英雄の不在と満州問題 

 前回まで「対華二十一ヶ条要求」問題についての、日本側の情実について述べましたが、三宅久之翁の歴史認識をテーマにしていたので、主に第五号の希望事項について記述する結果になりましたが、肝心の要求事項に関する考察は疎かになってしまいました。
 書き始めて痛感しましたが、この問題は非常に難しい問題ですね。まさに今となって正確に把握するには大変困難な問題になってしまっています。
 逆に言えば、この問題を徹底的に把握しようと努めることは、歴史の本質を理解する上で大変有益なことでもあります。
 
 ある方から次のような趣旨のコメントをいただきました。
 肝心の要求事項第二号に関して、日本は旅順・大連の租借権を有していたし、満鉄の使用権も有していましたが、それは期限付きで、両港は期限が来れば返さねばならず、満鉄は買取の要求があれば手放さなければなりません。それなのに、最後通牒をつきつけて、期限の延長を迫ったことは正当な行為だと思いますか?と。

 これについて考察してみたいと思います。
 最後通牒が袁世凱の要請に応じたものであったことがほぼ事実として確定しているという中村粲氏の見解についてはすでに触れましたが、まず正当な行為か否かについて私の結論を言っておきますと、この要求事項が天下後世に一点の恥ずる所もない完璧な正義であったなどという気は毛頭ありません。維新以来の王道の精神・理想に悖る点が多々あることは否定のしようのない事実です。
 
 しかし王道精神の英雄西郷隆盛を失った明治政府には、軍事における英雄はいても、この文明精神における英雄的実力を持った政治指導者は絶えておらず、当時の世界の世論、すなわち西洋スタンダードを標準として、国家政策を運営していく道を選択したのです。
 西郷隆盛精神に私淑する者、あるいは同じ王道の精神を抱く者は多くありましたが、その多くは野にあって、政治を下から突き上げることはあっても、政治を主導するほどの力はありませんでした。(明治天皇にしても、立憲君主として、行き過ぎを修正する配慮をお示しになることはありましたが、基本的に政治家の意見をそのまま天下の公論として承諾しておられました。)
 この点で、西郷翁のような英雄がいなくなって、日本の政治に高邁な王道精神を徹底できなかったことは歎くべきことではありますが、しかし英雄は人為で作り出せるものではありません。英雄は時代が作るのであります。
 西郷隆盛という英雄は、幕末という激動の時代によって作られ、西力東漸という時勢、時代の奔流に流されて、明治十年、退場していったのです。経緯から言えば、その穴を埋めるべきであった傑出した政治家大久保利通は、西郷翁の死の翌年には暗殺されてしまいました。
 我々はいない英雄はいないとして、歴史の大勢の中を、生きていかなければならないのです。
 ですから私は二十一ヶ条の要求問題に関しては、王道精神から積極的に正当化する気はありませんが(それをするということは強弁となってしまいます)、中国や西洋列強の非難をそのまま受け入れる気はありませんし、戦後の言論空間の小窓から批判する気にもならないのです。私がここで行っていることは、正当性の度合いをはかることであり、敵対国の言い分との相対化なのです。
 ですから歴史的形跡の背後に隠れている情実を明らかにしようとするわけですが、それらを知った上で、不当とするか、正当とするかは人それぞれの価値規範によることですので、最終的には基本的に各自の価値判断に委ねるしかないと思います。それが皆さんの大好きな民主主義のあり方というものではないでしょうか。ただどういった規範でそう判断するのかぐらいは明らかにしてほしいと思いますが。

 書き始めたときはどちらかといえば弁護めいた感覚のほうが大きかったのですが、いろいろ思考をめぐらすうちに、当時の規範・経緯・情勢から言って、かなり正当な行為であったという感覚の方が増したように感じています。
 先のコメントを下さった方が仰っていましたように、戦後の感覚で見て、例の四号の要求を見てぎょっとするのは第二号要求ではないかと思います。
 もう一度見てみると次のようになっています。

「第二号・・・旅順・大連租借期限と南満州・安奉両鉄道の期限の九十九ヶ年延長、南満州・東部内モンゴルでの日本人の土地所有権や居住往来営業権、また鉄道建設や顧問招聘における日本の優先権を要求する七ヶ条。」

 日本政府は日露戦争でやっとのこと得た権益を、西洋列強が欧州の対戦で忙殺されている隙に、確実なものにしようとしていたのですね。しかし九十九ヶ年というのは、あまりに露骨です。
 中村粲氏の「大東亜戦争への道」によると、九十九ヶ年延長は決して例外的なものでなく一八九八年に英国が清国が租借した香港の例に倣ったものであったとのことです。(要求の後半については、外モンゴルにおいてロシアに同様の権利を与えており、日本に対する苦情は説得力が欠けていたといいます。)
 現に英国は香港を条約通りの一九九七年にようやく返還しています。
 私としては西洋を標準とすること自体に不満があるにはあるわけですが、しかし当時の日本の事情としては、当時アメリカに移りつつあったとはいえ、まだ大英帝国はそれまで世界の覇権を握ってきた国家だったわけで(当時の同盟国でもあり、衰退の影が差し始めた今のアメリカとの関係に似ている)、一応はその批判を避ける意図だったことが分かります。またイギリスにそれを許している中国の批判を避ける意図もあったでしょう。
 ロシアを破ったばかりの日本は生まれたばかりの中華民国をなめきっていたわけで、このあたりに日本の小面憎さを感じることは出来るわけですが、当時の日本がいかに西洋列強の世論を気にしていたかの裏返しともいえます。しかも中国は日本だからこそ強硬に非難しているわけで、差別という点ではお互い様といったところではないでしょうか。
 要求事項全般を見渡しても、日本の意識が西洋に向けられていたことは明らかです。
 ドイツの権益を受け継ぐことについて承認を求める第一号も、今後戦略的要地を西洋列強に割譲しないことを確約させようとした第四号も、これ以上支那を西洋に食い荒らされることを防ぐための予防的措置であったと見なければならないでしょう。第二号もその趣旨の一環としてみる必要があります。
 とにかく支那は、西洋列強には容易に土地を割譲してきたという前歴があったということを忘れてはいけません。日本にとってそれは脅威が増すことであり、支那政府の態度は全く不甲斐ないものに映っていたに違いないのです。
 支那の自己保全がままならないからといって、自己の安全保障にかかわってくるこの重要問題を傍観するか、それとも自ら何とかしようと動くのか。戦前の大日本帝国にはそれだけの気概があり、戦後の日本にはそれがないというだけの話ではないでしょうか。

 これだけの情実を明らかにした上でも、中国の領土である満州の権益の九十九ヶ年延長要求、しかも最後通牒を突きつけてまでの恫喝要求を正当化する理由にはならないと言う人がいるかもしれません。
 しかし、ここに大きな問題があるのです。
 そもそも満州って中国(ここでは具体的に中華民国)の領土なの?という問題です。
 一般の方はこう書くと驚くかもしれません。
 しかし、これはおそらく戦前の日本人にとっての常識であり、戦後の日中友好の影で封印されてきた、知る人ぞ知る問題なのです。これは満州国の建国にもつながってくる大変重要な問題なのです。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック