チャンネル桜の情報戦 (その二)

 圧倒的に不利な状況を克服するには、尋常でない献身的努力、自己犠牲の精神を必要とする。そして、それが切所にさしかかった時には、一種の物狂おしさを感じさせるものにならなければならない。というか、なるはずである。
 その点、現在の日本の状況はどう見てもそこまでは行ってない。
 少し前のチャンネル桜の番組で、水島氏は、日本人には絶望が足りない、と喝破していたが、全くその通りである。
 かつて、吉田松陰の高弟高杉晋作は、「艱難はともにすべく、富貴はともにすべからず」という名言を吐いたが、絶望的状況にあってはじめて、人間は一つの目的に向かって一丸となって突き進むことが出来るのである。日本人が歴史・伝統に基づいた連帯を取り戻すということは、日本人であり続けるということに対する絶望が切実なものとならなければ起こりえないのである。

 明治維新においてもそうだった。
 幕末の絶望的状況にあってはじめて、それまで犬猿の仲であった薩長の盟約は成立したわけだが、これが王政復古派を結束させる基となった。当時長州は防長二州に逼塞し、薩摩の活動は朝廷を一橋・会津・桑名勢に押さえられて行き詰まっていた。それが維新回天の条件を成した。
 その後紆余曲折はあったものの、明治四年の廃藩置県の難業を成すまでは、王政復古派の連帯は何とか保たれていた。
 それがいよいよ破綻する羽目になったのが、征韓論の破裂であった。
 この政変は色々と複雑な要因が絡み合っているが、その一つの要因として、大久保や岩倉などの洋行組に、王政復古事業は、廃藩置県を以て一つの区切りを迎えることができたとの安堵感があったことを挙げることができる。
 それがなければ、南洲翁を首班とする留守内閣に、後事を託して洋行するなどということはできなかったはずである。
 その安堵感の上に、洋行派の認識における国内政治に対する二年間の空白があり、その空白に、薩長の結束に連帯の基礎を置いた大久保と、薩長閥にとらわれぬ公議による国内の統合を目指した南洲翁の思想的相違が決定的に作用し、大破裂と相成ったわけである。
 少なくとも大久保はこの政変を幕末以来の王政復古事業の総仕上げと見、南洲翁はいわゆる征韓論に始まる大陸政策を、王政復古事業拡張の次なる一歩と見ていた。
 征韓論破裂から西南戦争の終焉によってようやく収まる一連の内政混乱には、大変深い歴史的意義が含まれているのである。
 
 さて、ことほど左様に、連帯し、これを維持するということは難しいわけだが、これは教条主義的にみんな仲良くしなさい、と言ったところで、そう簡単にできるものではない。
 外的危機が必要である。
 だからこそ、カルトは外部の敵意を、危機を言い募って、組織の結束を図る。
 オウムや、北朝鮮などはもっとも顕著な例だろう。
 中国や朝鮮半島では、反日が彼らの結束要因となっている。
 日蓮系の宗教なら法難がその役割を果たしてきた。真理だからこそ迫害を受けるというのだ。
 しかし、これらは為政者ないし指導者によって作られた敵意である。
 現代の日本にそのような必要はない。
 というのは、現在日本が直面している危機は、本物だからである。
 それは昭和の初期に大日本帝国が直面した危機に比すべきものである。否、その敗北による伝統の破壊、伝統精神の崩壊を前提にした、さらに深刻な危機といえるかもしれない。
 その証拠に、昭和の国民に較べて、現在直面している危機に、平成の日本人はきわめて鈍い反応しか示していない。
 感じていないのではない。
 感じつつも見て見ない振りをしているのだ。世論全体として見るならば、自分を自分でだまし、ごまかしているという、きわめて人気の衰えた弱い精神状態なのである。
 これでは強い覚悟・意志を必要とする危機の克服など覚束ない。
  
 幕末、この国の政治指導階層には武士道というものがあった。
 新渡戸稲造も指摘しているが、これは儒教の規範によって権威付けられていが、一流の人物の思想は、我国の皇室の存在と結び付けられて、これらシナ由来の思想を突き抜け、あるいは極限まで深化させて、日本固有の思想にまで止揚されていた。その学問の弁証法的な展開が、幕末の王政復古討幕運動なのであった。
 この運動を最終的に統合する中心的役割を果たしたのが南洲翁であるわけだが、その思想の中心にはいわゆる「孔孟の教え」に由来する人心の一致一和を重視する思想があった。
 もちろん、その基底には、日本古来の和を重視する伝統的感情があったわけだが、それだけでは、あのような、強い意志を持った強固な運動を展開することはできなかったであろう。
 どうしても儒学によって陶冶された武士道がなければならなかったし、そのためには、儒学を官学として採用した江戸期の、二百五十年にも及ぶ太平の、学問的熟成期間を経る必要があった。
 象徴的な言い方をするなら、本居宣長の和心(大和魂)から吉田松陰の大和魂への変化が必要であった。
 
 しかし、そのような歴史的条件を備えた幕末でさえも、十年以上にわたる騒乱を経験しなければ、明治維新という新たな連帯、統合を勝ち得ることは難しかった。
 にもかかわらず、現代日本はそういった歴史条件を欠く。
 つまり大変厳しい状況にあるわけだ。
 しかし、そういった精神は、先人たちの生命を燃やし尽くした努力によって、すでに伝統の中に用意されている。それをつかみ出して、未来に向けて力強く踏み出すか否かは、偏に、我々の精神の緊張にかかっているのである。
 道が人を弘めるのではない。
 人こそが、すでに存在している道を自ら見つけ出して、これを弘めるのである。

 前回紹介したチャンネル桜の討論番組で、富岡幸一郎氏が、本来なら大東亜戦争は明治維新の頃から語られなければならないが、現在の日本の言論状況はそこまで言っていないと言っていた。もちろん現在大東亜戦争の歴史的意義を明確にする必要があるのは、これによって大きく害われた現在の日本の輿論、日本人のエートスを再生させるためである。
 ということは、日本人のエートスを再生させるためには、本来なら明治維新から語られる必要があるということである。林房雄は嘉永、すなわちペリーの来航から語られるべきだと言ったが、これは同じことを言っている。
 もちろん戦前の人は、そういった意識を持って、英米の圧迫と東アジアの混乱に立ち向かって行ったのであるから、これは当然のことだ。
 戦後、戦犯容疑者として尋問された石原莞爾は、アメリカ人尋問官に対し、そんなに戦争の責任を追及したいのならペリーを連れて来いと言って、相手を閉口させたというが、このエピソードはこのことの一つの現れである。
 
 私も同じ発想から、大東亜戦争を語るには明治維新を語るに如かず、明治維新を語るには、その中心的役割を果たしながら、未だ謎の多い人物である南洲翁を語るに如かず、と考えて、南洲翁の人物の解明を志したわけである。
 今、それを経て感ずることは、我々が大東亜戦争を想起した際感ぜられる、特攻隊などに象徴されるエートスは、すでに明治維新において経験され、それが民族的経験となって、その後の日本人の生き方の定準とされたのであってり、その逆ではなく、やはり大東亜戦争を語るにはそこから語るのが議論の筋だろう、ということだ。
 別に、皆が南洲翁を聖人あるいは英雄とし、そこから語れとは言わない。
 しかし、これらの精神の結晶である、「王政復古の大号令」や「五箇条の御誓文」の深い理解から議論をはじめるのでなければ、大東亜戦争のような、民族的な叙事詩にして、世界史的な大事件に関する議論の本位はなかなか定まらないのではあるまいか。
 それが大東亜戦争に関する議論を、見たり、読んだりして、常に感じるもどかしさとなっている。大東亜戦争について論じるのに本来なら明治維新から語られなければならないなら、迂遠なようでもやはりそこから議論しはじめる必要があるのではあるまいか。

 話が回りくどいようだが、そのこととチャンネル桜の情報戦とどこでつながってくるのか。
 次回そのことについて書きたいと思う。

 
 



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