伝統に関する問答 ③ 「再び『孟子』の天命思想」

ヒロシさん

「孟子の日本的受容、これは大変良く分かりました。

僕が混乱しているのは、

では、それを批判している孔子や松陰を日本人や南州さん自身は排除してきたと理解してよろしいのでしょうか?

僕が孟子の事例を挙げたのは日本人が受け入れてこなかった儒教の一面を指摘するためでしたが・・・・

文王・武王の故事を容認するなら伯夷・叔斉を讃える孔子の立場や松陰の立場は矛盾するのですが。

論旨は良く分かりましたが、」

管理人

「混乱させて申し訳ありません。
完全に私の筆力が及ばないことが原因ですが、この問題は大変微妙で、言葉にするのが難しいです。これは当然で、私と同じことを主張しようとしている人が見当たらず、全ては手探りだからです。本来なら言葉にすべきではない伝統の核心部分なのかもしれません。
 でも、もう一度チャレンジしてみます。
 
 孟子の天命思想とはどのようなものかというと、天意は民意を介して現れる、だから民意を得た人物は、有徳の人物とされ、民意を失った失徳の天子の放伐が許される。これが易姓革命を正当化する論理です。
 しかし、これは「孟子」の独創というわけではないのですね。実は周王朝自身が、この論理によって、殷の討伐と、諸侯の統治を正当化していたことが、甲骨文の研究から分かっており、「孟子」の論理はこれを敷衍したものです。
 この周王朝の成立が孔子にとって厄介な問題で、王朝の連続性が望まれても、周王朝そのものが、この論理によって、前王朝の討伐を行っているわけです。
 孔子も武王のこの行為を、武王を謳った音楽を「美を尽くしてはいても、未だ善を尽くしていない」と評することで暗に批判しています。渋沢栄一はそこから孔子の理想が万世一系であるということを読み取ったのです。
 しかし、孔子が武王の弟の周公旦が創始したとされる礼楽文化を至善としている以上、この武王の行為を全否定することは出来ないわけです。文王の存在だけでは、周王朝、延いてはその礼楽文化は開かれなかったのですから。
 ですから「未だ善を尽くしていない」という消極的批判に止まらざるを得なかったのだと思います。
 後の「孟子」の時代になって、墨家が信仰する洪水の神禹に対抗するために、儒家において、さかのぼって堯と舜がいたという伝説が創作されます。
 実は堯舜禹はもともと神話上の神であったのですが、周が、祭政一致の政治を行っていた神話に連なる王朝殷を倒し、神話と決別して、天と直接繋がることで地上の支配権を確立したので、この神々は人化(聖人)していったのです。 
 新井白石は日本の神話上の神々について「神とは人なり」といいましたが、孟子の時代に前後して生まれた堯舜の伝説について言うなら、逆に「人とは神なり」という事態が生まれたのですね。一見合理的な彼らの意識下には神話の世界がうごめいています。王朝における神話との連続性、あるいは不連続性がこういった違いを生んだといえると思います。
 儒家は伝説創作に当たって、武王の放伐革命以上の善を、堯舜の伝説に仮託して、禅譲という、放伐を伴わない、平和的な易姓革命を創作した。それがかの文明の限界です。
 孔子を含む周時代に生きる人間にとって、易姓革命があったというのは既成事実・歴史的事実で、神話につらなる万世一系などというものは絵空事に過ぎません。ですから孔子も触れようがない。
 孔子にとって万世一系が理想であったというのは、その言動から思想的につきつめていけばそうなるということです。江戸期の思想家がそれを読み取ったことにいまさらながら感心します。私など渋沢栄一が言っていることの重要性にはなかなか気づきませんでした。
 日本人は皇室の存在があったからそういうことに気づくことが出来たのです。

 以上のことをまとめますと、孔子は万世一系を至善とする思想を潜在的に持ちつつも、武王の事跡も容易に否定することが出来ない。そういう思想的矛盾を抱えていた。
 ですから殷王朝に殉じた伯夷叔斉をも道義的に賞賛していますし、「殷に三仁あり」と言って別の仁者をも賞賛しています。
 そして、三つの王朝夏・殷・周の礼楽の連続性発展性を大変重視しているようです。こういったところから道というものを紡ぎ出していったのですね。

 一方の吉田松陰の思想は、南洲翁のようには、自ら史料に当たっていませんので、詳しくは存じませんが、「孟子」の易姓革命の論理が日本の国体に合わぬことを指摘し、その早すぎる晩年には王政復古の主張に行き着いているところを見ると、孔子の理想と合致しています。
 それは維新、すなわち旧王朝の再興で、新たな天命が旧王朝に下ることを意味しています。
 南洲翁を中心とする王政復古派の指導者の行き着いた考えがこれですが、私が「孟子」の天命思想という場合、民意に現れた天意が、旧王朝に向かう場合と、他の新王朝に向かう場合をひっくるめて言っています。つまり易姓革命とは天命思想の一つの現れに過ぎないということです。前者を維新といい、後者を易姓革命という。その後者の中で、武力討伐を含む場合を湯武放伐論といい、武力放伐を伴わない場合を禅譲という。
 湯武放伐論と禅譲が余りに有名なので、孟子の天命思想というと混乱すると思いますが、実は孟子の天命思想といっても、内容は天意の現れ方によって色々あるのです。シナはその文化的起源となる王朝周の成立を受けて易姓革命を、日本は皇室の存在を受けて維新を確立した。しかもそれはようやく江戸期の学問的成果を受けて、維新が成立したことによって、民族的伝統として確立したといえます。
 こうして考えていくと、日本とシナの国体というのは、その成立の過程から全く異なるものなのだなと改めて感じます。
 
 ともかく江戸時代の学問的成果によって、孟子の天命思想のうち、王政復古維新思想に行き着いて、それが日本における初めての思想運動として、明治維新と成って、結実した。
 その観点から遡って日本史を眺めてみると、王政復古維新運動の魁は建武の中興にあり、さらに遡ると、天武王朝時代と承久の変という『孟子』の天命思想受容に際しての大変な葛藤があった。
 これが明治維新という、国家レベルでの統合運動として結実したということは、日本にもようやく民族的伝統と言えるものが生まれたのだな、そう思えるのです。
 民族的伝統と単なる伝統とは違います。現在まで連綿と受け継がれてきている伝統はそれこそ沢山ありますが、水流にたとえるなら、それはそれぞれの細々とした流れであり、民族的伝統というのは、この細流を寄せ集めて、一本の大河に合流する力となるものです。あるいはその大河そのものと言ってもいい。
 水源地を神話の世界とするなら、そこから流れ出て、合流の中心となる川が皇室であり、そこに他の流れを引き寄せてくる力となるものが、これまで述べてきたところの儒教、なかんずく先人によって受容されてきたところのそれなのです。
 私は日本人は原理主義的ではないけど、日本文明に原理はあると観察していて、日本という文明が困難に直面している今日、それを守ることこそ、あるいはその原点に返ることこそ、最も重要なことであると切実に思っていますので、何を受容してきたのかという一点に関心が向いています。
 排除された部分についてはヒロシさんが仰るとおりだと思いますが、ただ易姓革命の論理も含む『孟子』の天命思想に関しては、この国の根幹にかかわる重要な思想であり、受容と排除について、特に明らかにしておきたかったのです。

 この件について最後に、日本における『論語』受容を評した次の言葉を紹介しておきます。評者は、渋沢栄一の要望で、『論語』受容の歴史である『論語年譜』を著した林泰輔です。 

〔中国および朝鮮・安南(ベトナム)においては『論語』を挙業の試験(科挙のこと)に用いたるがゆえに、盛はすなわち盛なりと雖も、名利のためにこれを読みこれを誦し、あるいはその粗を咀(す)いて、その精を棄つるの憾(うら)みあり。我が邦人のこれを読むは、すなわち然らず。その外皮を棄ててその神髄を取る、ゆえに国本培養の効を奏することを得たるなり。〕

 この国本培養の最大の効が明治維新であることは論を待ちません。
 私が南洲翁を顕彰し、先人たちが棄てて来た外皮に関心を持たず、〔孔孟の教え〕の神髄を直視しようとするのはそのためなのです。そのことで日本の民族的伝統、そしてその根源というものがようやく見えてくると思うのです。」
 

ヒロシさん


「なるほど、分かりにくかったけれど天命思想は受け継いでいるのですね。
 僕も山本さんのファンなので泰時の話読んだことがあります。

 でも北条政子の檄文はどうご覧になりますか?

「人々見給はずや。昔東国の殿原は、平家の宮仕へせしには徒歩(かち)跣にて上り下りしぞかし。故殿鎌倉を建てさせ給ひて、京都の宮仕へも止みぬ。恩賞打ち続き楽しみ栄えてあるぞかし。故殿の御恩をば、いつの世にか報じ尽し奉るべき。身の為恩の為、三代将軍の御墓をば、いかでか京家の馬の蹄にかくべき。ただ今各々申し切るべし。宣旨に従はんと思はれば、先づ尼を殺して鎌倉中を焼き払ひて後、京へ参り給へ」『承久兵乱記』」


管理人

「北条政子の檄文については、これは皇室に敵対することをしりごみする武家に、武家本来の価値観である御恩と奉公の関係を再確認させ、発奮させようとしただけで、これはこれで、徳川時代まで続く武家の伝統的規範ではありながらも、武家社会の範疇に止まるものであり、皇室に結びつかないどころか、場合によっては敵対するものであるので、民族的伝統の核心とは言い難いです。今で言えば、省益ばかり考えて国益や国民の福利を思わない官僚や、会社の利益ばかり考えて公益を思わない企業人の価値規範がこれにあたるでしょう。この御恩と奉公の価値規範は、もちろん社会を律する重要な伝統規範の一つですが、江戸時代の朱子学の忠義と結びついて、尊王思想と結びつくことによって、ようやく王政復古・維新という民族的伝統へと昇華していくのです。

 それに北条政子が後世に与えた影響など、北条泰時の後世に与えた影響の比ではありません。
 北条義時・泰時父子の皇室との関係を規定した言葉こそが重要なのです。泰時はそこから民意を背景にした、道理に基づく政治を行い(それを正当性の根拠にした)、後世の武家政治家の理想像を国民に植えつけています。
 またその理念から生まれた貞永式目は、大変な影響を後世に残しましたね。日本人の法治意識は彼によって育まれたと言っても過言ではないと思います。寺子屋の教科書として、明治の初期まで使われていたといいますね。
 道義と民に由って、無私の政治を行う、南洲翁の源流に位置する武家政治家が北条泰時なのです。」

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この記事へのコメント

2009年06月10日 19:02
こんにちわ、こちらでもご活躍とは知りませんでした。

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