遷都論 (その一)

 (『王道のすゝめ』「とことんこだわる人心の和」より抜粋 http://inagaki-hideya.jp/

 ここで話題にしたいのは、再び人心の一致一和のことである。
 彼らの運動における大まかなヴィジョンが、道理に基づく人心の一致一和にあったことはすでに見てきた。
 それは『孟子』の「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」という思想に基づいている。
 しかし王政復古の政変前後の、彼らの言動を注意してみていくと、意外なところにこの思想が応用されていることに気付くのである。


 維新の根幹に関わる薩摩藩の二つの重要な方策について見ていくことにしよう。
 まずは西郷らが開戦前に用意していた対幕戦略から。この作戦が建武の中興に範をとったものであったことは有名だ。
 開戦したら、薩長の軍は大坂からの旧幕軍を迎え撃って、頑強に抵抗する。
 その間に天皇は輿に乗って、山陰道から丹波篠山を通って、安芸藩の領地に遷座する。
 これが長州藩領でないのは、恐らく薩長で天皇を独占するつもりではないことを示すためだろう。
 その際幕府の目を引き付けて時間を稼ぐために、有栖川宮に天皇の輿であることを装わせて、比叡山に登らせる。
 これも『太平記』で後醍醐天皇が藤原師賢に行わせた作戦だ。そして天皇の比叡山への遷座は、実際に開戦の前後に発令されている。これは明らかに旧幕府シンパにより筒抜けになるのを見越して、旧幕軍を欺くために、わざと発表したのだ。これらから推測すると、関東での挙兵も、新田義貞を念頭に置いた作戦であった可能性が高い。
 
 ではなぜ西郷らの作戦の基調が撤退戦にあるのか。
 それは、古来、京を守って勝った者は稀だったからである。
 醍醐天皇もそうであった。
 これについては頼山陽が面白い解釈をしている。
 頼山陽といえば、幕末の志士達の愛読書であった、叙事詩的な『日本外史』という歴史書が有名であるが、彼がその晩年に精魂傾けて著述に当った、難解な政論集『日本政記』もまた重要な書物であった。伊藤博文は密出国して英国に渡ったときもこの『日本政記』を肌身離さず持って行ったという。
 またこの著作は、西郷にとっても重要なものであったらしい。
 西郷に私淑した薩摩藩士高島鞆之助の談話に、次のようにある。

「当時の翁(西郷のこと)は史書―まあ、日本外史や日本政記の様なものを、好んで読んで居られたようじゃ」(『大西郷秘史』)

 恐らく頼山陽の著作を維新の教科書にしていたのだろう。
 その『日本政記』には、建武の中興失敗の原因について、次のような記述がある。

「元弘の、よく北条氏に勝つは、彼の道を失うに由る。而して延元の、足利氏に勝つ能わざるは、我の道を失うに由る。道失えば、すなわち人心背く。人心一たび背けば、天下糜沸(びふつ、粥が煮え返るように沸き乱れる)す。」

 これは要するに、後醍醐天皇の不徳の振る舞いにより、道を失い、結果、人心の一和を失い、乱になったということである。

 そしてさらに山陽は言う。

「況や延元においては、既にその道を失い、またその地の利を失うをや。」

 ここにいう地の利を失ったというのは、後醍醐天皇が京に執着してしまったことを言っている。
 つまり頼山陽が言いたいのは、簡単に言うとこういうことだ。
 後醍醐天皇は道を外れて、最も重要なはずの人心の一和を失った上に、京にこだわって地の利を失ったために失敗した。この背後に『孟子』の「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」があるのは明らかであろう。
 京を守るのが難しいのは、幕末の武家にとって常識であった。
 しかも西郷らの場合、薩長軍は合わせて千五百にも満たないときている。
 一方の旧幕軍は会津の兵と合わせて一万五千位は動員できた。
 ほぼ一対十である。
 彼らが天皇のいる京で、挙兵あるいは開戦を迎えざるを得ない以上、撤退戦を想定したのは当然であった。
 しかしこれだけの不利を抱えながらも勝ってしまったから、西郷や大久保は驚いたのである。開戦当時、薩長軍が旧幕軍に勝てると思っていた人間は一人もいなかったといってよい。

 では彼らは、緒戦の敗退は仕方ないとして、撤退し遷座した後に果たして勝算があったのだろうか。
 これについては、柳河藩士曽我祐準の自叙伝に、次のような記述がある。

「時勢の切迫と共に、薩摩の方では、開戦の準備を益々進むように見えたれば、余(曽我)は吉井氏(幸輔)に向い、今や開戦は、時日の問題であるが、果して勝算ありやと、ちと露骨ではあったが訊(と)うてみた。氏は悠然として答えて曰く、それは保証は出来ませぬ。去りながら現在長一藩に対してさえ、克ち能わぬ幕府が、薩長聯合せば、中国、西国諸藩の呼応するもの、蓋し少なからざるべし、之に対し幕兵が、勝を制する丈の実力あらんか、其の時初めて内は全国を統一し、外は洋夷に対して、皇国の威権を建つることを得べし。亦可ならずや。薩長の存亡、何ぞ論ずるに足らんやと。」 

 確かに長州に完敗した幕府は西国に手出しが出来なかっただろう。
 かつて斉彬も兵を率いて上京する際、九州の諸藩は味方に付くだろうと見込んでいた。
 西郷がこの認識を踏襲していたとすれば、長州と組んでいる現在、吉井のような認識となっていてもおかしくはなかった。
 西郷らは、局地戦ではともかく、大局的に負けはありえないと考えていたのである。
 安芸藩領なら、すぐ背後は長州藩領であり、朝廷を中心に人心を一和させ、その上地の利を得ることは可能である。やはりここにも『孟子』の言葉が応用されていると見ることができるのである。

 しかし、これらの配慮は結果的には無用であった。
 圧倒的多数で地利を得た旧幕軍が、寡少な薩長連合軍に負けてしまったからである。うれしい誤算であった。
 しかし、この配慮が幕府撃退後の新政で生きてくるのである。
 それが遷都論である。
 
 敗戦を想定した遷座論を裏返せば、戦勝を前提とした遷都論になる。
 これは撤退と前進の違いこそあれ、同じ規範に基づく行為だからである。
 地の利のない京都から、地の利のある土地に、天皇を遷座させ優位に立とうという点で、どちらも同じだった。
 だからこそ鳥羽伏見の戦争が終わって早い時期に、遷都という重大な問題の提議を行うことが出来たのである。

 大久保は戦争が一段落して十日経過した正月十七日には、早くも遷都の提議を行っている。
 大久保日記には次のようにある。

十七日 今日総裁宮より(薩摩藩の)参与三人の内、御用に就き参殿候様、仰せ付けられ、小子参殿候処、左の通り。」

 参殿した大久保に対し有栖川宮は今後の見込みを尋ねた。これに対し大久保は次のように答えている。

 「(大久保)云う、尚篤と勘考、談合の上申し上げるべく候えども、当座一己の愚考申し上げ奉るべく候。」

 そして彼は、まずは勝って兜の緒を締めよという趣旨のことを言って、戒めた上で、次のように語った。

「右に付いて断然御英決の事件在らせらるべく存じ奉り候は、主上行幸促され、八幡御参謁、それより浪華御巡覧、そのまま行在(あんざい)と相定められ、朝廷の旧弊御一新、外国御処置は勿論、海陸軍兵備等の事、御処置在らせられたく、しかる上ならでは、朝廷の御基本相立て、百目挙がり候処、万々覚束なき段云々、反復申し上げ候処、尤もに思し召し候間、尚御勘考遊ばるべしとの御事にて、容易ならぬ御懇命拝承奉り候。」 

 このように大久保はとりあえず自分ひとりの考えとして遷都論を開陳したのである。

 しかし、これは彼個人の着想あるいは思い付きというよりも、やはり西郷・小松と彼の間で話し合われてきた議論だったというべきであろう。
 この時期の大久保が彼らと話し合わずに、独断でいきなり総裁宮にこのような重要な問題を提議したとは思えない。彼らは常に評議を重ねながら方策を練ってきた。
 薩摩藩の方策に乱れがなく、その理に一貫したものを保ってきたのは、彼ら三人が評議を重んじて、特に西郷を中心にしっかりとまとまり、これを久光が支持してきたからである。
 現に遷都論は、開戦前に用意されていた対旧幕方策と、同じ発想に由来している。
 大久保の凄さは、もう少し先の対策として用意されていたであろう遷都論を、他の誰からも邪魔されることもなく総裁宮に意見を述べることができる機会をしっかりと捉え、対徳川問題と外国への布告の処置にすでに取り掛かっている状況から、即座に遷都論を提議するには今が好機と判断を下したことだろう。(続く)

 

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