建武の中興と明治維新 

 (『新西郷南洲伝』上巻より参考のため抜粋)


 日本の歴史において、この諸葛孔明と同じ位置にいる人物が、楠木正成であった。
 実は南洲が今回の挙兵の教科書として酌んだのが、この楠木正成の事跡だったのである。楠木正成のエピソードは、南北朝の動乱を描いた『太平記』により、日本人に親しまれてきた。
南洲は、直接か間接かは分からないが『太平記』のエピソードには親しんでいたらしく、それらを詠んだ漢詩がいくつか残されている。特に楠木正成について、詠んだ詩は三首残されており、傾倒の程が窺えるのである。
「道(い) ふ莫れ風雲相会し難しと、金剛山下臥龍蟠る。天皇一夜蒙塵の夢、南木繁る辺り御枕安し。」
 これは後醍醐天皇と楠木正成の出会いを詠んだもの。
「殷勤遺訓涙顔に盈(み)つ、千載の芳名この間にあり。花謝し花開く櫻井の駅、幽香猶とどむ旧南山(南朝の旧首都吉野山の事)。」
 これは菊池容斎の描いた桜井駅楠公父子袂別の図の賛として、南洲が読んだ詩である。『南洲敬題』と記してあるという。
 詠まれたのは、いずれも有名なエピソードである。
 また次のような詩もある。
「奇策明籌(めいちゅう)謨(はか)るべからず。正に王事に勤む是真儒。懐ふ君が一死七生の語、この忠魂を抱くもの今在りや無しや。」
 これも有名な楠公の七生報国の忠魂を詠ったもので、南洲がその忠魂を敬慕していたことが窺える。詩中の「正に王事に勤む是真儒」の一節は、江戸初期の儒者室鳩巣がその著『駿台雑話』において行なった、儒者としての楠木正成批判を踏まえたものである。この批判は相当論議を巻き起こし、これを読んだ高山彦九郎は、鳩巣を愚儒と罵倒し、『駿台雑話』を投げ捨てたという。
 これらの詩の他にも『太平記』に現れる忠臣の一人である児嶋高徳(一説では巻二一までの作者とされる小島法師と同一人物であるともいわれる)や、楠公の家臣である恩地左近を詠んだ詩もある。南洲がこれらのエピソードに親しんでいた事は確かであろう。
 高島鞆之助の談話に、「当時の翁は史書―まあ、日本外史や日本政記の様なものを、好んで読んで居られたようじゃ」(『大西郷秘史』)とある。高島の言う当時が、具体的にいつのことを指すのかわからないが、頼山陽の『日本外史』『日本政記』などを通じて楠木正成の事跡に親しんでいたらしい。
 『太平記』の作者は、低い身分の者でありながら、千にも満たぬ手兵で金剛山千早城に立てこもり、公称百万の幕府軍を迎え撃った正成を、「楠が心の程こそ不思議なれ」と賛嘆したが、南洲からすれば「あに奇妙不思議のものならんや」であり、七生報国の語で象徴される忠魂こそ、その源泉であり、後世の者が学んで至るべきものであった。かつて楠木正成こそは、日本の歴史において、一世の智勇を推倒し、万古の心胸を開拓した者の典型であった。
 頼山陽は『日本外史』において、楠木正成がいなければ、後醍醐天皇の中興の事業は、一度目の討幕の挙兵に失敗した時点で、そこで終わってしまっただろうと言う。なぜなら、北条執権家の権勢を恐れて有力者の誰一人呼応する者がいない時から、楠木正成は小身の身でありながら真っ先に後醍醐天皇の下に馳せ参じ、その失敗のあと、また全国に先駆けて再度挙兵し、幕府の大軍を一手に引き受け、あらゆる術策を構えて、これを打ち破り、天下に幕府の無能振りを示して、討幕の機運を盛り上げたからである。後醍醐天皇の腹心北畠親房も、『神皇正統記』において、楠木正成の一挙から、幕府の統制が綻び始めたことに触れている。(彼が楠木正成について触れているのは、この箇所だけである。)
 確かに正成の活躍が無ければ、当時隠岐に幽閉中の後醍醐天皇の再起も無かったし、名和氏や菊池氏など奮起する者も現れず、結果、足利尊氏や新田義貞といった有力御家人の離反もなかったであろう。
『日本外史』における頼山陽の建武の中興に関する視点は、、武家を中心に据えた、朱子学的なものである。頼山陽から見れば、討幕の成功の原因は、楠木正成を筆頭とする忠臣達の活躍にあり、その後の統治の失敗は、足利尊氏の謀反と、後醍醐天皇の失政というよりはむしろ不徳にあった。これは頼山陽の晩年の著作である『日本政記』のほうに、特に論じられている。この著作は、山陽の青年時代に書かれ、人々を感奮させた叙事詩的な『日本外史』とは異なり、難解な政治論集であり、その晩年、彼は精魂を傾けてこれを著述し、脱稿したその日に亡くなった。いわば彼の史論の集大成的なものである。
山陽はここで、中興の失敗を、後醍醐天皇の不徳のほうに重点を置いて論じている。
 『太平記』も、基本的に頼山陽の見方と同じである。否、むしろこちらの方がオリジナルであった。
 実は『太平記』は謎の多い書物で、作者も謎だが、その内容がまた謎であった。後醍醐天皇の崩御を境に、その内容が一変してしまうのである。
 巻二一までのテーマは一貫している。朱子学的なものである。また巻二三以降巻四〇までのテーマも一貫している。こちらは、無念の死を遂げた大魔王崇徳上皇を頂点とする、過去の天皇、および後醍醐天皇を中心とする南朝方の怨霊の跳梁跋扈である。
 実は後醍醐天皇崩御の直後には一巻(巻二二)欠落があるのだが、それを境にテーマが一変することを考慮すると、どうやらそれぞれの作者は別人であると考えた方が良さそうである。
 後者の方はさて置き、ここでは朱子の思想によって書かれた前者すなわち巻二一までを検討することにしよう。
 ここではこれを原『太平記』と呼ぶことにする。
 さて原『太平記』の作者は、なぜ、太平とは程遠い南北朝の動乱を描いたにもかかわらず、この作品を「太平記」と名づけたのであろうか。これも昔から言われる謎のひとつである。
 しかし、これは、その序文を読めば明らかだ。答えから言うと、太平であるための教訓を記したからである。
 もちろん、ここに言う太平とは、朱子学的秩序観に基づく平和のことである。
序文を見ていこう。

「序
 蒙(自分の謙称)窃(ひそ)かに古今の変化を採って、安危の所由を察(み)るに、覆って外無きは、天の徳なり。明君これに体して国家を保つ。載せて棄(す)つること無きは、地の道なり。良臣これに則って、社稷を守る。
 もしその徳欠くる則(とき)は、位有りといへども、持たず。いはゆる夏の桀は南巣に走り、殷の紂は牧野に敗す。その道違う則は、威有りといへども、保たず。かつて聴く、趙高は咸陽に死し、禄山は鳳翔に亡ず。
 ここを以って、前聖慎んで、法を将来に垂るることを得たり。後昆顧みて、誡めを既往に取らざらんや。」

 この序の原文は漢文で書かれているところをみても、漢学の思想によって書かれていることは明らかだが、意味を取っていくと明らかに朱子学の世界観である。
 古今の移り変わりの中に、平和と変乱の由来を探っていくと、万物を覆っているのは天の徳である。明君とはこの天の徳を体して国家を保つ者をいい、これを戴いて棄てることのないのが地の道、すなわち臣下としての道である。良臣は、この法則に則って、国家を守るのである。そして作者は、明君としての道、そなわち天の徳を賊(そこな)って湯王武王によって放伐された夏の桀王と殷の紂王の例を挙げ、また地の道、すなわち臣下としての道を踏み外して身を滅ぼした、秦の始皇帝の寵臣で宦官の趙高、および唐の玄宗皇帝の寵臣安禄山の例を挙げる。そして結論として、だからこそ、古の聖人は身を慎んで学んで、その教えを後世に残すことができたのであるから、後世の我々はこれらのことを顧みて、過去から教訓を学ぼう、と言う。
つまり平和のための教訓を歴史から得ようとして書かれたのが、この原『太平記』だったわけである。
 そして、原『太平記』で示される、平和であるための条件は、次のようになる。 ひとつは、地の道を踏み行う良臣がいること。もうひとつは、天の徳を体現して政治を行う明君がいることである。
 ではこの作者が見た建武の中興はどうだったのだろうか。
 前者の良臣に関しては、多くの忠臣を活躍させているところを見ても、条件はクリアされている。特に楠木正成の活動の描写には、作者の感動すら漂っている。そして楠木正成の湊川での敗死の後で「智仁勇の三徳を兼ねて、死を善道に守るは、いにしへより今に至るまで、正成ほどの者はいまだ無かりつる」と、最大限の賛辞を与えている。
 問題は後者の明君のほうである。もちろん、ここで明君となる資格が与えられているのは、後醍醐天皇しかいない。
 だが作者は後醍醐天皇について婉曲にだが批判的なのである。
 確かに後醍醐天皇を褒めているところもある。巻一「京都に両六波羅を据え鎮西に探題を下す事」には次のくだりがある。
 「御在位の間、内には三綱五常の義を正して、周公孔子の道に順い、外には万機百司の政に懈(おこた)らせ給はず。延喜天暦の跡を追はれしかば、四海風を臨んで喜び、万民徳に帰して楽しむ。すべて諸道の廃れたるを興し、一事の善をも賞せられしかば、寺社禅律の繁昌、ここに時を得たり。顕密儒道の碩才も皆望みを達せり。誠に天に承けたる聖主、地に奉ぜる明君なりと、その徳を頌じ、その(教)化に誇らぬ者はなかりけり。」
 三綱とは、君臣・父子・夫婦の三つの道のことで、五常とは仁・義・礼・智・信のことである。また延喜天暦の跡とは、平安時代の醍醐天皇と村上天皇の治世のことであり、鎌倉末期の公家社会では天皇親政の理想時代とされていた。本来天皇号とは諡(おくりな)であり、死後にその人物の事跡を勘案して贈られるものであったが、異例にも後醍醐天皇は生前からこれを決めていた。そして後醍醐天皇の死後、皇位を継承した義良親王は後村上天皇と諡されることになる。そこには後醍醐天皇の強烈な願望がこめられている。
 作者がここで記していることは、朱子学的世界観の天子として、満点に近い評価である。確かに北畠親房も『神皇正統記』で、後醍醐天皇が、父である後宇多天皇の学問好きを受け継いで、中古以来最も和漢の道に精通した天子だったことを認め、民の声を聞いて、早朝から深夜に至るまで政務に励んだため、周りの者も貴賎を問わず、そんな彼に天皇親政の復活を期待していたことを書いている。
 しかし一方で、原『太平記』の作者は、同じ巻一「飢人窮民施行の事」で、次のような批判をしているのである。
「誠に治世安民の政、もし機巧についてこれを見れば、命世亜聖の才とも称じつべし。ただ恨むらくは、斉の桓覇を行い、楚人弓を遺(わす)れしに、叡慮少しく似たる事を。これすなわち草創は一天を并(あは)すといへども、守文は三載を超えざる所以なり。」
 作者が言いたかったのはむしろこちらだろう。
 大意はこうなる。
 後醍醐天皇の政治は誠に治世安民のそれで、巧みさという点から見れば、世に名高く(命世)聖人に次ぐ(亜聖)才ということができよう。ただ惜しむらくは、春秋時代の斉の桓公が行った覇道や、楚人弓を遺れしに、すなわち『孔子家語』の故事で孔子が批判した楚王の度量の狭さに、頴慮が少し似ていることである。これがすなわち、草創(創業)時において天下を統一することができたが、守文(守成)においては三年を保つことができなかった理由である。
 文中、亜聖の徳ではなく、亜聖の才となっているところがポイントである。
 作者の言いたいことをまとめるとこうだろう。
 討幕までは、天皇の朱子学的王道を目指そうという意志と、それを支える忠臣があったから成功したが、その後の統治は後醍醐天皇の徳が及ばなかったから三年を待たずに失敗した。逆に言えば、三年保つ分の徳しかなかったということになる。
 おそらく作者からすれば、足利尊氏のような逆臣が出たのも、後醍醐天皇に覇道的な考えがあったからこそ、そこにつけ込まれたのであり、これも天皇の徳の及ばなかった点に数え上げられるのであろう。いくら学問勉強が出来ても、必ずしも、それが身についているとは限らない。
 しかし注意を要するのは、これは徳の及ばない点ではあっても、不徳というほどのことではないことである。
 『論語』で孔子は「斉の桓公は正しうして譎(いつわ)らず」(憲問)といい、これを補佐した管仲の隠れた仁を褒め称えているから、これを重用した桓公の政治は、王道では不足であるにしても、太平を保つ上で正しかったことは認めているのである。孔子は正邪に色分けして満足するほど単純な思想家ではない。彼の基準はあくまで人のため、すなわち仁であるかどうかだ。
 実は後醍醐天皇が目指していたのは、支那の皇帝のような専制君主であり、儒教の理想とする天子ではない。儒学を愛した前天皇花園上皇は、持明院統出身でありながら、大覚寺統出身の後醍醐天皇の政事を支持したが、それはやがて失望に変わっていく。多くの忠臣たちも、最初の期待が大きかった分、天皇の振る舞いや政治に失望していった。
 現に原『太平記』に記された後醍醐天皇の振る舞いは、徳が及ばないというよりも、不徳のそれである。
 これは北畠親房にも通じることだが、天皇への批判は、心理的にあからさまに書けなかったであろうことを思えば、作者の本心は、天皇に対する最初の期待が大きかっただけに、その分だけ、より批判的であったに違いなく、少しくどころではなく、大いに覇道的かつ狭量なものと映っていたのだろうが、少なくとも表に表れた批判は前述の論理であった。
 頼山陽は『日本政記』において、これをよりはっきりと論じている。
 つまり、南洲が、『太平記』を読んでいようと、頼山陽の著作を読んでいようと、いずれにしても、同じ結論に至らざるを得ないのである。
 『太平記』あるいは、この山陽の『日本外史』『日本政記』から南洲が、忠臣としての教訓を引き出そうとすれば、次のようになるはずである。
 天皇にその意志があり、忠臣が地の道に則って人事を尽しさえすれば、討幕は可能であるということである。
 実際南洲の語った挙兵の筋書きは、建武の中興の筋書きに沿ったものである。
 つまり条件のひとつである天皇の意志は、南洲が柏村に語っているところによれば、同志の堂上方を通じて御内意は探ってあるという。これはもちろん討幕の意志のはっきりしている同志の堂上方の内意ではなくて、天皇の内意であろう。
 もうひとつの忠臣として尽すべき人事は、これまで見てきたように、特に孝明天皇の崩御以降、尽してきている。そして、それが行き詰まった今、南洲らはさらに人事を尽そうとしていた。それが挙兵である。しかもその戦略も用意周到に練られていた。
 では、その後の見通しはどうなっているのだろうか。
 挙兵の眼目は、天皇の身柄を幕・会・桑から奪取し、これを確保することにある。ただ戦闘における勝利は覚束なかったから、天皇の身柄を確保できる同志の諸侯の領地への動座が必要になってくる。南洲はこの時点で、天皇を戦禍から守るための男山への避難しか言っていないが、西南地方への交通の要衝である大坂での挙兵には、脱出口の確保の意味もあったに違いない。
この時点では、御所を守れない場合、男山を後醍醐天皇の挙兵における笠置山になぞらえて、ここから討幕の檄を飛ばす計画だったのであろう。
 大政奉還後に天皇の動座の場所は、長州との合議の結果、山崎路すなわち男山の近くを通って、兵庫の西宮から船に乗って、当時討幕の計画に加わっていた安芸藩の領内までと決められたことから逆算すると、場所はともかく、最悪の場合の地方への動座は想定されていたに違いない。
 八月十四日に南洲が語っている挙兵計画そのものには、特定の勢力の助力はあてにされていない。
 綸旨を受けた長州藩が立ち上がって、中心となって、これを引っ張るであろうことは確信していたに違いないが、その彼らでさえ、薩摩藩の挙兵の後、討幕の綸旨を受けて立ち上がる勢力に含まれる。南洲らの発想は、楠木正成のように、外を当てにせず、一人立ち上がって、自らなしうる限界まで人事を尽くそうというものであった。
 後醍醐天皇は、楠木正成の一挙に励まされて、幽閉されていた隠岐を脱出し、名和氏の助けを得て伯耆の船上山から四方に檄を飛ばしたが、そのような勤皇藩の領地への動座は想定されていたはずである。
 南洲が京に拘っていなかったことは、山陽の『日本政記』によっても裏付けられる。
 山陽は、兵において官軍が足利尊氏に敗れたのは、後醍醐天皇が京に執着したからだとする。楠木正成の必勝の献策を用いなかった理由を、そこに見るのである。京は攻めるに易くして、守るに難い。正成は、一度はこれで、京に入った尊氏を敗走させており、そのことを熟知していたのである。
 山陽は、京は地の利がないという。
 『孟子』「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」の地の利である。山陽がこの語を念頭においていたのは明らかだ。山陽は言う。
 「元弘の、よく北条氏に勝つは、彼の道を失うに由る。而して延元の、足利氏に勝つ能わざるは、我の道を失うに由る。道失えば、すなわち人心背く。人心一たび背けば、天下糜沸す(びふつする、粥が煮え返るように沸き乱れる)。」
 つまり、後醍醐天皇の不徳の振る舞いにより、道を失い、結果、人心の一和を失い、乱になるということである。
 山陽はさらにこうも言う。
 「況や延元においては、既にその道を失い、またその地の利を失うをや。」
つまり、一番大切な人の和を失い、その上、地の利も失ってしまっては、勝てるはずがないというのである。
 さすがにこの論考は、南洲を刺激せずにはおかなかったであろう。山陽のこの説は、『孟子』のこの言葉を、斉彬から受け継いだ南洲の心をがっちり捉えたに違いない。
 最終的に勝ちを得るには、道を行なって、人心の一致一和をなすことに次いで、地の利を確保することが重要なのだ。
 彼らにしてみれば、戦闘に破れたならば、むしろ地の利のない京に執着するよりも、地の利のある場所に速やかに動座すべきだった。
 男山が幕府の直轄地であり、そこの確保が不安定であることを思えば、当然、次に、勤皇討幕というところで人心が一致一和していて、しかも地の利のある勤皇藩の領地に動座の候補地を選定しておく必要がある。それはおそらく薩摩藩領ではなく、天皇を薩摩藩で独占するつもりなのではないかという疑惑を招かないという配慮から、また四方に檄を飛ばすには中央に近い方が良いという点からも、また第二次長州征伐で幕軍を退けた実績があるという点でも、またさらに立ち上がるのが確実という点からも、長州藩領がその候補地であっただろう。(これが、後に同志に加わることになる安芸藩領になるのは、おもに一つ目と二つ目の理由からであろう。安芸から隣接する長州への動座は容易である。)
 これらについては傍証がある。柳河藩士曽我祐準の自叙伝に、次のような記述がある。
「時勢の切迫と共に、薩摩の方では、開戦の準備を益々進むように見えたれば、余(曽我)は吉井氏(幸輔)に向い、今や開戦は、時日の問題であるが、果して勝算ありやと、ちと露骨ではあったが訊(と)うてみた。氏は悠然として答えて曰く、それは保証は出来ませぬ。去りながら現在長一藩に対してさえ、克ち能(あた)わぬ幕府が、薩長聯合せば、中国、西国諸藩の呼応するもの、蓋し少なからざるべし、之に対し幕兵が、勝を制する丈(だけ)の実力あらんか、其の時初めて内は全国を統一し、外は洋夷に対して、皇国の威権を建つることを得べし。亦可ならずや。薩長の存亡、何ぞ論ずるに足らんやと。」
 つまり局地戦である緒戦を失っても、大局的な勝算は大いに立っていたのである。
 しかし、それでも最悪の場合には、最終的に、やはり天皇家発祥の聖地である薩摩藩領を想定していたに違いない。ここには、家康でさえ手を出しかねたほど、地の利がある。
 ここで、斉彬の割拠論と結合する。
 つまり天皇を戴いての割拠である。
 後醍醐天皇が百策破れて、古都の存在した大和の国、吉野の地に、南朝の根拠地を求めたように、皇室発祥の地である古の日向の地にその根拠地を求めようということである。
 また、この発想は楠木正成のものでもあった。
 『日本外史』によると、後醍醐天皇が笠置山に動座して、最初の挙兵をしたとき、正成は根拠地である河内の赤坂に城を築き、そこへ天皇を迎えようとしていたという。
 このことは事実であったらしく、鎌倉期の朝廷側の歴史を記した『増鏡』の巻一五「むら時雨」には「(天皇が)事のはじめより頼み思されたりし楠の木兵衛正成といふ物あり。心猛くすくよかなる物にて、河内国に、をのが館のあたりをいかめしくしたためて、このをはします所(笠置山)、もし危からん折は、行幸をもなしきこえんなど、用意しけり」とあり、また笠置陥落以前に尊義親王・護良親王が「楠の木が館におはしましけり」と、すでに避難していたことを記している。
 また『太平記』によれば、笠置を脱出した後醍醐天皇がまず向かったのは、楠木正成がこもっている赤坂城であった。天皇はここに向かう途中、追っ手に捕らえられてしまったのである。
 要するに楠木正成は最初から、最悪の場合、自らの領地である河内に天皇を動座することを考え、その準備を整え、天皇もまた挙兵以前からこのことを知り、うまくいかない場合は当てにしていたのである。
 さて南洲らの場合は、薩摩藩領への動座は、最悪の最悪の場合に備えてであり、だからこそ、長州人である柏村には、この時点では言えなかったし、また言う必要もなかったのであろう。
 これらのことを考慮していくと、久光を帰国させ、藩主忠義の名で挙兵することの深謀遠慮が見えてくる。
 つまり、藩主忠義を戴いてこの義挙を行うことは、名を正しくすることであり、外は天下に対しこれが久光個人の意志ではなく、藩の意志であるということを示すとともに、内は藩士を引き締め、腹を括らせることにもなる。大久保は、これまで久光の言いなりで、ひとり立ちしていない印象の強い、この藩主の出兵上京のことを、太守様御大成のためと言ったが、その意味するところは了解できるはずである。
 しかし挙兵した彼らがここで斃れる可能性はかなり高かったから、討幕の綸旨が下された後のことを処置する人物が必要であった。
 この指導を受け持ったのが、久光だったのである。最適な役割分担だろう。彼が病気だったのは確かだったが、しかし彼の覚悟は容堂のそれとは違う。彼は鎌倉以来七百年の栄光ある島津家を擲ってまで尽くす覚悟であった。
久光が期待された役割は次のよう考えられる。
 まず彼らの計略通り運んだとして、綸旨に呼応する者を糾合指導して幕軍に当ること。ただし財政面から言って、この一挙の後は、当分の間、大きな作戦行動を行なう余力は薩摩藩に残されていなかったから、南洲が「弊藩では討幕は仕らず」とは、その意味で不可能だったからであり、討幕の段階での中心として期待されたのは長州藩であったに違いない。
 次に、綸旨に呼応する者がなく、あるいは呼応してもそれが幕軍に敗れるという最悪の場合、薩摩藩領に天皇を動座して時期を待つか、四方に檄を飛ばし、幕軍を迎え撃って忠義を尽すこと。もちろんこれらには、藩をそのように指導していくことも含まれる。
 もし幕軍を破った場合は、久光は諸侯と協力して、王政復古を指導していかなければならない。
 南洲らの内で、生き残った者があれば、当然これを補佐していくことになる。
これらが彼らの挙兵以後の展望であった。




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