竜馬について ② 〔保守の空洞化 (その五)〕

 君が為 捨つる命は 惜しまねど 心にかゝる 国の行末

 君のため、国のために命を捧げた竜馬が、余儀なき事情で勝海舟のもとを離れた後も、彼を支えたものは、表向きの顔に隠されたこの神願であった。
 そして、竜馬が、賢人勝の引き合わせで出会った天下の名士の中で、心から敬服したのが、大久保一翁と南洲翁であった。この両人は、勝とともに、竜馬が神願を託すに足ると認めた人物であったと見ていい。

 竜馬が初対面の南洲翁を評して「小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る」と勝に語った事は有名だが、彼がその大きく叩けば叩くほど大きく鳴る、大鐘の音にずっと聴き入り、その音色の魅力から離れることがなかったのは、暗殺される三ケ月前(慶応三年八月下旬)、土佐藩士佐々木高行に書き綴った書簡でも明らかだ。

 竜馬は言う。

「先、西郷、大久保越中(一翁)の事、戦争中(第二次幕長戦争のこと)にもかたほ(片頬)にかかり、一向忘れ申さず、若しや戦死をとげ候とも、上許両人の自手にて唯一度の香花をたむけくれ候えば、必ず成仏致し候こと既に決論の処なり。」

 竜馬がいかにこの両者に心服していたかわかるだろう。

 また、南洲翁のほうもそんな竜馬を重んじ、その行動を支援した。
 実は、竜馬の亀山社中(後の海援隊)を後から支えたのは、この南洲翁と、その同志で、NHKの大河ドラマ「篤姫」で一躍有名になった、あの薩摩藩家老小松帯刀だったのである。

 慶応二年十二月四日付の兄権平宛の近況報告の手紙に次のようにある。

「私、唯今、志延べて、西洋船を取り入たり、又は打破れたり致し候は、元より諸国より同志を集め水夫を集め候えども、仕合せには、薩州にては小松帯刀、西郷吉之助などが如何程やるぞ、やりて見候えなど申しくれ候つれば、甚だ当時は面白き事にて候。
 どうぞ、どうぞ、昔の鼻たれと御笑い遣られまじく候。」




 竜馬が鹿児島を訪問し、西郷家に寄宿した際、下着の替えに困った彼が翁の夫人のいとに、使い古しでいいから、と褌を所望したことがあった。
 この竜馬の要望に対し、いとは、それならと、翁の兄弟の誰かの着古した褌を、着替えにどうぞ、と差し出したのだが、これを帰宅してから聞いた翁は、「お国の為に命を捨てようという人だぞ」と新しい下着を下ろすようしかりつけた、という話が伝わっている。

 翁は、国の為に命を捨てる貴重な国士との認識で、この土佐のいごっそう(異骨相)を信用し、支援したのだ。
 命を捨ててかかっている以上、いつ死んでも恥ずかしくないように、新しい褌を締める。
 翁の国士竜馬に対する心遣いが伝わってくる逸話である。

 この鹿児島訪問の後、竜馬は、薩長盟約成立の仲人の働きをして、翁の信頼に応えた。
 その直後、彼は伏見の寺田屋で伏見奉行の襲撃を受けているが、その急報に接した際、翁は単身で救出に向おうとさえした。
 竜馬が後に聞き及んだところによれば、

 「この時うれしきは、西郷吉之助(薩州政府第一の人、当時国中にては鬼神と云われる人なり)は伏見の屋敷よりの早使より大気遣にて、自ら短銃を玉込し立出(たちいで)んとせしを、一同押留て、とうとう京留守居吉井幸助、馬上にて士六拾(六十)人計り引連れ、むかいに参りたり」(権平宛同書簡)

 という有様であった。

 古来、士は己を知る者のために死す、と言うが、藩という寄る辺なき竜馬が、この人物となら行動を共にできる、死生を託すに足る、と考えたのは、誠に自然であったと思うのである。 
 

 さて、たとえが長くなってしまったが、竜馬の活動が南洲翁に支えられたものであり、自由奔放なイメージで語られがちな竜馬の実像が、実は、大変重厚な存在に支えられていたことを知ってもらうために縷々述べてきたつもりである。

 虚像は人をして誤らしめる。
 特に、偉大な先人に付された虚像は、危機に瀕している伝統にとって、日本の未来にとって、有害でさえある。
 竜馬に限らず、維新の三傑と呼ばれる南洲翁・大久保利通・木戸孝允(桂小五郎)により顕著に言えることだが、作家という売文屋が、曲学阿世の学者が、自己の富と名声のために描き、ばら撒いた虚像に踊らされるのもそろそろ終わりにしたいものだ。
 そのためには、他人の眼というフィルターを通さず、竜馬の言葉にじかに接し、これを玩味するのが一番だろう。
 幸い、講談社学術文庫から『龍馬の手紙』という書簡集が、手ごろな値段で出ていて、入手しやすい。
竜馬の言葉を心の中で温めて、その語勢、体温を感じ取れるまでに玩味し、これを行うことで体玩する。それが心を合わせ、化するということだ。 

 ともかく、平成の御世に求められる竜馬像は、戦後民主義の、左翼思想の手垢がついた福山雅治’s竜馬像などではなく、「君が為 捨つる命は 惜しまねど 心にかゝる 国の行末」という気概で満たされたものでなければ内実を伴ったものとはならない。

 竜馬の生きた痕跡に、歴史的な重みを加えているのは、表面的事象の背後に控えているこの精神の重みである。
 
  そして、平成の御世の竜馬気取りによく考えてもらいたいことは、そんな竜馬が、なぜ、大久保一翁や勝海舟という幕臣や、他藩人である南洲翁を敬仰したのか、ということなのである。勝も認めた竜馬の眼力を信ずるなら、どうしてもそこに着眼せざるを得ないはずだ。

 竜馬は、君が為を、国の行末を思い、命がけで、「二三家の大名と約束をかたくし、同志をつのり、朝廷より、まず、神州をたもつの大本をたて、それより江戸の同志(旗本・大名その余段々)と心を合わせ、右申す所の姦吏を一事に軍(いくさ)いたし打ち殺し、日本を今一度せんたくいたし申し候事にいたすべく」との神願を立てていた。
 だから、幕末の時勢が煮詰まった段階で、その過激な言動から、幕府内の姦吏に睨まれて、政府主流から退けられている勝に代わって、特に、その同志である大久保一翁に、幕府内部からの姦吏の浄化と、西南の雄藩である薩摩藩の南洲翁に、幕府外部からの浄化を期待したのである。
 もちろん、越前福井藩主松平春嶽や三岡八郎、横井小楠との関係も同様のものだったはずだが、特に慶応3年という時勢が煮詰まった時には、両翁こそがこれを成す人との認識に研ぎ澄まされていたと見ていい。
 そして、その根幹には、「朝廷より、まず、神州をたもつの大本を」立てる、すなわち王政復古という点での一致があったということなのである。

 私がどうしても疑問に思うのが、虚像が一人歩きして、リベラル・サヨクな人にも人気の高い竜馬に限らず、保守も認める明治維新の偉人、なかんづく、南洲翁や大久保甲東に対するリスペクトを表明する人は多いにもかかわらず、この大本を立てるという点を、政治における討論や、ご皇室を巡る討論でも、堂々と言ってのける人が一向に見られないことなのである。
 政治が、ご皇室の根幹が、幕末以上に揺らいでいる今日であるにも関わらず、だ。

 そこを見なければ、虚像に過ぎない、大久保甲東の権謀政治家ぶりを表面的に模倣して、ご皇室を蔑ろにし、日本国家を、解体に導き、中国人と朝鮮人に売り渡そうとしている小沢一郎と、これに続く姦吏の跳梁跋扈を許さない、強固な保守思想、およびこれに基づく活動の基盤を構築することは出来ないのではあるまいか。
 明治維新の指導層に行き渡っていた伝統精神と、それを醸成してきた学問的前提を考えると、どうしてもそう思えて仕方がないのである。

 

 

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 5

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス
ガッツ(がんばれ!)

この記事へのコメント

よしよし
2011年09月26日 21:41
すばらしいです。ありがとうございました。大久保氏の良さがわからないので教えてください。
よしよし
2011年09月27日 01:05
すばらしいです。ありがとうございました。大久保氏の良さがわからないので教えてください。
哲舟
2011年09月28日 07:02
「よしよし」さん、多くのコメント有難うございます。

 まずは返事が遅くなってしまって申し訳ありませんでした。

 大久保氏とは大久保一翁の事でしょうか、それとも利通のことでしょうか。
 一翁の事でしたら、私はさほど詳しくはありません。
 大久保利通でしたら、盟友岩倉具視の大久保評がわかりやすいと思います。

「大久保は識なし、才なし、ただ確固として動かぬが長所なり」

 問題はその大久保が外遊後、西洋文明を実見して、何で動揺し、何で動かなかった、ということではないかと思います。そこに大久保の「識なし」「才なし」という特性が影響を及ぼしたと、私は考えています。

南洲翁は大久保に対し書簡の中で、持ち前の雄弁を褒め称えていますね。

この記事へのトラックバック