近代日本建国の父 

 前回、満州がシナの伝統的領土ではなく、漢民族が清朝崩壊のどさくさに紛れて、自己の領土であると主張し始めたものであり、彼らの肥大化傾向、今日まで続く領土膨張意識の現れであることを述べました。
 それらが象徴的に現れているのが、孫文の主張の変遷であることにも触れました。その意味で、孫文は良くも悪くも近代中国というものを象徴する、建国の父の称号にふさわしい人物ではないかと思うのです。

 一方で、近代日本建国の父という名にふさわしい人物は誰?という問いに対して、多くの方にはこれといった人物が思い浮かばないのではないのでしょうか。
 しかし私には大変ふさわしい人物が思い浮かびます。
 大体想像はつくと思いますが、私は西郷隆盛すなわち南洲翁こそ、近代日本建国の父にふさわしい人物だと感じています。ですからこのブログでもお札の肖像にふさわしい人物として、聖徳太子と西郷隆盛を取り上げたことがあります。

 南洲翁が建国の父ならば、その翁が薫陶を受けた島津斉彬は近代日本建国の祖父ということになるでしょうか。
 その斉彬がアメリカ建国の父ワシントンを評した言葉があります。
「フランスのナポレオン、アメリカのワシントン、一代記お読ませ、お聞き遊ばされ候際のお話に、ナポレオンは日本にて秀吉と比校する人物なり、ワシントンに比する人物日本にはなしと思えり。…(中略)…ワシントンは智勇兼備賢人と言うべし。世界中比する人物は多からざるべし。」(『島津斉彬言行録』岩波文庫より)
 島津斉彬という人物は、幕末活躍した大名群の中でも傑出した人物で、その先見的・開明的な側面ばかりが高く評価されていますが、そういった面だけでなく、徳の面においても大変優れた人物で、大変広く且つ深い感化を後々まで及ぼした人物でした。
 まさに賢人の名に値する人物ですが、その薫陶を受けて、恩義を感じていた南洲翁にとっては、ほとんど聖人に近い存在だったのではないかと思います。
 その精神を継いだ南洲翁は、同じようにワシントンを賢人として尊敬していたといいます。
 鹿児島の自宅の、自身の書斎には、リンカーンの絵と深毛の犬が凍えている人間を救う絵が掛かり、家の執事や子供の教育を任せていた川口雪蓬の書斎には、ナポレオン、ワシントン、ネルソンの大きな絵が掛かっていたといいます。これは翁の子息の遊び友達で、西郷家に頻繁に出入りしていた人物の証言で、鹿児島県教育会が証言を収集した『南洲翁逸話』という本に収められています。
 西南戦争終結後、主を失った鹿児島の西郷家を訪れた頭山満は、この川口老人と面会しました。そのとき老人は次のように言ったといいます。
「折角お出でになったが鹿児島はもう駄目です。この間まではずいぶん有用の材も茂っていましたが、残らず伐り倒されて禿山同然になりました。これから植え付けて、ああいう大木の林になるまでは容易のことではありません。しかも西郷のような大木は何百年に一本、何千年に一本出るか出ないか分からぬもので実に残念なことをしました。」 
 この老人が南洲翁をナポレオンやワシントンなどに比肩する偉人と感じていたことが窺える挿話です。
 この表現を受けてでしょうが、頭山満は南洲翁の悲報を聞いたときの衝撃を、後に次のように言っています。
「千年も二千年も年を経た神木が根元から折れて、どしんと大音響のした感じがした。」
 私も日本の歴史を知れば知るほど、南洲翁を知れば知るほど、同様の感を強くしています。
 西郷翁は賊軍の将としてその生涯を終えたため、建国の父というイメージにそぐわない、と一般には感じられるのではないかと思いますが、その行跡をたどっていくと、やはり建国の父にふさわしい人物ではないかと思えて仕方ありません。
 維新の元勲中の重鎮といえば、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允などが思い浮かびますが、陰謀臭さを引きずり、どこか腹黒いイメージのある岩倉具視や大久保利通(実際はそんなことないのですが)、どこか女性的な三条実美や木戸孝允では、どうしても建国の父のイメージからこぼれてしまうのです。もちろん当時年少で、どちらかというと受身であった明治天皇でさえ、この建国の父という言葉にはそぐわないものがあります。
 やはり、これまで不可解で、霧の中にあった人物像を正した上での南洲翁こそ、明治建国の父の名にふさわしい人物なのではないかと思うのです。
 明治天皇が西南戦争勃発の時より、南洲翁に同情を注いでおられたことはさまざまな記録から窺えますが、敵対した当の明治政府でさえ、明治二十三年の大日本帝国憲法発布時には名誉を回復しているのです。
 明治政府でさえ、この父を許すところまで行ったのですね。ただ自分の過ちを明確に認めるところまではいかなかった。

 ところで、なぜこんな話をしたのかというと、近代中国建国の父孫文の言動が、その後の中国のあり方、方向性をよく示唆しているように、やはり近代日本建国の父と呼ばれるにふさわしい西郷南洲翁の言動も、その後の日本のあり方、方向性を大変よく示唆しているからです。
 これは大陸政策にも言えることで、二十一ヶ条要求問題で見てきた日中問題の原形は、彼が中心となって唱導したいわゆる征韓論の中にすでに胚胎しているのです。
 南洲翁が賊軍の将として葬り去られることになった西南戦争。その遠因となった、征韓論政変、あるいは明治六年政変と呼ばれる事件がありまます。
 この事件が重要なのは、一つは、それまで何とか一致一和を保ってきた明治政府の中心的指導者たちが大分裂を引き起こしてしまい、終いには、西南戦争という、日本史上最大規模の内乱を引き起こす遠因となってしまったこと。一つは、その結果として、明治政府の政策が欧化路線を主流とするに至ったこと。そして、もう一つは、これは後になって大変厄介で困難な問題として日本人に襲いかかってくるのですが、大陸政策に関する重要な問題提議、およびそれへの着手の絶好の機会が封じられてしまったことです。
 一応、征韓論争といわれるように、最終的に議論の焦点が朝鮮に対する使節派遣と軍隊派遣の是非に絞られたため、朝鮮問題が主題の政変だったかのように錯覚されがちですが、実際はロシアの南下に対する対策が征韓論の主題でした。
 しかし戦後、反戦平和思想が世論を席巻し、朝鮮の植民地支配に対する贖罪意識が強く芽生えたからか、征韓論という言葉が独り歩きし、征韓論を唱えた西郷隆盛はけしからん、となりました。これに対し西郷を擁護する人は、いや西郷が唱えたのは平和使節派遣論である、と政変の本質から少し離れたところで議論が展開されるようになりました。
 政変の実態は、かなり複雑なものがあり、簡単に説明するのは難しいのですが、征韓派の主張が朝鮮問題として論じられるだけでは、彼らを弁護するつもりが却って、彼らの趣旨を矮小化することになってしまいます。

 いわゆる征韓派の主だった人物というと、南洲翁の他に、板垣退助、副島種臣が挙げられますが、板垣退助には独自の主張と思われるものが希薄で、南洲翁と外務卿の立場から実際に外交に当たった副島種臣の主張が大変重要です。
 両者の主張については拙著『(新)西郷南洲伝(下)』「征韓論政変」編で詳述したので、詳しいことはそちらで見ていただくことにして、ここでは大まかに見ていきたいと思います。
 両者の考えは基本的なところでほぼ一致していますが、南洲翁の方が天道から見た道義性において厳格であり、また満州という地域に着目していた点でも大きな違いがあったように思えます。漠然とした印象ですが、両者の思い描いていたヴィジョンは、一つか二つ桁が違っていたような印象があります。もちろん南洲翁の方がスケールが大きいという意味です。
 しかし副島ほどの外交官でさえ、その後の大日本帝国政府は容易に得ることが出来なかったわけですから、これは決して彼を貶めて言っているのではありません。
 それほど南洲翁の抱いた大陸政策というのは先見性と大胆さに満ちた英雄的なものだったのであり、またその精神的了解の下推し進められた副島の対アジア外交というのは目覚しいものがあったのです。(続く)
 

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック