大和民族存亡の条件(その一)

 山本七平氏は、われわれが奴隷状態を脱して、進歩し、生きていくためにはどうしろと言っているか。
 もちろんそれは安易な回答ではない。
 山本氏が『存亡の条件』で述べていることを要約すると、自分の行動の本当の規範となっている思想は何なのかということを、各人が工夫して、それを客観的につかみ直すということである。
 確かに、そのような工夫をしている人が、「ではどうしろと言うのか」という、多分の不満を抱えた問いかけをするはずがない。むしろ識者の問題提議に感謝して、自分で考えるためのよき材料にするはずである。もし問いかけがあるとすれば、もう一歩踏み込んだところを、より深く考えていると思われる人に、謙虚な姿勢で尋ねようとするだけであろう。
 「たかじんのそこまで言って委員会」での、鈴木氏や辛坊氏の問いかけが、その工夫をしていない人のものであることは明らかだ。つまり奴隷である。
 西尾氏が、そうお考えになる方は勝手にそうお考えになればよい、と突き放すのは当然で、何かの奴隷になっている人は、問いかけながらも、実は聞く耳などは持ち合わせていないのである。

 西尾氏は「ではどうしろ」という部分については言えないとしている。それは西尾氏が個人としての工夫の上に到達した意見であり、こうしろと言えるものではないからである。
 皇室問題ということもあって、西尾氏はどこまでも謙虚であって、節度を弁えているのである。だから所氏の節度を弁える必要があるとの批判は、実は当たらない。
 もちろん所氏は「ではどうしろというのか」という愚問を発しないが、西尾氏に対して大変批判的である。
 これはまた別で論じたいが、両者の対立は、一つは、日本の多種多様な伝統の中で、ともに皇室を敬愛しながらも、おのおのが属する伝統を異にしていること、および、どこまで物事が、この場合、どこまで皇室の本質的危機がよく見えているのか、という現状認識の違いに由来している。

 ところで、山本氏は日本人各自が、自分の行動の本当の規範になっている思想を知ることが、奴隷状態を脱する道であると言った。それは一般論としては、とりもなおさず、日本の伝統思想を再把握することを意味する。
 なぜなら、それは、明治以降の日本人が、西洋由来の啓蒙思想に突っ走ってきた結果、過去において清算したつもりでいた思想に、無自覚で、客観的に把握できないために、却って拘束されることになり、まるで命令されるように支配されることになっているからである。つまり民主主義や西洋由来の自由・平等・人権などの概念はあくまでも借り着であって、実は日本人は未だに伝統規範に無意識ながらも拘束されて生きているのであるから、まずはそれを再把握しなければならないのである。
 その上で、その伝統規範に生きるならばそれもよし、他の規範を見つけて生きるならばそれもよし、ということになる。それでこそ本当の自由は得られると、山本氏は言うのである。
 確かにその通りであろう。
 我々は、権威だからといって、テレビに出ているからといって、そういった工夫がその人の中で成されていると思わないほうがいい。日本の知識人ほど盲従が危険な人種はいない。彼らこそは、そういった工夫ができていないということを肝に銘じておく必要があるのである。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック