小沢一郎の歴史的役割 (その一)

 小沢一郎は、韓国での講演で述べているように、戦後一世を風靡した江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」を支持しているそうだ。
 (「騎馬民族征服王朝説」ウィキペディア解説 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%8E%E9%A6%AC%E6%B0%91%E6%97%8F%E5%BE%81%E6%9C%8D%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC

 騎馬民族征服王朝説とは、大陸の騎馬民族が、朝鮮半島を経由して九州地方に渡り、それが近畿地方を征服して、王朝を打ち立てたとする説である。つまりそれが神武天皇の東征であり、大和王朝につながってくるというわけで、現在の皇室の祖先は朝鮮半島から渡って来たというわけだ。
 小沢一郎が、朝鮮人に政治的立場から阿って、こういった説を支持ているのか、それとも若き日に読んだトンでも本を信じきってしまっているのか知らないが、政治的立場から、こういったこの国の起源に関する重要な問題を捻じ曲げて宣伝してしまっているとしたら、この国の政治家としては失格、否それどころか売国奴とすべきで、信じきってしまっているとしたら馬とか鹿の類ということになろう。しかし、こういってしまえば、日本人に無害の馬とか鹿に対して失礼に当たろうか。

 騎馬民族征服説など、現在の歴史学会では歯牙にもかけられていない議論で、若かりし日の渡部昇一氏は、日本文化会議の江上氏の講演を聞きにいった際、最後の質疑応答の場で、記紀には騎馬に乗った天皇の姿が一向に現れないが、それはどういったことか、との疑義を末席から申し立てたそうだ。すると、江上氏は言葉に詰まってしまい、「えっ、ありませんでしたか、それは困ったな」と言って、講演は終わってしまった、とどこかに書いていた。
 その後江上氏が新しい根拠を見出したのか、それとも訂正したのか知らないが、そのどちらでもなかっただろう。
 戦後、それまでの学問的蓄積を、いわゆる皇国史観として否定した歴史学会には、唯物史観に染まった野心的な学者が、続々と現れた。そして記紀の記述の信憑性をことごとく否定し、今から見れば思いつきとしか思えない珍説を、実証主義の名の下、次々と発表した。江上氏もそういった学者の一人だったのだろう。
 これを私は江上氏の功名心からの軽率だと見ている。

 本居宣長は『玉勝間』において、こういった学者の通弊について次のように述べている。

 「ちかき世、学問の道ひらけて、大かた萬のとりまかなひ、さとく、かしこくなりぬるから、とりどりにあらたなる説を出す人おほく、その説よろしければ、世にもてはやさるるによりて、なべての学者、いまだよくもととのはぬほどより、われおとらじと、世にことなるめづらしき説を出して、人の耳をおどろかすこと、今のよのならひなり。」


 学問の世界で起きていることは、今も昔も大して変わっていない。
 宣長の観察するところ、一体何が、学者をそういった行動に駆り立てているのかといえば、

 「大かたいまだしき学者の、心はやりていひ出ることは、ただ人にまさらむ、勝(かた)むの心にて、かろがろしく、まへしりへをも、よくも考へえ合さず、思ひよれるままにうち出る故に、多くはなかなかなるいみしきひがごとのみなり。」

 つまり学者の功名心というわけだ。
 しかし、それによって成功を得たものは、間違いに気づいても、容易にそれを否定しえない。権威主義で、凡庸な学者とは、えてしてそんなものである。

 さて、そんな江上説を「事実と思う」とのたまう小沢氏である。
 その政治的主張なり、政治的態度は、江上説支持に象徴的に現れているように、戦後政治の最も悪質な部分を凝縮して固めたようなものを感じざるをえない。それは「日本文化チャンネル桜」の報道で水島氏や西村氏が述べている通りである。

 実は、私は彼の歴史的役割は、幕末政治における井伊直弼、あるいは、足利義満であると思っているのである。

 

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