君が代  (新年の挨拶に代えて)

君が代は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで


 


 この歌が明治天皇の前で正式に奏楽されたのが、明治十三年の天長節(11月3日)のこと。
 しかし、その動きの起源は明治三年にまで10年さかのぼることになる。
 
 明治三年八月から九月にかけて大久保利通は、近々交代帰国することになっている、皇居守衛のために派遣されていた薩長土肥の藩兵の調練天覧を実現すべく周旋していた。
 これは、天覧によって恩を与え、兵を感銘発奮させ、藩兵としての意識を払拭し、朝廷の兵たらんとの意識を扶植するためのものであった。君徳と勅語に基づく、人心収攬のためである。
 この観兵式は越中島において九月八日に行われる予定であったが、当日、途中から暴風雨で、天候が荒れに荒れたため、半途にして中止となった。

 しかし、この日にこそ、明治天皇の送迎に際して、軍楽隊により初めて『君が代』の奏楽がなされたのであった。
 『君が代』が国歌として演奏された最初であった。

 これは、寸前まで砲兵隊長を務め、八月二十八日欧州視察の途についた大山巌の案によるものであった。

 薩摩藩では軍楽隊を作るために、若年兵数十名を横浜に送り、英国軍楽長のジョン・ウィリアムス・フェントンのもとで修行させた。この時フェントンは国歌の制定を勧め、これを聞いた大山は、我が国の国歌としては宝祚の隆昌、天壌無窮を祈り奉る歌を選ぶべしと、平生から愛誦するところの『君が代』を提案した。

 この歌の起源は、古代にまでさかのぼることになるそうだが、文献上現れる最初のものは、醍醐天皇の御世の勅撰和歌集『古今和歌集』(紀貫之撰)に、「題しらず」「読み人しらず」として出てくる賀歌(がのうた)である。

「わが君は、千世にやちよに、さゞれ石の巌となりて、苔のむすまで」(岩波文庫『古今和歌集』)

 薩摩では、上は藩主島津家から下々まで、この古歌がとりわけ愛されてきた。
 島津家の毎年元旦の儀礼にも歌われてきたし、斉彬の曽祖父重豪などは、「君が代」をローマ字表記で書き残しているほどである。
 祭礼に舞われる神舞『十二人剣の舞』にも取り込まれている。

「君が代は、千代に八千代に、さざれ石の、巌となりて、苔のむすまで。命ながらへ、雨塊(つちく)れを破らず、風枝を鳴らさじと言へば、また堯舜の御代もかくあらん。かほど治まる御代なれば、千草万木、花咲き実る。五穀成熟して、上には金殿楼閣の甍を並べ、下には民の竃厚くして、仁義正しき御代の春、蓬莱山とはこれとかや。」

 薩摩伝唱の琵琶歌『蓬莱山』の数節である。

 児島襄の『大山巌』によれば、明治七年の欧州留学からの帰国に際して、それまで「岩」と称してきた大山弥助が「巌」に改名した理由は、旧芸州藩士渡六之介の進言によるもので、彼によれば、岩は山石の意であり、大山の姓に合わせて大岩を意味する巌のほうがよい、ということだったそうだ。
 しかし、大山自身が「巌」への改名を決意した理由は、そんなつまらぬことではなかろう。
 大山の「巌」に込められた真意は、明治の御代のさざれ石の巌たらん、ということだったに違いない。

 ともかく「君が代」は彼ら薩摩隼人が、天皇親政にかけた理想にふさわしい歌詞である。

 薩摩藩ではフェントンに依頼し、この歌に曲をつけてもらい、軍楽隊に猛特訓を施した。
 これが九月八日越中島における観兵式の二週間ばかり前のことであった。
 残念ながら観兵式は、悪天候により途中で中止となったが、それでも『君が代』が初めて国歌として奏楽されたことの価値は変わらない。
 式はすぐやり直されるべきであったが、天皇の予定は、翌九日は節句につき夕方より潔斎、十一日には神宮御遥拝、十二日には御神事解などと、神事が立て込んでいたため、結局観兵式は十三日に行われることになった。
 しかし、運の悪いことに、当日になり、天皇がご不例ということで、三条実美が代理を務めることになった。
 兵隊達は十一日が交代の期日で、汽船の都合もあったが(当時は外国汽船を利用していたため)、費用は政府が持つことで十三日の観兵式は実現したのであった。この観兵式を政府がいかに重視していたかが窺われるのである。

 薩摩藩では、南洲翁の方針により、交代の兵を出さないことになっていたから、大久保としては、この兵の帰国までに観兵式を行い、尊皇の意識を植え付けておくには、今後の改革のためにぜひ必要なことであったのだ。
 それが明治四年の御親兵の献上と、政府の抜本的改革、廃藩置県へとつながってくるのである。


 このように『君が代』という古代からの賀歌が国歌に制定されるに至った歴史の流れは、近代日本興隆の歴史と絶妙にシンクロしている。後世の史家は、戦後この国歌が軽んじられた事実を見て、日本国の衰退とシンクロさせて論じるであろう。
 日本人が古代よりの百代以上をかけて創り出してきた、歴史・伝統のさざれ石は、幕末から、明治維新を経て、昭和に至り、巌となって、強固になろうとしていた。
 しかし、大東亜戦争の敗戦という、アメリカニズムおよびマルキズムによる伝統破壊、そして、それに侵食された日本人自身の精神により、この巌は再び、さざれ石どころか、個人主義という砂粒にまで返ろうとしている。これは決して進歩ではない。むしろ原始にまで後退することを意味している。
 それどころではない。
 それは現在の日本を取り巻く情勢の中では流砂と化す危険さえはらんでいるのである。 
 この勢は、民主党政権の誕生によって、一気に窮まった観さえある。

 日本人は本年を以て、失われた伝統・歴史を取り戻さなければならない。そして、これらを巌とする決意を固めなければならない。
 願わくは、本年が我が大和民族にとって再生の起点とならんことを。

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