保守の空洞化  (その一)

 最近、いわゆる保守派に属する人々、あるいは自認している人々の言論が空洞化しているように思われて仕方ない。

 次の討論を見ていただきたい。
 3分あたりの西部邁氏の戦後民主主義批判に始まる、田久保忠衛氏、西村慎吾氏の間で交わされる議論である。
 



 田久保氏の戦後民主主義擁護は特にひどいが、西部氏の戦後民主主義批判にしても、ご説ごもっとも、批判の内容はその通りなのだが、西欧保守思想の翻訳による批判は多弁に過ぎ、もう一つ決定力に欠ける。
 16分過ぎから始まる、西部氏の批判を引き継いでの、西村氏のコメントが簡潔にして、本質を突いている。英語の「ライト」は権利ではなく、道理と翻訳すべきであり、問題の本質が、言葉の間違い、誤用にあるというのは、大変重要な指摘である。

 これについては、『新西郷南洲伝(下)』西南戦争編で、この戦争の大義を論じたところで書いたことがある。


「・・・『権利』という漢語に訳されている英語のrightという単語は、正しいということを意味する言葉であり、本来ならば『権理』あるいは『権義』と翻訳されるべき単語である。すなわち利ではなく、理あるいは義を権(はか)ることを以て、right(正義・正当・公正)というのである。理を欠いた権利の主張など形骸化した理念に過ぎない。南洲はこの理が政府ではなく、鹿児島人民の側にあると主張している。福沢(諭吉)の(『丁丑公論』における)主張の同じなのだ。」


これは権利という聞き慣れた単語を、より正しい訳に近づけようとしたからであって、伝統的な「道理」「正義」という言葉が、国民にしっくりと来るなら、むしろその方がよい。

 話が討論番組の内容からそれるかも知れないが、このことにもっと触れておくと、南洲翁の西南戦争における決起を、論理的に擁護しつつも、もっとも肝心なところである戦争の大義名分を批判したのは福沢諭吉であった。

 彼は、讒謗律という、政府への批判を封じた、いわば言論弾圧の法律を憚って、当時は公表しなかった『丁丑公論』の中で、次のように南洲翁の決起のあり方を批判している。

「西郷が、政府に尋問の筋ありとは、暗殺の一条を糺さんとするの趣意か、はなはだ拙なるものというべし。暗殺の真偽もとより分明ならず、たとい実にこの事ありとするも、この一事を糺すを以て兵を挙ぐるの大趣意とするに足らず。兵を挙げて政府に抗するならば、第一薩人たる人民の権利を述べ、したがって今の政府の圧制無状を咎むるのみにして、暗殺のごときは、これをいわずして可なり。もしこれをいわば他の実事を表するの証拠として持ち出すべきのみ。後世に至って明治十年の内乱は暗殺の一条より起りたりといわば、恰も乱の品価の賎しきものにして、世界中に対しても不外聞ならずや。西郷も必ずこれを知らざるには非ざるべしといえども、ただ血気の少年に迫られてついに些末の児戯を喋々するに至りしことならん。これまた制御の不行届きというべし。」

 福沢は当時の限られた情報をもとに書いているから、この戦争に対する理解において、重大な事実誤認があるのだが、それは『新西郷南洲伝』を読んでもらうことにして、ここでは主題から「ライト」ということに絞って書きたい。

 というのは、征韓論政変および西南戦争については、拙著で徹底して探究したので、いくらでも論証することはできるのだが、あまり滔々と語ると、またよくいる西郷信者が、その信仰の対象を正当化しようとしている、と、そうでない読者がニヒルに構えてしまいかねないからである。

 まあ、私が南洲翁に惚れ抜いて、それが敬仰の念に達したのは事実なのだが、惚れ抜いて、じっと見つめてみるからこそわかる真実というものがあるのだ。
 孔子に倣って、好・信・楽、すなわち、これを好み、これを信じ、これを楽しむ、を人生の態度とした本居宣長が、これまで誰も読みこなし得なかった『古事記』を読み解いて、偉大な足跡を残したことを想起してみてもいい。
 真に信じたものこそが、真に疑うことが出来る。それが物事の性質情状(あるかたち)を見究めることに繋がるのだ。
 佐藤一斎の「一部の歴史、皆形跡を伝えて、情実あるいは伝わらず。史を読む者は、須らく形跡に就いて以て情実を討(たづ)ね出だすことを要すべし」という言葉を思い出してもいい。
 歴史という現在の自分を語る上で欠かすことの出来ない事象の情実を語るには、その歴史証言の内部にまで踏み込んで考えないといけないが、それを徹底するには、当事者の言葉と心を合わせなければ、なかなか理解できない情実というものがあろう。それを理解するには、これを愛し、これを好み、これを信じ、これを楽しむ、という態度に如かずだ。
 そういうことは確かにある。
 そこを潜り抜けなければ、その惚れた対象が、偉大であればあるほど、本物かどうか知ることは出来ないのである。
 逆に言えば、自分にしか関心を持たない、ニヒリストにいかほどのことが問えるのか、甚だ疑問である。

 さて、引用文中の下線部のように、福沢は既に「権利」という言葉を使っているが、前後の文脈を考えれば、これが「ライト」の訳として用いられていることは明らかだろう。だからこそ、上述のように、「権義」「権理」と訳すべき、と書いたのだ。
 批判の対象となった薩軍の主張であるが、実は「政府に尋問の廉あり」とは、政府各機関に通告した、卒兵上京の理由であって、挙兵の理由ではない。
 挙兵の理由(というよりも応戦の理由)は、戦端を開いて後、征討の責任者として西下してきた、征討将軍有栖川宮への諫言という形を取った文書に明確に記されている。
 そして、それが、実に不思議なことに、福沢の批判に符合しているのだ。

 それは通常の国語力があればよくわかるはずだ。

「今般陸軍大将西郷隆盛等、政府へ尋問の次第これあり出発いたし候処、熊本県は未前に庁下を焼き払い、剰(あまつさ)え川尻駅まで(鎮)台兵押し出し、砲撃に及び候故、終に戦端を開き候場合に立ち至り候。然る処、去る九日には征討の厳令を下され候由。
 畢竟政府においては、隆盛等を暗殺すべき旨官吏の者に命じ、事成らざる内に発露に及び候。
 この上は人民激怒致すべきは理の当然にこれあるべく、只激怒の形勢を以て征討の名を設けられ候ては、全く征討をなさんため、暗殺を企て、人民を激怒なさしめて罪に陥れ候姦謀にて、ますます政府は罪を重ね候訳にてはこれあるまじくや
。…」


 つまり、我々は、政府に尋問の廉があって、上京しようとした。
 ところが、熊本県庁および鎮台は、これを賊徒と決め付けて、一方的に砲撃を開始。我々は応戦せざるを得なくなった。
 ということは、政府は、官吏に西郷らの暗殺を命じ、事成らぬ内にこの悪事が露見し、その尋問に、弾圧を以て応じたことになるのではないか。ならば、鹿児島の人民が激怒するのは理の当然ではないか。
 鹿児島県人は、今、彼らの代表者に対して為された政府の不法行為を問うという、理を、義を、権(はか)り、これに加えられた弾圧と戦っている。
 これが薩摩人たる人民の権理・権義(福沢が言うところの権利)を述べているのでなくて何であろうか。
 暗殺という悪事は、政府の圧政無状を証するための実事として触れられているに過ぎない。

 要するに、西南戦争は、人民の義を、理を権(はか)るための戦いであって、福沢が心配したように、後世の近代合理主義主義という名の、歴史というものに対する冷淡さを秘めたシニシズムは、西南戦争を、暗殺の一条より起こりたる内乱、と理解したのである。
 福沢は文明の体現者として南洲翁を敬仰した人物だったが、実は、翁は、彼の慧眼なる批判に堪えうる人物であったということになろう。

 なお、権義という言葉も使用していた福沢が、rightをここで権利と翻訳したについては、その保有者たる人民に対する啓蒙的な立場というものが関係しているように思える。彼の少年期に、教養の土台をなした漢思想における人民観まで考えなければ、正確なニュアンスを理解することは難しいだろう。少なくとも彼は、渡米以来、アメリカン・デモクラシーの冷静な観察者でもあったのだ。
 

 さて、そろそろ討論番組に話を戻すことにしよう。 

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