天地自然の道 (その三) (南洲翁遺訓解説 2-5)

 今回は前回に引き続いて、明治維新を用意した、天道思想の源流について触れたい。

 明治維新は、ペリー来航以来十数年の人々の努力だけで成ったのではなく、様々な歴史段階を経て到達した偉業であった。
 その一つが江戸時代を通じて熟成した学問であったが、その気運を作った重要人物が徳川家康である。
 しかし、それは戦国時代に醸成された一つの流れに沿ったもので、その視点からいえば、徳川家康は、その流れを促成せしめた人物という評価になる。

 歴史というのは、時代・世界という時間の横軸を広く眺めるだけでなく、源流をさかのぼるという時間の縦軸を深く掘り下げることで、ようやく議論の本位を定めることができるのであるが、それは時代が近くなればなるほど難しい。
 たとえば、我々にとって未だに現実的な政治問題であり続けている問題に、大東亜戦争をめぐるもろもろの問題があるが、それについて詳しい昭和史の専門家と称する人たちが、いかにあの特殊な時代に詳しくとも、日本の歴史全般に対して無知であることに驚かされることがしばしばある。
 これは先日休刊の決まった『諸君』4月号に掲載された、文芸評論家の西尾幹二氏と昭和史研究家の秦郁彦氏の対談を読んで強く感じたことである。
 驚いたことに秦氏は日本史を昭和史以外知らないのだ。あの非常・特殊な時代という小窓から、日本史全体を断罪せんという潜在意識が垣間見られるのである。それは東京裁判史観というアメリカの思惑に拘束されることを意味する。やはり太平の戦後意識にどっぷりと浸かったままでは、あの切迫感ある非常の時代を理解するのは難しいのだ。
歴史探偵を自称する半藤一利氏にしても同様で、近刊『幕末史』の西南戦争の記述を立ち読みしてみたが、すぐに読むに値しないとわかって、立ち読みすらやめた。

 因循、苟安。

 彼らを見ていて私の頭に浮かぶのはこの言葉である。
 専門家の意見は、参考にはしても盲従してはならないことを端的に物語っているといえよう。

 さて、徳川家康にもこの種の問題は付きまとっている。
 家康は狸親父といわれ、大変な陰謀家と思われているが、必ずしもそうではない。
 確かに、彼は秀吉に六尺の弧、すなわち遺児秀頼を託されておきながら、後にこれを滅ぼした。これほど後世の印象を悪くしたことはないだろう。
 しかし、これも太平の世から、あるいは後世の価値観から見れば、そう思えるだけのことで、当時の社会状況や価値観を考えれば、むしろ非があったのは大坂方である。
 戦後の価値で見ていては見落としている問題が実に多いのだ。

 家康が学問を好んだことは有名だ。
 それも儒教に限らず、漢籍全般、そして仏教や神道にまで及んでいる。特に帝王学の古典『貞観政要』を好み、武家政治の開祖、頼朝を模範として、『吾妻鏡』を愛読していた。南洲翁の言動を理解するのに、儒教を中心とする漢学の理解が不可欠であるのと同様に、家康の、特に晩年の行動を理解するには、これらの学問の理解が不可欠なのである。
 そういった面から言えば、晩年の彼の関心はいかに天下に太平をもたらすかという一点に絞られていたと言ってよい。
 そこに至るまでの彼は、厳しい戦乱の時代に、幾たびも辛酸を味わされながらもそれに耐え、武家勢力の中では頂点を極めた。それを支えたのは、かの武田信玄をして、「海道一の弓取り」とまで言わしめた、その武勇にあった。
 しかし、天下を治めるにはそれだけでは十分ではない。それ以上のものが必要である。
 そのため晩年の彼は、形而上の学問を修めた人物を重用した。金地院崇伝しかり、南光坊天海しかり、神龍院梵舜しかり、林羅山しかりである。
 中でも現実政治の場で重用したのが、前回紹介した本佐こと、本多佐渡守正信であった。彼もまた、その主人同様に陰謀家のレッテルを貼られているが、恐らくはそうではない。その主人への献身振りを見ても、所領加増への淡白さを見ても、『本佐録』の思想は彼のものと言っていいように思える。

 『本佐録』は思想的に、まるで明治維新を先取りしたかのようなところがある。
 そこで述べられている天道観は次のようなものだ。

 天道とは、神にもあらず、仏にもあらず、天地のあいだ間の主にて、しかも体なし。天心は万物に充満して、至らざる所なし。たとえば人の心は目にも見えずして、一身の主となり、天下国家を治むることも、この心より起こるが如し。彼の天道の本心は、天地の間太平に、万人安穏に、万物生長するを本意とす。また天下を持つ人を天子という。天下を治べきその心器量にあたりたる人を選び、天道より日本の主と定まるなり。

 これが流浪中、世の物知りを尋ね歩いて到達した結論である。
 それは唐人から得たことからも分かるように、端的に言って堯舜の道であり、五倫五常の道であり、易姓革命の論理である。彼はその心器量にあたりたる人物として、徳川家康の元に戻り、補佐しようとしたのではなかったか。
 彼は若いときから家康に仕えて、この主が天道を行なう資質・器量を持っていることを知っていたのであろう。

 彼はさらにこの原理を日本の歴史に適用して述べているが、それはまさに後世、水戸学において行われたことである。そこには、天照大神や神武天皇に始まり、いかに皇室が政治権力を失ったのか、それに取って代わった武家政治の興亡の理由までが視野に収められている。朱子学者新井白石をして、王道の最上、天下第一の書とまで言わしめているのは、そこまでを含んでのことであろう。
 
 一方の家康は、自らは地の道を行っているのだ、という明確な使命感があったようだ。『徳川実紀』に記されている、彼の息子秀忠への遺訓とされている言葉は、後世の誰かが作ったものとも言われているが、彼の人生自体がまさにこの言葉を裏付けており、やはり家康の遺訓として伝えられた言葉を記したものと考えた方がいいだろう。

 遺訓は次の通り。

 また御所(二代目征夷大将軍秀忠)には、天下の政に於いて、いささか不道あるべからず。諸国の大名共へ、大樹の政治ひが事あらば、各代わりて政柄を取るべしと遺言しぬ。
(『徳川実記』)


 外様の諸大名には、

 …大樹の政策ひが事あらんには、各代わりて天下の事はからうべし。天下は一人の天下にあらず、天下は天下の天下なれば、吾これをうらみず。…

 と言ったという。

 ここで家康は天下の主宰者のことを言っていない。天下は天下の天下、すなわち天下万民の物であると言っているのである。天下を以て公と為すの宣言といってよい。
 家康こそは、天下を以て公と為すという地の道を、長い年月をかけてこつこつと、それこそ地道に歩いて来た人間であった、ということになろう。
 家康の遺言と伝えられる「人の一生は重い荷を負うて遠き道を行くが如し」云々の、『論語』の一条を連想させる言葉は、まさに天下という重い荷物を背負っていることを自覚した彼だからこそ発しえた言葉だったのである。

 本多正信・正純父子が、その行き着くところの天道思想から、この家康・秀忠父子を補佐しようと考えたのももっともで、それが二百五十年にもわたる太平を現出しようとはこの時点では夢にも思っていなかったであろう。
 しかも、その伝統は、二百五十年にわたる学問的成熟を経て、黒船の来航によって混乱した社会を、より強固に立て直す作用をも日本社会にもたらしたのである。それが尊皇攘夷に始まり維新となって実を結んだ社会変革であった。

 その運動の統合者となった南洲翁の敬天愛人思想を高く評価する所以はそこにある。
 
 

 



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