南洲翁の新発見書簡

 南洲翁自身が、安政五年、僧月照と薩摩潟に入水した際の事情を語ったとされる新書簡が、昨年十二月の「開運なんでも鑑定団」に出品された。

 私はこれを見逃していたのだが、ある方にyoutubeで見られることを教えていただいて、遅ればせながら拝見することができた。(→http://www.youtube.com/watch?v=E1pVkv_GunE)
 出品者は琉球王尚氏の末裔の方で、代々家宝として伝えられてきた物だそうだ。

 手紙の宛先は薩摩藩士の内山伊右衛門という人物で、翁よりも八歳年下。
 後に戊辰戦役に、四番遊撃隊の隊長をつとめ、戦死したという人物である。
 手紙の内容は、テレビの解説によると、

 かねて話した通り残念に思うことは、月照和尚のことである。
 同人は僧の身分にもかかわらず、大義を重んじ、勤皇を唱え、吉之助と体を結び合って、生死をともにすることを約束したのだが、如何せん、同人は海中へ深く沈んだ為に、吉之助を見捨て、死んでしまったことは実に残念で気の毒なことであった。
 しかし、同人の勤皇の真心は、そのとき体に巻き付けていた遺書の中の歌にある。それを読むと、吉之助は今目の前に月照と向き合っているかのような暖かい気持ちになる。

…(中略)…

大君の 為と思えば なにかせむ 薩摩の瀬戸に 身は沈むとも 
 
 このような義烈忠肝の人を空しく海底の魚に食わしてまうとは、如何にも残念、落涙のほかない。


 テレビではこの書簡は真筆と鑑定されたのだが、私の読後感も同じである。

 月照の辞世は、これまで後世に伝えられてきているのは、「大君の ためには何か 惜しからむ 薩摩の瀬戸に身は沈むとも」 および「曇りなき 心の月と 薩摩潟 沖の波間に やがて入りぬる」の二首である。これは西郷家に実物が伝えられていて、西郷家が編纂した「西郷南洲史料集」でそのコピーを見たことがある。
 前者は新発見書簡中の詩と意味は同じだが、二句目と三句目がやや異なっている。しかし、記憶を元に語っているということで、このような微妙な異同は、南洲翁の場合、かえって真実味がある。

 実は『(新)西郷南洲伝』の上巻を書いたとき、私は同じく薩摩藩士で、翁と親交があり、事件直後奄美大島に流された翁から直接事情を聞いた重野安繹(やすつぐ)の証言を採用した。重野は、翁が流された当時、別の事情で大島に流罪となっていたのである。彼が旧知の翁と数日間ともに過ごしたことは、翁の書簡からも裏付けられている。
 その重野の証言によれば、月照と翁はがっしり抱き合って、なかなか離れなかったそうだ。もちろん月照は死んでいて、翁は仮死状態である。
 彼は翁がそう話してくれたと言っているのだが、今回発見された書簡が本物だとすれば、もちろんこの新発見書簡の方が信憑性は高い。つまり月照の遺体は見つからず、引き上げられなかったということだ。

 私にこの番組がyoutubeで見られることを知らせてくれた方は、南洲翁が月照の辞世を持っていたのだから、当然辞世の交換が行なわれていたはずで、翁の辞世は月照が持っていたはず、との推理を示してくれたが、もっともだと思った。月照の遺体が海の底に沈んで引き上げられなかったとすれば、交換されたはずの南洲翁の辞世が海の藻屑と消えてしまったのは当然だからである。
 まだ確実ではないが、南洲翁の城山での辞世が発見され、近日公表されるかもしれないとの情報があり、そのことも南洲翁の辞世が実は認められていたということを裏付けてくれるだろう。
 速やかな公表が待たれるところである。
 

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