橋下君、それ間違い ① 〔保守の空洞化(その六)〕

 こんなことを言って、権力者小沢一郎氏に媚びる、無学の野心家がいる。
 明治維新の元勲に対する、軽薄で、誤った解釈が、続々と誤ったフォロワーを生み出し、混乱期の政治を誤った方向に導く一例である。



 大阪知事選出馬に際して、「前々から政治家になりたかった」と言った橋下君にとって、政治の中身のことはどうでもいいらしい。
 自己の政治家としての成功、野心、功名心で頭を一杯にした人物に何を言っても聴く耳を持つまいが、彼のポピュリズム的手法に誑かされている人士は多いので、保守の空洞化というテーマから少し外れてしまうが、一言申しておく次第である。

 発言を聞く限り、彼が大久保の政治に読み取っているのは、新しい日本を作るという、政治目的を達するためには、竹馬の友やかつての同志を殺してまで、非情に徹する、その姿であったらしい。
 目的を達するためには手段を選ばない、すなわち、目的は手段を正当化するという、マキャベリズムを、自己の政治思想として、大久保という人物に見ているのだ。

 そんな彼が作った政党が大阪維新の会。
 ここでも、鳩山首相が就任演説で用いていたように、「維新」という言葉は安易に使われているが、そこに込められた意味は、所詮は、一新の意味を出まい。
 その一新も、地域主権という全く維新の伝統を踏まえない(明治維新の方向性からいえば、むしろ逆行と言っていい)、国家解体論である。
 西部邁氏が田久保忠衛氏の戦後民主主義擁護の発言に強い言葉で批判した、主権という言葉があるか否かは決定的である、との本質的議論を想起すべきであろう。
 地域主権論は決して維新とはならないのである。





 橋下君と密談を交わした原口総務大臣が、次のように言っていたことを思えば、彼の地域主権論が国家解体論であることは明らかだ。

 

 橋下君は、腹口氏と、こそこそと、国家転覆についての相談を交わしていたのである。
 その橋下君が、大久保のマキャベリスムを見習って、国家解体を強引に推し進めている小沢氏に、公共の電波を通じて、阿諛を行う。
 醜悪にして、なかなかの姦物である。
 竜馬なら「姦吏」と言うところだ。


 白川静氏の『字通』によると、「維新」の「維」という漢字のそもそもの字義は、詩経「小雅」の用例から、移動しやすい物をつなぎとめるとの意になるそうだ。

 「明治維新」という言葉の出典が、同じ詩経の「大雅」にある「周は旧邦なりといえども、その命は維(こ)れ新たなり」であることからもわかるように、衰退した主権者としての王朝の復活の趣意がそこに込められていることは明らかだ。
 新たに取り入れられたものは、それを達成する手段以外の何物でもない。
 目的と手段を取り違えてしまっているのが、現在の維新家もどきなのである。
 これはどう見ても贋物である。


 以上のように、「維新」とは、根底にある歴史意識としては、「王政復古」の別表現と言っていい。
 つまり主権者としての、王朝の復興こそが、その眼目といっていい。

 日本における王朝とは、もちろんご皇室のことである。

 それを主権の分割移動を意味する地域主権を提唱するとは、物が分かった人からすれば、支離滅裂な、頭のおかしな人物としかいえないだろう。
 鳩山首相の発言がそのようなものにしか映らないのと同様にだ。
 これらを知った上で、まだ自己の推進する国家転覆政策を「維新」と言うなら、これは「維新」という言葉の効用を利用する狡猾な人物とはいえても、日本文明を知り、伝統を踏まえて、これを興す賢者とは言えまい。

 彼の主観において、道州制の目的は、ローカル番組でのタレントとしての成功を足場に、機を見て大阪府知事の座をまんまと射止めた彼が、次にその勢力を関西圏に拡張し、自身の王国を作るところにあるのではあるまいか。
 いきなりそれが国政に向かわなかったのは、一つは、ご皇室の存在があるからだろうし、一つは本質的に同じ穴の狢である小沢一郎氏の存在があるからだろう。
 つまり、自己の実力を養いながら、これを測りつつ、勢力の拡張を虎視眈々と狙っているのだ。これでは封建割拠の時代と何ら変わる所がないではないか。

 そのあたり、なにやら、武田信玄健在のうちは、猫を被って、ひたすらこれに取り入る態度を示した織田信長が、その死後に武田家を滅ぼした姿を連想させるが、彼の空虚ぶりを見るにつけ、通俗的なイメージでの成り上がり者、木下藤吉郎、後の豊臣秀吉の方がしっくり来るように思える。
 太閤を慕う大阪府民のまなざしは、彼のような人物には温かいのかもしれない。

 
 彼らが見ているマキャベリストとしての大久保の虚像ならともかく、「為政清明」をモットーとした大久保の実像がこれらの醜悪なフォロワーたちを見れば、たちどころに姦物視したに違いない(もちろん、大久保にとって為政、および清明の精神の根源はご皇室にある)。

 大久保が透徹した史観や文明観、洞察力を持った政治家であったとは思わないが、ぎりぎりまで「為政清明」に努めた意志の強い人物であったことを私は疑わない。
 だからこそ、南洲翁を結果的に死に追いやってしまったこと、彼に刺客を送り込んだと誤解されたことを、その死の直前まで気に病んでいた。

 彼の部下であった前島密の回想に次のようにある。

「公(大久保をさす)兵乱(西南戦争)鎮定の後、一日笑うて曰く『余明鏡に対し自ら顔色を照らす、毫も洒々落々の態なし。想うにこれ或は予に西郷暗殺の陰険手段ありたりと誣言(ぶげん)せられし所以なるか。男子は宜しく洒落の顔容なるべし。…予は出身以来、世事の否塞に遇い、困頓幾回なるを知らず。然れどもその讎敵(しゅうてき)反抗に会し、未だかつて暗殺兇険の害意を生ぜることあらず。これ予が神明の照鑑に対し、毫も翳陰なき所なり。』」(『鴻爪痕』)

 この葛藤は、マキャベリストのそれではない。

 彼は、部下の警視総監川路利良の私学校切り崩しの工作を容れたが、その目的のために、西郷南洲という竹馬の友にして、かつての師友の暗殺を企てるほどの卑劣漢ではなかった。もし彼が政府を守るために私学校の徹底的殲滅を企てたマキャベリストなら、その精神的支柱となっている南洲翁の暗殺は真っ先に企てられなければならなかっただろう。
 ならば、乱鎮定後に及んで、このような心の苦渋を、部下にこぼすようなこともなかったはずである。

 大久保は讐敵視した私学校徒の大義なき決起(政府側から見ての)にはほくそ笑んだが、そこに南洲翁が加わっているとの報を東京で得たとき、彼の眼は一杯の涙を湛えながら、その衝撃に耐えつつ、一睡もせずに、この事態にどう対処すべきか思案を重ねた。
 そして、彼が出した答えは、自身が鹿児島に赴いて、南洲翁と面会して、誤解を解こうというものであった。

 彼は当時明治天皇が京都行幸中であったため、京に赴いて評議にかけた。
 ところが評議の結果、大久保の意見は容れられなかったのである。
 勅使派遣に強硬に反対したのが、長州の木戸と、特に、いわゆる征韓論政変で反征韓論派として、陰で獅子奮迅の働きを為した伊藤博文であった。
 大久保は長州との関係に引きずられ過ぎたと見ていい。
 
 この後の大久保の行動に私は批判もあるが、少なくとも、これが政治パフォーマンスといったものではなく、彼の衷情からくるものであったことは間違いない。
 彼は翌日から病と称して、引きこもってしまった。
 彼がようやく出仕するようになったのは、出仕するようにとの勅命によってであった。
 しかし、再出仕した彼は、閣議において、もはや南洲翁の誤解を解く、つまり外交による乱鎮定の方向での努力をしなかった。「多く意見を言わず、ただ員に列して賛成するのみであった」とは、伊藤博文の談である。
 つまり、彼は乱鎮定における内務卿としての職務に励むこと以外は、価値判断を停止し、主体性を放棄してしまったのである。
 
 これは征韓論政変において、三条実美・岩倉具視の趣旨を奉戴する旨の誓約を行った時と同様で、その結果が、大久保・岩倉合作の明治天皇への虚偽の奏上(征韓派に対する天皇への讒言、誣言と言っていい)という畏れを知らぬ行為に行き着くことになったのであった。
 
 京での閣議の後、再出仕を決意してからの大久保の心境としては、必勝の献策を退けられて、敗北必至の湊川に向かう楠木正成の如きものであったかもしれないが、現状認識において、それに適当する立場・状況に彼が置かれていたかどうかは疑問である。
 惜しいかな、彼は、肝心なところで、党派意識に身を任せ、政事家(政治家ではない)と化してしまうのである。


 以上のように、大久保はその政治的形跡から、マキャベリズムという西洋の規範によって理解されるべき人物ではなく、伝統という規範によって、その情実を理解され、評価されるべき人物であった。
 もし大久保を大政治家として評価するなら、最終的な勝者となったその結果においてではなく、彼が成した大なるものに付いて考えてみなくてはならない。

 彼を偉大な政治家たらしめているものは何であったのか。
 それが、小沢一郎氏や橋下君のように、大久保を見習うと公言している現代の政治家に決定的に抜け落ちている中身なのだ。

 それは、南洲翁が好んだ陳龍川の『酌古論』の言葉を借りるなら、「大にしてはすなわち王を興し、小にしてはすなわち敵に臨む」という、その大なる部分における功である。

 この点で、すなわち、王を興すという点で、南洲翁と大久保甲東は、一致協力し、王政復古討幕という勲功を成し遂げた。
 そして、その微妙なずれによって、不和を生じ、征韓論破裂、西南戦争という悲劇的結末に至ったのである。
 もっと言えば、敵に臨むという小事によって、それまで再三にわたる際どい危機を乗り越えてきた、王を興すという大事業(たとえば大政奉還、王政復古の大号令、戊辰戦争、廃藩置県など)に大打撃を与えたのが、征韓論政変以後の内務卿大久保による内政であったと見ていい。
 この時期の彼の内政が、どう明治維新の理念を表した「王政復古の大号令」や「五箇条の御誓文」から逸脱していたかを検証してみれば、よくわかるはずだ。

 木戸孝允が大久保の内務卿の職務への態度を見て、「行政に得意の色あり」と観察したことは、なかなか鋭い観察力と言わねばならない。木戸の心のうちには「巧言令色すくなし仁」という孔夫子の金言が打ち響いていなかっただろうか。
 もっとも、木戸が大久保に見た得意の色とは、得意が色に表れているという意味であって、言を巧みに操り、色を令(せ)しめている、という意味ではない。

 大久保の亜流たちに共通して見られるのが、この「得意の色」と言っていいのではあるまいか。彼らは、実のない言葉を巧みに操り、さも国や国民を思っているような色を演出して得意になっているが、見るからに胡散臭い。
 彼らは共に、旧政治勢力の腐敗に対する民の失望に付け入って、マスメディアを活用しての巧言令色によって、民意を味方につけ、権力を握った。
 小沢一郎氏は選挙に対する強さを武器に、橋下君は大阪府民の人気を武器に、党派を支配している、あるいは、しつつある。

 あの大久保でさえ、盟友の岩倉は「識なし、才なし」と評し、木戸は「無学文盲」と評したのだ。
 ちなみに南洲翁は、征韓論政変以後の大久保を、腐り芋連の筆頭に挙げた。腐り芋とは、義を失った、腐敗堕落した、官にしがみついている薩摩人ということだ。これは西南戦争時も変わらなかった翁の認識だろう。

 〔福沢諭吉に至っては、大久保の対立者弾圧政事の反作用として起こった紀尾井坂での遭難を聞いて、気の毒とも思わなかったとまで言い放っている。
 『学問のすゝめ』『文明論の概略』から『丁丑公論』に至る、大久保が明治政府の重鎮として手綱を取った時期に書かれた福翁の一連の著作は、南洲翁に対する敬慕と同情に貫かれた、大久保政事に対する痛烈な批判という見方も可能なのである。
 なぜなら、当時、政府へのあからさまな批判は、反政府的言動を警戒した政府が立てた、讒謗律という法律によって罰せられたからである。そうでなくとも佐賀の乱によって、乱の首魁にして、直前までの政府高官であった江藤新平を、当時の法になかった晒し首に処した直後である。
 自由な言論などしようがなかった。
 福翁の政府への批判は、あのような形で為される他なかったのである。
 あからさまな政府への痛烈な批判が書かれた『丁丑公論』が、後世を誤らせぬよう、子々孫々に伝えるために秘されたことを想起してみればいい。彼はここではっきりと、方今出版の条例(讒謗律)あるによって、とその理由を述べている。
 これら福翁の一連の著作は、今、非常に読まれる価値が高まっている。〕


 征韓論政変以降の大久保の政治的形跡のみを見て、大久保を理解したつもりになっている論者は、政事家としてならともかく、政治家としての彼を買いかぶりすぎである。

 大久保を評すること酷に過ぎるようだが、維新の元勲達、あるいは当時の識者の高い見識から見れば、そういうことにならざるをえなかった。
 西南戦争の勃発を目の当たりにした、賢者勝海舟は大久保の免職を訴え、慧眼な木戸は彼に内務卿職の返上を切望した。
 これは当時の政治の偏重、党派の争いによって失われつつあった公平なる行政の矯正を、大久保の人格と実力に期待したからだったが、逆を言えば、彼が内務卿職にあって、権力が集中している状態は、政府の運動を不公平なものに偏らせていたからだと言える。
 彼が難しい局面に直面して、政治家としての価値判断を停止し、政事に専心していた以上、これは当然の成り行きだったと言える。

 あの「為政清明」を信条とした大久保でさえそうだったのだ。 
 その亜流、しかも誤った人物認識に基づく亜流は推して知るべしであろう。
 彼らが国政を牛耳ることの被害は、西南戦争の害の比ではあるまい。


 ともかく征韓論争勃発後の南洲翁と大久保の対立は、これまで通り、大事を為そうとした翁と、小事に固執し、足元をすくわれた大久保の間に生じた亀裂であったのである。
  どうせ、ずれによって生じた歴史的悲劇から教訓を得るなら、そこまで見なくてどうする。
 明治維新の、先人の、大なる部分を見習わずして、小を見習うとはなんと愚かな話ではないか。

 小沢一郎氏や鳩山由紀夫氏に象徴される戦後政治家(あえて政事家と言いたいが)の無学による見識の低さと、それによる小物化は止まる所を知らない。
 民主党が参院選に勝利した暁には、現代的オブラートにくるまれた讒謗律を布くことは間違いない。それは人権の名のもとになされるだろう。
 彼らの唱える人権には警戒が必要である。

 七月に控えた参院選はその分水嶺となる戦いである。
 平成の御世の慧眼の人士はすべからく、彼らの失脚を切望すべし!
 彼らに阿る輩に対する非難を言挙げすべし!



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この記事へのコメント

ふも
2010年05月28日 01:02
「橋元」それ間違い「橋下」です。
哲舟
2010年05月28日 03:56
はじめまして。
 
全く失礼な間違いですね。
訂正しておきました。

ご指摘ありがとうございました。

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