チャンネル桜の情報戦 (その四)  《改訂》

 昨日の選挙でいよいよ政権交代が現実のものとなった。
 チャンネル桜が敗戦利得者と喝破した大手マスメディアの老獪なキャンペーンが功を奏したかたちだが、日本国民が選んだ政党である以上何をかいわんやである。
 日本の国家的溶解はますます加速度的に進行することになろう。
 台頭する覇道国家中国という歴史の大勢は、奔流となって、衰弱していく日本を飲み込まんとするだろう。
 浸水はすでに国家の中枢より始まっているし、足元からも始まっている。
 何せ、日本列島は日本人だけのものではないと公言して憚らない、魂の抜けた人間が首相の座に着くのだ。中国共産党様もさぞやお喜びであろう。
 しかも、その操り人形を操っているのは、政治資金を流用することで日本列島の一部である不動産の買いあさりに執着し、その本質が、日本に対する旧連合国間の軍事同盟である、国連に希望を託している小沢一郎ときている。
 国連と連合国は別物であると言い張る外務官僚がいたが、それなら国連の安全保障理事会の常任理事国が、なぜ第二次世界大戦の戦勝国で占められ、拒否権を握って離さないのか。国連にもっとも資金を提供してきた日本がなぜ、近年まで旧敵国条項の対象とされ、悲願であった常任理事国入りが果たされなかったのか。
 こういった見たくないものを見ないひ弱な精神が、脆弱な精神が、日本を蝕んでいる。
 田母神問題に象徴的に現れているように、日本の歴史の真実、特に大東亜戦争の正当性という、パンドラの箱を開けた者に対する、政治家や官僚、大手マスメディア、知識人のヒステリックな、病理の域に達した反応は、このひ弱な精神による拒絶反応である。そこに戦後利得と、戦後輸入して、普遍的価値と信じ込まされてきたアメリカ的な価値観が絡んでいるから問題は厄介なのだ。
 彼らはこの点で、まるでそこに意志の疎通でもあるかのように、阿吽の呼吸で強固なスクラムを組む。日本の歴史を守るために、先人の名誉を守るために強固なスクラムを組めば、かなりのことができるだろうに、そこに向かわないところにこの国の病理の深さがある。
 彼らが目を向けているのは、アメリカと中国、そして日本の世論の動向である。これは、もちろん日本の先人たちの遺志を、歴史を、背負っている輿論ではない。
 「輿論」という言葉は、占領期間中にマッカーサーによって抹殺されたのである。「大東亜戦争」「国体」といった日本人自身を表す言葉とともに、だ。
 少なくとも先の脆弱な精神の中では、これらの言葉は確実に死んでしまっている。
 これまで日本列島を日本人のものではない、すなわち、にっくきジャップ、黄色いサルを破った日本を、獲物として、占有物として、我が物顔で統治して来たアメリカも、また、これからそのように振舞おうとてぐすねひいて待っている中共もほくそえんでいるに違いない。
 もはやサイは投げられた。
 日本は絶望の中より再生するほかない。
 ルビコンを渡りきるほかない。 


 大東亜戦争は、太平洋を挟んで手を組んだ米中の、その狭間に没した戦いという側面がある。
 現在、アメリカ発の金輸危機が契機となって、米中の連携が緊密になっているが、そのことは戦前のアメリカの株価暴落に端を発する大恐慌によって、生起した国際的事件によって、米中の対日包囲が一層昂進したことを髣髴させる。あの時は混乱するブラックホール、シナと、勃興する帝国主義国家アメリカによる挟み撃ちであったが、今回は、衰退する帝国アメリカと、膨張する覇道国家中国との挟み撃ちである。
 歴史の大勢は、戦前と平成でその流れを東西逆にしているが、日本の本質的危機という点においては、同じものなのである。
 戦前において日本は、これらに対抗するだけの力と気概をまだしも持ち合わせていた。道義的問題はなく、舵取りを誤っただけで、何とか乗り切ろうという意志を持っただけでも、十分評価に値する。
 なぜなら意志こそがすべての始まりだからだ。
 しかし、現在は、これらの戦争における敗戦の結果、力も気概も失われており、状況はさらに悪い。

 戦前の場合、大恐慌の惨状に憤慨した青年将校の中には、昭和維新を唱え、テロリズムに走る者が現れた。その気運が最高潮に達したのが、二・二六事件だった。これは幕末でいえば、幕府の対外政策における弱腰と志士弾圧に憤慨した尊皇攘夷派による天誅の嵐と同じ意味を持っている。
 これは八月十八日の政変、禁門の変で一つの頂点に達した。
 これらの事件はその形跡における異常性が我々の眼をひきつけるが、その異常性を強調するあまり、歴史的意義が見逃されがちなのは遺憾である。
 非常の事態には非常の事態が起きるもの。
 その非常の事態を、太平の怠惰な精神を以て、異常な事件、あるいは狂気の沙汰で済ませていては、その歴史的意義は見逃されてしまう。その事件に現れた歴史の意志は永遠に我々の前に姿を現さないであろう。
 我々はそこに一つの歴史の意志を読みとらなければならない。
 幸い、幕末はこれらの意思を読み取って、運動を、時代の要請に応じた、高い次元で統合する指導者が現れた。しかし、戦前においては、明治維新で頂点を極めた人材はどんどん小物化していって、特に政治指導者において、これらの歴史の意思を読み取って、これを高度に統合しうる人物は現れなかったのである。
 現在の日本において、まだそういった歴史の意志のようなものは現れているとは感じられない。あるいは、歴史を、伝統を大きく傷つけた平成日本では、そういった意志そのものが、もはやすでに存在しないのかもしれない。
 しかし、そういった歴史の意志を汲み取れるほどの人物が、少なくともよく見かける顔の中に見られないのは確かだ。

 あの戦争において、我々大和民族は、長い年月をかけて培い、明治以来、国民レベルで濃厚に受け継いできた伝統精神を燃やし尽した。それこそ真っ白になる寸前まで、魂を燃焼させた。ご聖断がなければ、日本人はその魂を焼き尽くしていたことだろう。
 もちろん伝統精神は、我々日本人そのものであり、一度敗れたぐらいで消えうせるものではない。
 それが風前の灯のようになってしまったのは、アメリカの占領政策が実に巧妙を極めたためである。
 日本人が燃やし尽くすとの覚悟を固めていた、その矢先の、降って沸いたような突如の終戦は、魂の空白を生んだ。その空白に、アメリカの占領政策、贖罪意識の植え込みという文明破壊行為がじわりと浸潤してくるのである。
 そもそも日本人は古来より首都を城砦で囲うことが極めて少なかったことに象徴されるように、心の垣根の低い民族である。心の武装解除は容易になされた。
 それはさながらやくざを信用してしまったうぶな生娘の如きものであった。暴力を愛と勘違いし、私が居なければ彼は駄目になると純に想っている。彼女は売られて初めて裏切られたことに気づく。
 もちろん売り飛ばすマフィアはアメリカ。買い手のマフィアは中国である。
 マッカーサーが日本人の精神年齢を十二歳と見積もったのもむべなるかなという気はする。

 アメリカ人は、カルタゴを滅ぼしたローマ人が、焼き尽くした首都の廃墟に塩をまいて、この文明が根絶やしにされることを強く望んだように、日本人のエートスをとことん破壊して、二度と立ち上がることのないように、厳重な態度で占領政策に臨んだ。
 一説によると、アメリカは日本の統治は最低でも二十五年、状況次第では五十年もの占領統治が必要と考えていたという。
 これは日本国民が大東亜戦争で見せたあまりにも強靭なエートスを破壊するには、一世代、それで無理なら二世代の植民地支配が必要と見積もっていた、ということだ。この見積もりが決して見当はずれでなかったことは、戦後六十年以上、すなわち二世代以上を経た今日の、日本の現状がすべてを物語っているといえよう。
 首都圏に集中しているアメリカ軍基地関連施設は、かつては共産主義勢力ににらみを利かせているという面もあったが、現在は北朝鮮や中国にだけにらみを利かせているとは限らない。あれは実は、勝手なことを許さぬよう日本の首都ににらみを利かせているのである。あるアメリカ軍司令官は、このことをビンの蓋と表現したという。
 我々は頭を、精神をわしづかみにされているのである。言わば頭部に銃を突きつけられている状態といえようか。
 この銃は戦後発砲されなかったことによって、もはや撃たれることもあるまいと国民は高を括り、銃を突きつけられていることさえ忘れつつあるが、潜在的な脅しを利かせていることは間違いない。

 日本人はお人好しであることを認めて、こういった厳しい現状認識こそ彼らから見習わなければならないだろう。本来なら、それこそがあの敗戦から学ぶべき事であったはずだ。
 しかし、そういった本物の賢者は、戦後日本に極めてまれにしか存在しなかった。
 インディアンを虐殺し、フィリピンを植民地支配して、ここでも多くの反抗的な勢力をとことん虐殺して来たアメリカならではの、骨がらみの、残酷な人種差別的発想。
 そもそも、戦争末期に彼らが行った蛮行である、主要都市に対する無差別爆撃や原爆投下などは、その延長線上に考えられるべき行為なのだが、そういった性向を持たない日本人が、彼らの非人道性、酷薄さに由来する厳しい現状認識をまねようという事自体がどだい無理な話なのだ。
 しかし、これは日本人の特性たる勤勉さで身につけることによって、克服していくほかはない。

 知っているだろうか、日本人の勤勉さが、禅と儒教に由来することを。
 これらの精神の草分け的存在である江戸時代の鈴木正三は禅を、石田梅岩は「論語」の影響を強く受けて、後に勤勉の哲学と呼ばれることになる学問を、民衆レベルに浸透させていったのである。詳しくは、山本七平氏の『勤勉の哲学』『日本資本主義の精神』を読まれよ。
 明治初期、維新政府の財政基礎確立に腐心した渋沢栄一は、実業界に身を投じ、官尊民卑の風潮の是正に努め、五百以上の会社の設立に携わった人物だ。彼は、近代日本の資本主義と「論語」の道徳性を結び付けようとした。
 先の日本主義の伝統に則した考えを自ら実践躬行したわけだが、このことは、西欧における資本主義の発生がプロテスタンティズムに由来していることと並行的な事象である。
 渋沢栄一が、西欧におけるキリスト教的なものとして、「聖書」のようなものとして、「論語」を捉え、これを近代日本の、近代大衆社会の価値規範の背骨にしようとしたことの妥当性を物語っている。
 江戸時代の学問的成熟と、一般庶民へのこれらの価値の浸透を踏まえれば、そこから身を起こした武州血洗島の商人の彼が、近代日本の礎にこの規範を据えようとしたのも当然過ぎるほど当然である。しかも、南洲翁を中心とする王政復古派は、「論語」および「孟子」の精神を背骨として、運動を推進し、これを成し遂げたときている。
 現在、経済的成長著しい中国では、拝金主義の蔓延への反省から、伝統的規範への見直しが高まっているという。北京五輪の開会式でも、そのことが強調されていた。しかし、そこは覇道国家中国のこと、毛沢東の再評価などもあり、政治的利用という側面に限られているのである。
 が、外務省のチャイナスクールはなぜそのような側面に着目しないのだろうか。もし本当の日中友好を願っているのなら、そこを梃子に、将来への布石を打っていくことも可能であろう。その場合、副島種臣の為した王道外交などは大変参考になるはずだ。
 その中国では、現在最も見習うべき日本人のひとりとして渋沢栄一が挙げられている。拝金主義に傾きがちの日本の財界にも、渋沢栄一を見直す動きは細々としたものながら常にあるし、「論語」を座右の銘としている指導者も多い。人生の辛酸をなめた日本人の多くが「論語」が大好きである。
 こういった方向からの日中外交のアプローチも可能ではないのか。

 その渋沢栄一は、日本の国体について、古代シナに生まれた孔夫子は万世一系の国体を知らなかったから無理もないが、万世一系という日本の国体を知ったならばどれほど賛嘆したか分からないという趣旨のことを言っているが、このことは「論語」の深い理解からくるもので、決して見当はずれな見解ではない。私もこの見解に賛成だ。

 ここでも話は、儒教と禅の影響を強く受けた江戸期の武士道に収束していく。
 この面からも、皇室奉戴を主張し、それらの精神を凝縮したような西郷南洲翁の精神に行き着いた水島氏のエートスは正常に働いているのである。

 

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この記事へのコメント

2009年08月31日 23:26
『日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』、面白いです。共和党と民主党は、真逆な思想と政策らしいです。今、内容を、ブログで紹介しています。
哲舟
2009年09月02日 16:58
はじめまして。
ご紹介ありがとうございました。

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