大和民族存亡の条件 (その三)

 我が日本文明の盛衰、消長を象徴するのが、我が文明の中心たる皇室の存在である。
 西尾幹二氏は、昨年話題になった皇室に関する一連の言論活動で、この皇室が危機に瀕していると、強い警告を発したのだ。それはすなわち、我が文明が危機に瀕しているということと同義である。
 これに対し、皇室を深く敬愛し、これを信仰する立場から、言葉を慎め、もっとそっとしておいて差し上げろ、不敬である、と強く非難したのが所功氏である。もっとも所氏は、そんな慎みのない表現をしていないが。

 同じ皇室を敬愛し、支持する立場の人でも、どちらの意見を支持するか、大いに意見の分かれるところであろう。もちろん、独自の見解を持している人もいるはずだが、ここでは問題を単純化するために、両者の見解に絞って考えることにする。

 さて、この問題を考える手がかりとして、ここ数回、山本七平氏の言葉を扱ってきたわけだが、氏の処方箋は、要するに、精神的奴隷にはなるな、伝統規範、あるいは自己の価値規範の再把握を行なって、自由意志を持て、ということだった。氏はそのためには、自己のどのように規定するか、次いで世界における自己の位置をどのように規定するか、という作業を行なわなければならないといっている。
 これは福沢諭吉の「一身独立して一国独立す」に通ずる明治草創以来の伝統的な考えだ。それはさらには、「天地の間に己れ一人生きて有ると思うべし」と言った熊沢蕃山と、その師友中江藤樹以来の日本儒学の異端(官学の朱子学に対して)の伝統まで遡ることができる。その伝統の中に、維新回天の大業は成り、そこには「人を相手にせず、天を相手にせよ」と言い、福沢が文明精神の体現者として敬慕してやまなかった西郷南洲翁が屹立しているのである。

 確かに本質的な危機の時代には、それを成し遂げた、あるいはそれを成し遂げようという強い意志を持った人間がひとりでも多く輩出されることが望ましい。これを読んで、そういった人物が早く現れないかな、と思った人も多いだろう。
 しかし、そう思った時点で、その人はそういった自由意志を持つ機会をひとつ失うことになるわけだ。なぜなら、自己がどのように日本人の一人として行動し、そして責任を負うのか、という発想になっていないからである。それは、「ではどうすればよいのか」と人の指示を仰ぐ、山本七平氏の表現で言えば、奴隷の発言であることはすでに触れたところだ。

 山本七平氏の処方箋は、国民個々のありかたとしてはその通りと言うほかない。
 しかし、国家大の問題として論ずるならば、そのあり方を通せる人間はいつの時代もほんの一握りにすぎず、大半の国民は、大なり小なり、何らかの長い物に巻かれながら、日々の生活に追われて生きているのが実情である。
 戦後、日本のマス・メディアが垂れ流し続けている、偏った情報を鵜呑みにしている人はもちろんのことながら、堅実な社会生活を営んでいる人でも、マス・メディアの情報に懐疑の念を抱きながらも、そこから一歩踏み出すことをせず、判断を留保したまま、日常を生きざるを得ない人が多いはずだ。

 先日も天下のNHKが「アジアの一等国、ジャパン・デビュー」という企画番組で、日本の台湾統治に関する捏造番組を放映していた(4月5日午後9時放送)。当時の大日本帝国による台湾併合および統治の実情に関して知識がある人には見抜けたはずだが、一般の国民がどれほど、映像のプロが作る、情報操作された内容を見破ることができただろうか。
 仮に「ほんまかいな」と疑いを持つことがあっても、そこから一歩踏み出す人はほんの一握りだろう。ましてや積極的な行動に移す人となるともっとまれである。

 日本は危機克服のために行なった明治維新以来、「五箇条の御誓文」という国是にも現れているように、天下の公論による政治を目指してきたことを思えば、こういった公論、それは輿論と言い換えてもいいが、それを支える人たちに正しい情報を与え、関心を持ってもらうことは大変重要なことだ。
 社会に浮遊する感情である世論と違い、輿論は、それを担ぐ民衆の声である。それは堅実な社会生活を営んでいる人たちによって支えられた公論であり、社会が有効に機能している状態であれば、民衆の代弁者が社会の輿論を担うことになる。すなわち代弁者が神輿に担がれる格好になるわけだ。
 しかし、社会が時代の変化に対応できなくなってくると、天下の公論は、民衆の代弁者では担い切れなくなる。そういったときに必要とされるのが、山本七平流に言えば、自由意志を持った人物、福沢流に言えば一身独立した人物の、声であり、行動である。
 その中で、もっとも民衆の支持を得た人物が、公論・輿論の保持者として、国民をリードしていくことになる。
 明治維新が示した王政復古討幕・公議政体運動のあり方というのは、そういうものであった。

 王政復古討幕運動を、単なる権力闘争としか見ることができない、乏しい知性・醜態をさらしている人が未だ後を絶たないが、彼らの歴史を見る目は節穴だらけで、取るに足らないにもかかわらず、そういった歴史観を受け入れて納得している輩が多いのは嘆かわしい限りである。お客がいるからこそ、そういった史家を自称する人物の活躍する場がまだあるのだろう。
 しかし、浅はかな論とはいえ、これを支える人たち、これはそういった感性を持つ同類の人たちだが、それがあるからこそ論が成り立っているのも事実である。
 それを考えれば、この輿論を支える人たちの意識を覚醒していくという作業は知識人・言論人の重要な務めといってよいのではないだろうか。
 日本は戦後の占領政策によって、この輿論を支える民衆の意識が大きく傷つけられてしまって、今日に至っているのである。それはほとんど致命的といってよい傷であった。
 そこのところをGHQの焚書図書という問題に当たって、切実に意識しているのが、西尾幹二氏なのである。
 
 
 そもそも日本の皇室は民とともにある存在であって、対立する関係にはない。日本は君民共治の国体と言える。
 天皇陛下は、皇祖皇宗の伝統的祭祀を受け継ぎながら、古来から大宝(おおみたから)と呼んで大切にしてきた民の安寧を祈る。
 これに対し、民の側でも皇室を尊崇し、皇室の繁栄を千代に、八千代に祈る。天皇陛下万歳とはその意味である。
 それは皇室の繁栄を祈るとともに、民の繁栄を祈る歌でもあるのである。
 戦後の進歩的と称する知識人が理解できなかったのが、この二面性である。
 明治維新は、この伝統精神を、高度に実現しようという意図でなされた革命であった。もちろん、そこには皇室文化と武家文化の融合という、この国の性質を異にする二大文化の統合・強化で乗り切ろうという意図もあったが、武家文化の皇室文化への合流解消によって、身分制度を解消し、民衆を含む天下の輿論をいかに経綸へ反映させるかという問題意識もあったのである。ちなみにここに言う経綸とは、経済政策のことではなく、それを含めた、天下の公論に基づいた詔勅による政治のことである。
 彼らがそれを実施するうえでの模範にしたのが、当時もっとも進んでいると考えられていたイギリスの議会制であった。
 その後紆余曲折はあったが、日本の政治はその方向で進められてきた。
 その点、日本人に民主主義を教えたのはアメリカであるとのプロパガンダを、敗戦直後の昭和二十一年元旦の詔書で、明治天皇が祖神の前でお誓いになった「五箇条の御誓文」をお示しになることで、明確に否定された昭和天皇の深慮を、日本人は深く心に留めておく必要がある。

 大日本帝国憲法の起草において、伊藤博文は、日本の国体において、皇室は全身の各器官を司る頭であると位置づけたが、日本の歴史を振り返り、伝統を踏まえた上で、非常に常識的な考えであろうと思う。
 そういった考えから言えば、特に国際社会の荒波に果敢に乗り出した明治以来の日本において、皇室と国民は有機的な一体であって、時には頭、これは頭脳であるとともに、精神でもあるが、これの指示に随って戦うこともあれば、滋養に務めることもあった。頭と体がともに協力し合って、積極的に難題に対処しようとしていたのである。
 明治以来敗戦までの日本の歩みは、難しい状況に対する経験不足で未熟な点もあったかもしれないが、総じて言えば、日本の伝統的な意味合いにおいて、健全な成長を遂げた精神と肉体を持った青年のそれであったといっていいように思える。

 問題は敗戦後である。
 日本は博徒のような連中に、悪の限りを尽くされて、ぼこぼこにされた挙句、お前こそ悪であるとされた。そして、その処女経験のショックは深刻で、未だに拭い去れないでいる。そこに、新たな宣伝工作が施されて、精神的に立ち直れない状態でいる。誰がそんな工作を?。もちろんあの戦争で日本をしてやったりとぼこぼこにしたアメリカと、日本と戦争することで中国大陸の天下を取った独裁政権中国共産党がである。
 日本は彼らに頭を抑えられ、下手をすると引き裂かれる恐れさえあるのだ。
 そういった問題の深刻な現れが、皇室問題なのである。中共のエージェントと化したNHKの偏向報道もその一端と見ることも可能だろう。
 その問題点を、皇室と国民に向かって、投げかけた西尾氏の言論を、徒や疎かにできない理由はまさにそこにあるのである。

 
 



皇室の伝統と日本文化
モラロジー研究所
所 功

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この記事へのコメント

2009年04月22日 17:36
あのNHKの番組は本当に酷かったですね。
自分はこの機会に、
『台湾人と日本精神』 蔡 焜燦(著) (小学館文庫)
をコツコツ広めたいと思っています。
NHKが押し付ける「歴史」とは違う「歴史」もあります。
読みやすく、感動的な名著です。
お読みでなければ、ぜひ御一読を。
哲舟
2009年04月22日 20:02
「あ」さん、はじめまして。
蔡氏の本は読んだことはありませんが、小林よしのり氏の本で読んで知っていました。一度読んでみたいと思います。
親日の台湾人が本当に嫌っているのは、戦後の日本人の大陸の機嫌を窺っている姑息な態度であって、戦前の日本ではないのですが、悪質な情報操作、捏造を行なっていましたね。台湾人は漢民族で、日台戦争というとんでもないネーミングまで捏造していましたね。国民から受信料を徴収する資格無しです。
 

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