれである。
 これは長州藩の国論を勤皇で一定するためのもので、これがなければ、俗論党政権の下で、奇兵隊を始めとする諸隊の存在などどうなったかわからない。 少なくとも後世の評価とはよほど違った活躍しか出来なかったであろう。

 つまり、奇兵隊は高杉によって作られた上に、彼によって逼塞した状況から、その創設の趣旨に立ち返り、歴史的生命を回復したと言っていいのである。

 菅氏が自身の内閣を奇兵隊になぞらえたと言っても、それは形跡のみであって、勤皇報国の志を、情実を、欠いている。
 だからこそ菅「奇兵隊」内閣の空虚を言うのである。



 高杉晋作は長州の英雄だが、薩摩藩の英雄と言えば、まずは南洲翁に指を屈さざるをえまい。
 徳富蘇峰は『近世日本国民史』において両者を比較して次のように言っている。
 
「維新回天の事業において、薩長を説くが、薩の西郷に対して、強いて長における人物を求めば、その性格は、皮相の上においては、互いに対蹠的であるともいうべき程であるが、高杉晋作を挙ぐるの外はあるまい。
 なるほど西郷は大鉈の如く、むしろその切れ味は重みにあり、高杉は合口(あいくち)の如く、その切れ味は鋭さにある。されど功名富貴を浮雲視する態度に到りては、また均しく世間名奔利走の徒と共に、その撰を殊にするものがある。彼らは世間が思う程、その内容に至りては、隔絶していない。もし隔絶していたといわば、それはむしろ膚合(はだあい)である。しこうしてその膚合も、その一半は、両人の性格といわんよりは、薩人と長人との相違の上において然るものであろうと察せらるる。」

 
 南洲翁の重厚を大鉈に、高杉の鋭さを匕首に譬えるあたり、徳富蘇峰の人物眼は鋭い。
 しかし、両者の違いは、確かに薩長の人士の気風の違い、置かれた状況の違いに帰されるべき面もあるだろうが、当時の自己を取り巻く状況の中で、学問の伝統に照らして、自己をどのように位置づけていたか、あるいはどうあるべきと考えていたか、というところに帰すべきところが大きいと思う。

 高杉がその決起にあたって、大場伝七(白石正一郎の弟)に認めた遺書には、彼が墓碑に刻んで欲しいと残したのは、自身の肩書きであった。
 これは彼の自己規定といってよい。

 表には、

「故奇兵隊開闢総督高杉晋作、則西海一狂生東行墓、遊撃将軍谷梅之助也」

裏には、

「毛利家恩古臣高杉某嫡子也」


 裏面は彼の忠孝の精神の表れであるが、表もまた彼の複雑な自己規定の現れである。
 「谷梅之助」は、彼の潜伏中の変名。
 「東行」は、西行法師をもじったものだが、ここで横井小楠が南洲翁の退隠癖を評して、「どこか西行法師のような」と言っていたことを思い出す。
 高杉の出処進退は、蘇峰翁が言うように、まさに、名利を見ること浮雲の如しで、尋常の縄墨を以て律すべきものでなく、機略縦横、脱然高踏、天馬空を行く、といったの感じで、まさに天才だけに許されたものであろう。

 これに対して、南洲翁の出処進退は、しっかりとした思想的背景を持つものであったがこれは後に触れる。

 高杉の自己規定の中で「一狂生」というのが私にとっては興味深い。
 伊藤博文は身近に接した英雄高杉を振り返って、「動けば電雷の如く、発すれば風雨の如し。衆目駭然、あえて正視するなし。」と評したが、確かに戦後の衆目は、その形容に目を奪われて、彼の精神を正視しえてはいない。
 平成の御世の高杉気取りが、彼の忠孝の精神、勤皇の志を正視しえないように、この狂の精神もまた正視しえていないというのが現情である。

 実は、高杉の心に、この「狂」の精神を刻み込んだのが、先師吉田松陰であり、その先師に「狂」の精神の価値を教えたのが、孔夫子その人だったのである。

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