遷都論 (その二)

 鳥羽伏見戦役終了後の朝廷が直面していた大問題は三つあった。

 一つ目は、撃退したばかりの対徳川問題。
当時の最重要問題である。
この国内問題は、七日に慶喜の追討令も出て、準備段階に入っており、すでにその端緒はついていたといえる。

 二つ目は、外国への布告問題。
この対外問題は、十一日に神戸事件(神戸の居留地で、西宮に向う途中の備前兵と英米の駐留軍が衝突した事件)が起こったこともあって、十五日には神戸で各国公使に布告することが出来た。
 ここでもやはり国外より国内の問題が、相対的にではあるが、優先されている。

 さて、この二つの問題に通底する問題として、遷都論が浮上してくる。
 大久保が遷都して行うべきこととして、とりあえず挙げているのは「朝廷の旧弊御一新、外国御処置は勿論、海陸軍兵備等の事」であるが、そのことの意味を考えていく必要がある。

 一つ目の「朝廷の旧弊御一新」については、大久保が翌二月岩倉・三条に提出した「宮廷改革に関する意見書」にその具体的内容が記されている。

「一 表の御座設けられ、巳刻(みのこく、午前十時)より申刻(さるのこく、午後四時)まで出御、万機を聞こし召され候事。但し表の御座へ女房出入り厳禁せられ候事。

一 巳刻出御、毎日総裁以下、議定、参与御目見え仰せ付けられ候事。但し、御例刻内といえども思し召しにより御引き入りの事もあるべし。

一 侍読を置かれ候事。但し、名卿賢侯の内、宇内の形勢にも通達の御方御撰用、出御中は勿論、常に御左右御咫尺(しせき)にて、御徳器御涵養、時務御豁開(かつかい)遊ばれ候様、勉励すべし。

一 御馬術の事。

一 調練叡覧の事。但し、式日相定められ候事。

一 制度、規則大いに名実を正され候事。但し、八局分課の次第、あるいは官武無差別の実相行われ候事。

 右 行幸を一機会として、断然御施行在らせられ候様願い奉り候事。」


 これを読めば、大久保の言う朝廷の旧弊という言葉が何を指すのか、見えてくる。
 彼は要するに天皇親政を阻害する慣習全般を旧弊としているのである。当時この旧弊にこだわり、天皇の親政に反対する公家が多かった。中には維新で公家の地位が高まったと誤解し、名利に対する欲心を動かしていた者もいたらしい。また京での既得権に対する心配から遷都に反対する者もいた。
 大久保の遷都の建議に薩の陰謀を唱える公家もいて、結局この建議は公家の強い反対にあい、朝議を通らなかった。

 次は二つ目の「外国御処置は勿論、海陸軍兵備等の事」を見ていこう。
 外国の処置に関しては、これからは朝廷が天皇の名で取り扱っていくわけだから、大坂の奥にある京都では何かと不便であり、天皇自ら表に出て、これを取り扱っていく意志を示す必要がある。
 大久保はこの外国の処置を前提として、海陸軍兵備等の事に触れているわけだから、素直に読めば国防の観点からの軍備の充実ということになるが、さしあたって必要なのは内戦に対する軍備である。当時関東は旧幕軍の支配下にあり、未だ戦時中であるということを忘れてはいけない。
 だからこそ大久保は遷都論を述べるに当たって、総裁宮に勝って兜の緒を締めよという趣旨のことを言ったのである。
 つまり長期的には国防のための軍備充実の要請であったが、短期的には来る対徳川戦のための軍備の充実の要請だったのである。
 このことは大久保の遷都の建議書にはっきり表れている。
 大久保が二十三日に、岩倉の手を経て、朝廷に提出した建議書には次のようにある。
 この建議書は非常に彼らの思想のエッセンスが含まれているから、解説を加えながら、全文を見ていくことにしよう。

「今日の如き大変態、開闢以来未だかつて聞かざる所なり。然るに尋常定格を以って、あにこれに応ぜらるべきや。
 今や一戦官軍の勝利となり、巨賊東走すといえども、巣穴鎮定に至らず、各国交際永続の法立たず、列藩離叛し、方向定まらず、人心洶々(きょうきょう)、百事紛紜(ふんうん、もつれみだれる)として、復古の鴻業未だその半に至らず。わずかにその端を開きたるものと言うべし。然れば朝廷上において一時の勝利を恃み、永久治安の思いをなされ候ては、則北条の跡に足利を生じ、前姦去って後姦来るの覆轍を踏ませられ候は必然たるべし。」


 つまりここで油断しては、建武の中興の失敗を繰り返す事になるということである。

 そこで大久保は、天皇を中心とする道理に基づく人心の一致一和の達成が、最も急務であることを説く。

「よって深く皇国の注目し触視する所の形跡に拘らず、広く宇内の大勢を洞察し玉(給)い、数百年来一塊したる因循の腐臭を一新し、官武の別を放棄し、国内同心合体、一天の主と申し奉るものは、斯くまでに有り難きもの、下蒼生(そうせい)といえるものは、斯くまでに頼もしきものと、上下一貫、天下万人感動涕泣いたし候ほどの御実行挙がり候事、今日急務の最急なるべし。」 

 そしてその天皇を中心とする人心の一致一和を成すには、朝廷の旧弊の一新が必要であると説く。

「これまでの通り、主上と申し奉るものは、玉簾(たまだれ)の内に在(おわ)し、人間に替らせ玉う様に、わずかに限りたる公卿方の外、拝し奉ることの出来ぬ様なる御さまにては、民の父母たる天賦の御職掌には、大いに乖戻(かいれい)したる訳なれば、この御根本道理適当の御職掌定まりて、初めて内国事務の方起るべし。」 

 「民の父母たる天賦の職掌」という名に相応しく、この根本道理に則って現実を改めなければ、内国事務は上がらない。
 名を正せば、言順い、事成る、と言った孔子の思想が背景にあるのは明らかだろう。
 そして「民の父母」という名を正すには、遷都に行き着くと、大久保は言う。

「右の根本を推窮して、大変革せらるべきは、遷都の典を挙げらるるにあるべし。」 

 そして例の「理」と「勢」が語られる。

「如何となれば、弊習といえるものは、理にあらずして勢にあり。勢は触視する所の形跡に帰すべし。
 今その形跡上の一二を論ぜんに、主上の在す処を雲上と云い、公卿方を雲上人と唱え、龍顔(りょうがん)は拝し難きものと思い、玉体は寸地を踏み玉わざるものと、余りに推尊奉りて、自ら分外に尊大高貴なるものの様に思し召させられ、終に上下隔絶して、その形今日の弊習となりしものなり。
 敬上愛下は人倫の大綱にして、論なきことながら、過ぎれば君道を失わしめ、臣道を失わしむるの害あるべし。
 仁徳帝の時を、天下万世称讃し奉るは、外ならず。
 即今外国においても、帝王従者一二を率して、国中を歩き、万民を撫育するは、実に君道を行うものというべし。」
 

 これで天皇親政という「理」が導かれた。
 そして再び、その「理」を行うためには遷都が必要であることを論ずる。

「然れば更始一新、王政復古の今日に当たり、本朝の聖時に則らせ、外国の美政を圧するの大英断を以って挙げさせ玉うべきは、遷都にあるべし。これを一新の機会にして、易簡軽便を本にし、数種の大弊を抜き、民の父母たる天賦の君道を履行せられ、命令一度下りて天下慄動(りつどう)する所の大基礎を立て推し及ぼし玉うにあらざれば、皇威を海外に輝かし、万国に御対立あらせられ候事叶うべからず。」

 ではどこに遷都すべきなのか。大久保は言う。

「遷都の地は、浪華に如くべからず。しばらく行在を定められ、治乱の体を一途に据え、大いに為すこと有るべし。
 外国交際の道、富国強兵の術、攻守の大権を取り、海陸軍を起こす等の事において、地形適当なるべし。
 尚その局々の論あるべければ贅せず。
 右内国事務の大根本にして、今日寸刻も置くべからざる急務と存じ奉り候。
 この儀行われて、内政の軸立ち、面目の基本始めて挙がるべし。もし眼前些少の故障を顧念し、他日に譲り玉わば、行わるべきの機を失し、皇国の大事去るというべし。仰ぎ願わくは大活眼を以って一断して、率急御施行あらんことを千祈万?し奉り候。死罪。」


 長文であるから、分かりにくくなったかもしれないから、いつもの言葉で簡単に要約すると、天皇を中心とする、道理(民の父母たる天賦の職掌という名を果たすための天皇親政という理)に基づく、人心の一致一和(言順い、事成り、礼楽興り、刑罰中り、民が手足を措く状態)を成すためには、地の利のある浪華すなわち大坂が最適である、となろうか。

 しかしこの遷都論の背後には関東との対峙という意識が非常に濃い。それはこの遷都論が、関東の対峙を意識した議論で始まっているところにも表れているが、それは大坂を最適の地としているところにも表れている。

 当時関東は旧幕勢力の支配下にあった。この状況下では、江戸への遷都は選択肢として浮かびようがなかったといってよい。しかも西郷らの意識では、この戦争状態は半年一年は続くとみていた。土佐藩士谷干城の談話によれば、鳥羽伏見の開戦時、西郷は「今度始まれば二十日や三十日で結末の付く事ではありませぬ、大丈夫半年と一年かかる」と言ったという(『日本及び日本人 南洲号』)。つまりその半年一年の間に対外問題、体内問題に取り組んでいくための大坂遷都論であった。
 彼らは恐らくその先、すなわち戦争後の遷都の地として江戸を想定していた。
 このことは、後に東京への遷都になったという結果から逆算して言うのではない。彼らの方針からそこに行き着かざるを得ないのである。ヒントはやはり頼山陽の著作にある。

 山陽は『日本政記』の中で、関東の地の利について次のように言っている。

「京師の形勢は、本(もと)関東に及ばず。故に北条氏・足利氏は、皆関東に拠りて、巣窟となし、以ってよく朝廷を制す。しかるに朝廷は、故常に習い、常に京師を得失するを以って大故(大事)となす。」 

 ここから少なくとも京では関東に対抗することは出来ないという結論が導かれる。
 では大坂と関東ではどうか。
 これについては『日本外史』「後北条氏叙論」に次のような記述がある。

「余嘗て東西遊歴、その山河の起伏する所を考える。
 おもえらく、我が邦の地脈、東北より来り、漸西漸小。これを人身に譬えれば陸奥出羽はその首なり。甲斐信濃はその脊なり。関東八州及び東海諸国はその胸腹なり。而して京畿はその腰臀なり。山陽南海以西に至り、すなわち股(耳)脛(耳)。故にその腰臀に居り、以ってその股脛を制すべく、以ってその腹脊を制すべからず。」
 

 すなわち大坂を含めた京畿は、関東八州を制することは出来ない。これは地の利における考察である。
 しかし地の利は人の和に如かない以上、官軍の人心が一致一和していて、関東の人心が一致一和してさえいなければ、勝つことはできる。頼山陽の議論からはそういう結論になるはずである。
 それを受けていることを表しているのが、大久保の二月一日付蓑田伝兵衛宛の書簡である。大久保は次のように言っている。

「…東国は古より皇化に服従せざる処。その上二百余年徳川の恩沢に浴し候えば、実に容易ならぬ大敵にて、故なく機会を失し、人心固結(つまり人心の一致一和)致し候日には、中々退治難しく、よりて関東追討不日に促され候様尽力中に御座候。斯くまで非常の大御変革、一戦血を濺(そそ)ぎ候ても(鳥羽伏見の一戦を経ても)、兎角朝廷数百年因循の腐臭去り兼ね、実に北条去りて足利来し候覆轍を踏み為され候御場合に立ち至り候ては相済まず候に付き、浪華遷都の議を起こし、地を鋤(すき)、根を植え替え、断然一新の興業までにはやり付けたく、日夜手を尽くし候えども、未だ運び兼ね候次第に御座候。…」

 まさに大坂遷都は対徳川対策として最重要視されていたのである。
 結局遷都論は反対されたため、天皇の親征という名目に変更されて実施されることになるが、親征とは軍事問題に対する親政のことであり、親征の名は、その目的の本質に遷都より近づいたといえるだろう。 
 ならば次に視野に入ってくるのが徳川処分の後に来る江戸親征・遷都である。
 大久保は「東国は古より皇化に服従せざる処」であるという。
 そもそも王政復古とは日本全国に皇化を及ぼすことである。
 そうでなければ、薩摩藩の方針である、日本国内の人心の一致一和という、この国の存亡にかかわる原則を一貫することが出来ない。日本全国に皇化を及ぼすには、江戸への親征・遷都がどうしても必要であった。しかもその地は畿内よりも地の利があると来ている。
 維新のスローガンである神武天皇が、東征の地である大和を都となし、その地に皇化を及ぼしていったように。
 その点神武天皇東征の出発地に生まれた薩摩隼人には、京畿の地にこだわる理由は何もなかった。

 以上述べたような認識がすでにあったからこそ、慶喜の恭順の態度が実は本気のものであったという江戸の事情に対する認識の急転で、大坂から江戸への遷都候補地の急な方向転換が可能だったと考えた方が自然である。
 理に当って後進む彼らは、行き当たりばったりで行動していたわけではないのだから。

(以上、抜粋終わり)

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