大和民族存亡の条件 (その二)

 山本七平氏は民族・国家存続の条件として、各人が精神的奴隷状態から脱することを提示した。しかし、それは安易に到達できるものではないし、誰にでも可能なものではない。各人が置かれた状況もあろうし、本人の資質の問題もある。

 そもそも人間は、本人がそれを意識しているか否かは別として、隷属する対象を持たないで生きていけるほど強い生き物なのだろうか。現に山本七平氏自身、その思想の行き着くところで、創造主への隷属を誓っていたのではなかったのか。
 それは遠くにかすんでいる山の影らしきものであり、私の目力の及ぶところではないが、どれほど強い人間であっても、形而上の存在への強い帰依なしに、自由な意思などというものを持ち得ないのであるまいか。

 私が知る限りにおいて、日本の歴史上において、それを越える意志を持ったのは織田信長ひとりであったように思える。
 一般社会において、どれほど強く見える人間であっても、人や物の存在に隷属していない存在はまれである。人によっては、それが政治の力であったり、金の力であったり、軍事の力であったり、また特定の人であったり、組織であったりする。特に戦後の日本においては、中国に精神的に隷属している人もいるし、アメリカにそうである人もいる。この類の人は、戦前の日本を絶対悪のように規定している人が多いし、軍隊を悪として、憲法を絶対視している人もいるし、また民主主義や人権を絶対的正義にしてしまっている人もいる。唯物史観というものもあった。彼らはある固定観念の虜となっている。
 また金、地位、名誉が絶対の人もいるだろう。

 こうして挙げていくと、自由な意志など、ほとんどの人が持ち得ないと言っていいのではないだろうか。ほとんどが限られた狭い範囲での自由意志である。
 もちろん、山本氏が言いたかったのは、これらの世俗的な特定の人や物、あるいは固定観念から自由であれ、ということであっただろうし、もっと深刻に踏み込んで言えば、大東亜戦争の敗北という惨禍を招いた、この国の特定のある伝統から自由であれ、ということであったように思われる。 しかし、そのためには、やはり、より高次元なものへの隷属が必要である。
 そこで山本七平氏のように、キリスト教を得た人もいれば、日本の伝統的規範の中にそれを求めた人もいる。山本氏が言う日本教がそれだ。
 前述の西尾幹二氏や所功氏はそういった人物だが、その掘り下げ方や程度に差があり、それが批判になって現れているといえるだろう。

 そういった自己の隷属した規範を強く信じ、それで自己を律し、深く掘り下げれば下げるほど、世に行なわれる事物からの自由度は高まる。私は自由意志を持てと言った山本氏の言わんとしている所をそのように理解している。
 確かにそういった個人がひとりでも多くなることが、民族の存続にとって重要であることは間違いない。山本氏の拓いた日本学によって、多くの人がその自由意志を拡大したことも間違いないところだろう。
 私が氏を敬愛する所以もそこにある。
 かく言う私自身が啓かれたのだ。
 
 しかし、一方で、山本氏が、あの戦争のA級戦犯というものがあるとすれば、それは現人神の創作者たちであり、育成者たちであると言った、そのひとつの伝統を暗に否定している点で、私と山本氏は日本の伝統に対する態度を異にしている。
 それは、南洲翁に対する認識・評価の違い、延いては明治維新観、および大東亜戦争観の違いがそうなって現れているのであるが、山本氏は、自身が経験したあの戦争を、日本人が、自らの伝統的価値観に動かされて、非合理的に始め、そして遂行した戦争だったと見ていた。だからこそ、この伝統の創出者・育成者たちがA級戦犯とされなければならなかったのである。
 山本七平氏の大東亜戦争観は、自虐史観、東京裁判史観とは一線を画するが、それでも日本を取り巻く国際情勢への目配り、およびそれに対する日本の指導層の苦心に対する理解が十分であったとはいえない。
 そういった山本氏の知見の欠けた部分に対する認識を新たに拓き、知識を補ってくれたのが、西尾幹二氏が中心となって進めた「新しい教科書を作る」会の運動であった。
 もちろん、これは山本七平氏の仕事を貶めて言っているのではない。
 大東亜戦争は、青年期の氏が巻き込まれた凄惨な経験であり、個人の歴史として語られたことはあっても、民族の歴史として語られたわけでは決してなかった。どうしても認識の限界がそこにはあり、個人の歴史としてしか語りようがなかったのである。
 日本にA級戦犯は存在しないし、もしそういうものがあるならば、強いて言えば、その創出者であるアメリカ自身が超A級戦犯であるし、それを育成してきた共産主義者こそがそれであろう。もしコミンテルンの謀略によって、日本はアメリカとの戦争に誘い込まれたのだとするならば、彼らにもまた超A級戦犯の名が冠せられてしかるべきであろう。昨今明らかにされつつある史料からは、むしろ、そちらの方が真実味を帯びつつある。
 太平のぬるま湯に浸かってきた戦後の日本人の多くは、知らず識らずのうちに、結果的に、その歴史的犯罪に加担してきたことになるのである。

 そういう次第であるから、私は山本氏が暗に否定した、この国家の根幹に関わる伝統を、否定するどころか、積極的に肯定している。
 それがあるからこそ、明治から昭和にかけての世界に躍進する日本があり、戦後の日本があるのだ。手前勝手に安易に否定してよいものではない。この伝統を否定して、今後、民族の存続も発展もありえないだろう。

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