日本の国体

「せごどんの参謀」さんという方から、興味深いコメントをいただきましたので、これについて考えてみたいと思います。
 そのコメントとは次のようなものです。

「戦前の日本は天皇=国家(すなわち日本文明=日本政府)の混同にあったせいで、不安定な社会になり戦争で負けてしまった。 それ以前は日本文明(国体)は日本政府(政体)とちがって、永続性があるという確信を天皇の神聖性や万世一系の性質に象徴させたものである。そのため日本の国体は様々な政体の変化を体験しながらも、高い安定性をもたらす結果となり欧米と違い革命を経ずして近代化を成し得た。 『鉄は国家なり』ということが示すがごとく、日本全体には国家という唯一絶対のシステムしか存在しないような幻想に陥っているが、空間的広がりだけでなく時間的広がりも評価してその占有率を評価しないといけない。そうするとその占有率はごく一部でしかなく今の日本政府が日本文明であるとはいえないのである。 そういった法治国家日本以外にも社会を形作っているものがあることを、特に歴史性において積極的に認める自覚がわれわれ日本人には必要だと思われる。」

 「せごどんの参謀」さんのような日本文明の理解の仕方は大変常識的で、私も基本的にこの見方に賛成です。
 つまり日本においては、権力と権威が二分されていて、前者は武家政治に象徴されるように、世俗の権力者がこれを担当し、後者は民族的な伝統文化を継承し、日本人の精神的拠り所となっている皇室がこれを担当しているとの論です。これは、歴史の英知がこめられた、日本の独創的な国体とされています。
 全くその通りで、これが日本の歴史をダイナミックに展開させてきた大きな要因であったと思います。
 確かに日本人にはこの国体を積極的に認める自覚が必要かと思います。
 しかし、私はここで、もう一歩論を進めて日本の国体を考えてみたいと思います。このあたりは「せごどんの参謀」さんの歴史観とはやや違う視点のようです。

 私は西郷隆盛の文明史的役割、ひいては彼が中心となって成し遂げられた明治維新の歴史的意義というものを大変積極的に評価しています。
 彼の果たした歴史役割とはどのようなものであったでしょうか。
 幕末、ペリーの来航によって、日本文明の本質的危機に敏感に目覚めた日本人の有識者の間では、公武合体運動が起こります。その意味は、日本の本質的危機を乗り越えるために、朝廷と幕府が力をあわせる、すなわちこれまで分立していた、この国の権力と権威を合体させ、いわば力と心を一つにして、全力でこの国の困難を乗り切ろうというものだったのです。
 そしてここには、全国を分割統治していた各領主、すなわち各大名の国政への発言権を認めるという意味合いも含んでいました。これがその後、公議政体論へと発展するわけですが、これらは要するに、日本が国難を乗り切るために、日本人の持てるすべての力を結集しようという運動だったと言っていいと思います。
 その過程で幕府が倒されなければならなくなったのは、要するに幕府が常にこの運動のブレーキを踏む役割を演じ続けたからです。
 この精神は、かの有名な「五箇条のご誓文」にこだましていますが、特に「広く会議を興して、万機公論に決すべし」の一条にはっきりと現れています。
 『五箇条のご誓文』は、その開明的な響きが現在でも高く評価される一因ともなっていますが、これは天皇の下で、という含意があることを忘れてはいけません。
 この含意が表現上後退している理由は、既に鳥羽伏見の戦いを終え、幕軍が京・大阪から駆逐された段階で発せられた文書だからです。このことは開戦をはさんで、以前に出された『王政復古の大号令』と比較してみれば明白です。
 つまり開戦前は王政復古の基礎が固まっていなかったから、王政復古が色濃く出、開戦次いで勝利後は、少なくとも関西においては、王政復古が既成事実となったので、その主張が後退し、開明性を強調したメッセージが発せられたということです。当時、王政復古を攘夷と勘違いした攘夷派が外国人を襲撃する事件が相次いでいましたから、新政府の開国方針を急いで天下に公布する必要があったのでした。
 ともかく明治維新という運動が、公武合体論にせよ、公議政体論にせよ、人材の登用にせよ、少し後の版籍奉還・廃藩置県にせよ、日本人全体の心を一つにし、日本文明の持てる力を結集して、未曾有の国難を乗り切るための運動だったと言うことができると思います。その点に関して、明治維新の指導者たちは自覚的で、当時の文書にもこれらの思想は何度も出てきます。皇室はその統合点であり、その統合運動を最終的に統合した、その中心人物が西郷隆盛だったのです。

 「せごどんの参謀」さんはこの明治維新について、「欧米と違い革命を経ずして近代化を成し得た」と仰っていますが、私は西洋の革命のことなど詳しく知りませんし(といっても、フランス革命が、彼らが自画自賛するほど、大したものでなかったことぐらいは知っています)、西洋の革命が彼らにとって価値あるものであり、我々にとって参考にはなっても、それ以上価値のあるものとも思っていませんので、西洋の価値規範にとらわれず、先人が使った語感から言わせてもらいますと、明治維新は立派且つ徹底した革命だったと自信を持って言えます。
 革命とはそもそも天命が革まるという意味です。シナにおいてこの言葉は易姓革命を意味し、皇帝の首が新たな権力者に斬られて、王朝が変わることを意味しています。すなわち王朝の姓が易(か)わるから易姓革命です。
 しかし日本において天命が革まるとは、要するに衰退していた王朝が再興することを意味すると捉えられたのです。ですから、おそらく易姓革命と区別するという意図もあってでしょうが、維新という言葉が慎重にも選ばれているのです。
 維新という言葉は、詩経の「周は旧邦なりといえども、その命は維(こ)れ新たなり」という詩に由来しています。周とは古代シナの王朝で、高度な文明を築き、孔子はその礼楽文化を創造したとされる周公旦を聖人として崇敬していました。
 つまり先の詩は、古に栄えた王朝が、天命を新たにして復活する様を謳っているのです。日本における古に栄えた王朝とはもちろん我が皇室に他なりません。
 我々はもっと革命という言葉を、我々の言葉として堂々と使っていいのではないでしょうか。そう、諸外国が革命という言葉を使うときに、日本の革命である明治維新をイメージして、使うことが躊躇われてしまうほどに。
 おそらく、皇室という伝統の保持者の再興によって、巨大な人的・物質的破壊を伴うことなく、文明力を再生させるというような奇跡を起こせるのは、これまでも、またこれからも日本ぐらいのものでしょう。
 この私の日本文明観から言えば、「せごどんの参謀」さんの積極性は、失礼ながら、まだまだ足りないように思えます。

 このように私は、幕末から大東亜戦争の日本文明存立の危機の時代に、権威と権力の統合が行われたことを、文明の本能として健全であり、自然なこととして、その意義を積極的に評価しています。
 事実、日本の歴史を振り返ってみると、国家存立の危機が意識されたとき、この統合の機運が高まることを見て取ることができます。
 7世紀、超大国唐の膨張時代、天智・天武の親政が行われたことや、元寇直後、後醍醐天皇の倒幕が成功したことなどがそのいい例でしょう。
 一方で、そうでなかった時代、すなわち武家が権力を握った幕政時代に、権力と権威が分離していたことも、あるいは大東亜戦争後の時代に(つまり現代ですね)、権力としての政府と、日本国民の象徴という名で、権威としての皇室が、幕政時代ほどではなくとも、分離していたことも、健全なことだったと思っています。この時代日本文明はアメリカの核に守られていて、外部からの本質的脅威に直面していませんでしたからね。日本全体が一致協力しなければならない大きな問題は、戦後の復興の他は存在しなかったわけです。
 双方の歴史運動をあわせて、私は日本文明の持つダイナミズムであり、時代の要請に見合った権威と権力の分離・統合という、歴史の知恵こそが、本当の意味での英知だと感じるのです。

「せごどんの参謀」さんには、やはり大東亜戦争時代の日本に対する嫌悪のようなものが行間に感じられますが、私はその見方に半ば同感ですが、半ば違う視点を持っています。
 明治維新は外圧という外部からの刺激に触発されたものの、内発的な革命でした。それは日本の伝統から紡ぎ出された革命だったのです。
 それを象徴するのが西郷隆盛という人物であり、その思想の背骨となっていた、いわゆる「孔孟の教え」なのです。これこそ権威と権力の統合を推し進める思想的背景となったものです。
 彼はいわゆる征韓論争から西南戦争に至る過程で、結果的に、かつての同志たちの手によって抹殺されますが、その精神は断片化されて継承されていきます。
 しかし断片化された以上、その思想的影響力は弱まらざるを得ず、政府の欧化路線もあって、日本人の行動は伝統と西欧思想の合間で迷走し続けます。 つまり統合的規範が失われてしまったのですね。
 その結果、昭和に入って、日本の政治を規制したのは、西欧の政治思想でした。私は、「参謀」さんの言わんとするところの権威と権力の混同ではなく、その迷走こそが、昭和日本の政治に硬直性をもたらしたのだと考えています。
 あの時代、日本の歴史始まって以来の文明的危機を迎えていた日本は、どうしても権威と権力を合体させ、日本国民の心を一つにし、持てる力を結集して困難に立ち向かう必要があった。しかし昭和に入っての日本は、文明としての活力を衰退させていたのではないでしょうか。権力と権威の統合の原理を、自己の伝統に求めるのではなく、西洋の価値規範に求めてしまったからです。
 革新官僚は社会主義思想にかぶれていたし、政治家は西洋の真似事である大正デモクラシー以来の政党政治で国民の信頼を失っていたし、その結果国民の信頼を得た軍部も、ドイツから輸入した社会主義思想に染まっていました。国民を軍部の統制下に置こうと画策したのもこの影響でした。
 国家神道の強制も、神道思想家である葦津珍彦によれば、ドイツ思想の日本の古典的言語による翻訳であるし、軍部の軍事思想も、軍事思想に詳しい浅野裕一氏によれば、ドイツの戦略思想によって硬直化を来たしていたといいます。
 日本の政治機構は、軒並み、西洋思想による硬直化を来たしていたのです。
 上を仰げば、昭和天皇は立憲君主制を厳格に守られていましたが、これもイギリスの王室を見習われたもので、やはり西欧です。
 開国進取を国是とした大日本帝国は、自画像の混乱による思想的迷走もあって、日露戦争の頃を頂点に、精神的活力を失って、進んで取るつもりが、却って西洋に取られる結果になっていたのではないでしょうか。
 つまりミイラ取りがミイラになったということです。
 結果的に、戦前の日本というのは、その政治的行動の動機・心情における王道と、政治的形跡における西洋覇道という、混迷状態にあったのではないか、それが分裂症的な外交方針とその破綻による組織の硬直を生んだ、というのが私の観察です。
 我々が嫌悪するのは、近代西欧の毒に当たったとでも言うべき、この部分であり、これを嫌悪させているものは、潜在的な日本人の伝統的王道心情ではなかったでしょうか。

 この観察の妥当性は皆さんのご批判を待ちたいと思います。
 

 
 

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

ナイス

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック