満州は誰のもの? 

 二週間前、すなわち11月9日放送の「たかじんのそこまで言って委員会」に話が戻りますが、政治評論家の屋山太郎氏が、五族協和の満州国がそのまま継続していたなら、かなり繁栄して、あの地域は安定していたかもしれないという趣旨の発言をしていました。
 その発言に対し、韓国籍を持つ映画監督の崔洋一氏が植民地主義を容認する発言としてなじっていました。
 在日の韓国人としては、戦前の日本の植民地支配というものを悪としておかなければ、自己のアイデンティティーが保てないわけで、韓国人の立場としてはそれも仕方ないのかなと同情もするのですが、満州を植民地の話と混同するに至っては、この程度の歴史認識しかない人の発言を、公共の電波で垂れ流しにするのも如何なものかと思いました。
 バラエティー番組なんだから、と言ってしまえばそれまでですが、しっかりとした歴史認識を持って、あの番組を楽しむ余裕のある人が、一般にどれほどいるのでしょうか。ああいったところでこそ、屋山氏や三宅氏のような重鎮評論家の方々にすかさず鋭い突っ込みをしてもらいたかったです。日本がいつ満州を植民地支配したのだ、と。
 とっさにそれが出ないところをみると、これから述べることに関して知識がないか、それとも意識が薄いかのどちらかと受け取らざるを得ません。

 そして、その知識を欠いている崔氏は、そうと意識しているか否は別として、結果的に中華人民共和国の植民地支配を容認しているということになり、日本人による差別を強烈に意識している彼が、逆に日本人の行為のみを差別しているということになってしまいます。と言うのは、むしろ戦後中国がこの地域を領土の一部として統治していることこそ、実質的な植民地支配ではないかという疑惑が濃厚に存在しているからです。
 せめて日本人はこういった自己矛盾に陥らぬよう、ちゃんとした知識を持っておくべきではないでしょうか。言論の自由が保障され、民度の高い日本国民として、こういった無知に基づく、自己矛盾に満ちた心理状態は決して胸を張っていられるものではないはずです。

 さて、満州とは一体何なのかという問題を考える上で、まず我々が知っておかなければならないのは清朝の歴史です。これを知らずして満州を語る資格はないといっても過言ではありません。
 前回まで見てきた「対華二十一ヶ条要求」問題は、この清朝が辛亥革命によって倒れ、漢民族の政府が生まれた、まさにその直後に、日中両政府の間に起きた問題であったことを思い出してください。明治時代を知るには江戸時代から語らなければよく分からないように、中華民国を知るには、清朝から語らなければよく分からないのです。

俗に中国四千年の歴史といいますが、この言葉は、あの地域に四千年もの永きに亘って継続的な国家の歴史が存在したかのような錯覚を与えるものです。
 やはりここでも名を正しておく必要があります。 
 日本人は昔から、先進文明としてのシナの歴史を、漢籍を通じて、大変熱心に勉強してきました。しかし時代が下るにつれて、非常に重大な事実に気づいたのです。
 あの地域には、長くて数百年単位での王朝交代史はあっても、継続した国家盛衰の歴史は存在しないことを。
 すなわち、あの地域には、日本のように、一つの王朝の下での継続した民族の発展史は存在しないのだ、ということに気づいたのです。
 実は現在の中華人民共和国というのは、そうした王朝の一つ、それも共産イデオロギーを掲げた特異な王朝の一つに過ぎないのです。
 この中華人民共和国を中国と呼ぶことは、何か古代から継続してきた正統な王朝であるかような誤解を生む元になっています。
 ですから、かの地域史を論じるときは、現在でも欧米諸国がかの国をチャイナと呼ぶように、日本人も語源を同じくするシナと呼ぶべきなのです。古来、先人たちがそうしてきたように。
 現在の中国人は、日本人にシナと呼ばれることを、日本人の中国人に対する差別表現として、極度に嫌うわけですが、この呼称を日本人にだけ禁ずること自体が逆差別というべきで、本来差別とは何の関係もない歴史的用語であるシナという呼称の使用を、国内においてまで規制する理由は何もないのです。

 この、シナには王朝の交代史はあっても、継続した国家の発展史は存在しないという事実が、日本の知識人の一般的な常識となったのが江戸時代のことで、先の清朝の成立と大きなかかわりがあります。
 清朝の成立以前、シナを支配していたのは、漢民族王朝である明朝でした。この明が、秀吉の唐入りによって疲弊し、後に、英雄ヌルハチによって勃興した、満州地方から興った、女真族の王朝後金国に倒されるいう事件が起きました。
 誇り高き漢民族が、彼らが万里の長城の向こうに住む蛮族「北狄(ほくてき)」と呼んで、蔑んできた女真族に支配されるという、屈辱的事態となったのです。
 海を挟んでこの事態と見守っていた日本の知識人は、漢民族の弱さにあきれました。
 モンゴル人王朝である元を北方に追い返し、やっと漢民族が中原を支配したと思ったら、また彼らが野蛮と蔑む北方の遊牧民にやられたと。
 そして皇室という一つの王朝を戴き続けている東夷の国日本こそ、世界の中心である中華の名に値する国なのではないかと考えるようになりました。
 徳川幕府の御用学者林羅山は、これを華夷変態と呼びました。
 この意識が漢学者や国学者といった知識人の一般常識となり、尊王思想の思想的条件となるのです。ある意味明治維新を用意した大変重要な思想的事件だったといえると思います。

 さて、人口百万に過ぎない女真族は、人口膨大で広大なシナを支配するため、満州をもぬけの殻にして、民族ごと北京に大移動し、大清帝国皇帝として漢民族の上に君臨することにしました。そしてシナ伝統の精緻な官僚制を布くとともに、女真族の風俗である弁髪を強制するなど、漢民族を差別し支配したのです。
 そして周辺国をも次々と支配下に収め、モンゴル人に対しては遊牧民の首長である大ハーンとして、チベット人に対してはチベット仏教の大施主として、東トルキスタンのイスラム教徒に対しては遊牧帝国ジュンガルの支配権を引き継いだ正統な皇帝として、そして先に触れたように漢民族に対してはシナ伝統の皇帝として、それぞれ別の資格で、これらの民族を統治しました。
 女真人は、これらの民族に対し原則的には自治を認めましたが、漢民族だけは例外でした。被統治民族の中でも漢民族は低級の扱いを受け、他の被統治地域への立ち入りを制限され、統治に携わることさえ許されませんでした。
 帝国内での第一公用語は満州語で、第二公用語はモンゴル語、漢語は第三公用語に位置づけられました。
 彼らは漢民族を徹底的に差別して統治したのです。
 漢民族と満州族の婚姻は禁じ、満州の風俗である弁髪を強制、同じく衣服(いわゆるチャイナドレス)の着用も厳しく制限されました。

 そして、ここでの関連で強調されなければならないのは、漢民族の満州への移住が厳禁されたことです。
 シナへ移住した女真族は、満州の地を祖地として、他民族の移住を禁止し、無主の地としたのです。これを封禁政策といいますが、これは漢民族との婚姻の禁止とあわせて、満州族の純粋性を守り、万一、シナの統治に失敗した時の帰る場所を確保しておくためのものであったと言います。
 ですからモンゴル人や同じく属国である朝鮮民族の立ち入りも禁じていました。
 このように満州は無主の地ではありましたが、本質的に清朝、すなわち女真族の土地であり、漢民族の土地ではありませんでした。
 もちろん満州への移住が禁止されているといっても、あのフランスとドイツの面積に匹敵する広大な土地の周囲を柵で囲っているだけですから、密入国者は後を絶たないわけです。清朝が正式に漢民族の移住を許可したのは、日清戦争後、ロシアの侵食を抑えるための満州北部への殖民を奨励するようになってからでした。

 そのころ満州地方を旅したイギリス人女性のイザベラ・バードは、その旅行記『朝鮮紀行』(講談社学術文庫)の中で、満州の実情を次のように報告しています。
「万里の長城の外側にあり、満州族(タタール族)、ギリヤーク族、トゥングース族、ソロン族、ダフール族、漢族など異なった数種の部族と混交民族が住んでいる。ここで記しておくべきなのは、こういった民族のほかに約三万世帯の朝鮮人が暮らしていることで、その大半は一八六八年以降、政治的混乱と官吏による搾取のために祖国を離れた人々である。」
 ここに言う漢族は、もちろん封禁政策の解除以前の移住者ですから不法入国者です。
 そして北部は広大な原生林で覆われた寒冷地であり、
「移住者の大部分は受刑者か逃亡した罪人、軍の脱走兵、砂金掘りや人参掘りである。…(中略)・・・その中には馬賊の大組織がある。馬賊は統制がとれていて武装をしており、官軍との衝突も辞さず、また勝つことが多い。ときには、私が奉天にいた当時のように、官軍の要塞を奪ってしまうことすらある。太平天国の乱で官軍兵士が出払っていたとき、こういった馬賊はいたるところに混乱と恐怖を引きおこし、町や村を襲っては、征服権(!)によりその町や村を支配したものである。近年、政府は志願入植者を北部地方に定住させることを決め、物資援助まで行っている。」

 これが日清戦争直後の満州の状況。
 日本が清朝倒壊後の中華民国政府に突きつけた例の二十一ヶ条要求問題の十数年前の見聞記です。
 この後、この地はロシアに占領され、次いで朝鮮への侵食も開始されたため、いよいよ日本はロシアとの戦争を決意するに至るのです。
 しかし、この時点で、清朝は満州をロシアに与え、実質的にロシアを支援することを約束する密約(明治二九年)を交わしていました。いわゆる露清密約で、日本退治のためにこれを推し進めたのが李鴻章。二十一ヶ条要求の相手である袁世凱は、この李鴻章の子分でした。
 日露戦争に勝った日本はこの密約のことを知りませんでしたから、若干の権益と引き換えに、この満州を清朝に返してあげました。日本が清朝に対して領土的野心を持っていなかったことの現われで、満州の事情をよく理解していたことの証拠です。密約の存在を知っていたなら、日本は満州を清朝に返す必要はなかったのです。
 事実、中国革命の父孫文の革命構想には当初満州が入っていなかった。漢民族の土地ではないから当然のことです。彼らの掲げたスローガンは「滅満興漢」で、女真族に対する攘夷がその目的でした。
 しかし彼らの領土意識の肥大化傾向は、この孫文に象徴的に表れています。『大東亜戦争への道』において中村粲氏が検証してますが、孫文の発言を追っていくと、彼の主張は徐々に変化を遂げ、詭弁を弄し、満州を漢民族の版図ということにして、それを餌に日本人の援助を引き出そうとしているかの言動を多発しています。そして仕舞いには大清帝国全体の版図を、漢民族が収めるべきというようなところまで肥大化していっています。満州に限らず、中国による現在まで続くチベットや新疆ウイグルの侵略問題は、ここにまで遡ることが出来るのです。
 中華民国の成立後も袁世凱と国民党が抗争を繰り返すなど、革命政権は一向に安定せず、満州の政情も悪化の一途をたどり、日本の満州における権益は脅かされました。こういった中での一幕が、あの対華二十一ヶ条要求問題なのですね。
 ともかく清朝時代以上に、日本の満州における権益は不安定なものになった。そこで満州と動乱のシナを切り離すため、軍部が独走し、満州事変を起こしたのです。そして亡命してきた清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀の強い希望もあり、五族協和の理念を掲げる満州国が、関東軍の保護の下、建国されました。
 それまで満州においては、張作霖・学良父子率いる奉天軍閥が、民衆に搾取の限りを尽くしていました。不換紙幣の乱発、数年後の税まで強制徴収する始末で、国家予算の実に八五パーセントが軍事費に費やされている状態だったといいます。
 ですから満州事変直後、満州各地の自治体が次々とシナからの独立宣言を行っています。満州のシナからの独立は満州全体の意思だったと言っていいのです。そしてその独立の気運に乗じて建国を宣言したのが、女真族の長たる溥儀で、当時列強の保護なしの近代国家建設などありえなかったことを考えれば、日本の強い影響下で満州国の建国が行われたことは、当時の状況から言って決して不当な行為だったとはいえないのです。否、むしろ日本こそが最適任者であったといっても過言ではないでしょう。現に満州国の建国後の発展はすさまじく、治安は安定し、人口もどんどん増えていったのでした。
 
 このような史実を踏まえたとき、三宅久之翁が言っていた、日本が朝鮮や満州でいくら良い事をやったといっても、朝鮮や満州の人にとってそうだったかどうかは別問題だ、というのは確かに正論だとしても、それを以て朝鮮や満州の居住者が日本の統治を喜ばなかったということにはならないのです。

 朝鮮半島において、日本の幕末期以降の李朝の政治が、国民にとっていかに過酷な悪政であったことか。
 李朝の虐政を逃れようと、多くの民衆が難民となって、満州やロシアとの国境を越え、そこに移住しました。そのことが明治六年に、いわゆる征韓派が朝鮮問題への着手を強硬に唱え、これを強力に推進しようとした一つの理由でした。征韓論の中心人物の一人、副島種臣が征韓論破裂直後のパークスとの会談(『遠い崖』朝日新聞社)でそのように述べています。
 李朝は外部からだけでなく内部からも自己保全のままならぬ状態にあったのです。
 日本による朝鮮統治を喜んだ民衆もいっぱいいたはずですが、戦後の反日言論空間で、こういった意見は封殺され、我々の耳に届かないだけなのです。現在の一般の朝鮮人も、捏造された日本の統治の悪ばかりを吹き込まれ、この辺の事情を知らされていないのではないでしょうか。
 満州にしても同じ事で、あの地に住んでいた女真族の血を受け継ぐ人々の中には、我々にも昔は自分の国があったのだと内々では涙ながらに囁き合っている人もいるにもかかわらず、言論の自由のない中国共産党の支配下では、そのことを公に口にすることも出来ないのです。それが三宅翁の耳に届いていないだけではないでしょうか。
 我々の耳に入ってくるのは、中国や北朝鮮や韓国の反日に見合った情報だけなのです。
 三宅翁は毎日新聞社の政治記者だったわけですが、その辺に戦後日本のマスメディアの欠陥は顕著に現れていないでしょうか。

 ともかく満州はシナの伝統的領土でもなんでもない。
 そのことは明治から戦前までの日本人にとって常識でした。
 歴史を当時の歴史的制約下で論じることのいかに難しいことか。
 対華二十一ヶ条要求問題を理解する上での一つの歴史的背景を論じるだけでこれだけの知識が必要なのです。
 そしてこれを踏まえてみれば、例の対華要求の第二号が特に不当な要求ではないことが分かるでしょう。あれはシナの感情に配慮した承認要求だったと見るべきではないでしょうか。漢民族国家を樹立した中華民国政府に、満州の土地をどうこうする権限など本来存在しないのですから。
 
 
 
 
 

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 2

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
ナイス

この記事へのコメント

2021年05月15日 02:49
記事の話を比喩を用いてみますと・・・・

「支那は何千年の歴史」云々などは、誇大妄想の嘘八百なのは心ある人には知れ渡っていますが。

何千年の歴史と言ってもそれは単に、支那大陸という土地と、そこに住む民族が概ね共通してるというだけで、国家(政権)が断絶せずに連続している訳じゃなし。

その「何千年」というのはあくまでも「土地」「文化・慣習」の話であって、革命が起こるごとに歴代政権が短期間で断絶しています。
何度か異民族の征服王朝に変わった事もあります。
つまり何千年もの間、領土とそこで暮らす民族と諸々の文化・慣習が、概ね共通しているというだけで、国家としての積み重ねはどの政権も浅いです。


これを「貸しビル」と「テナント」の比喩を使って表現してみますと、貸しビルが支那大陸で、そのビルの中身であるテナントが歴代政権となりますか。
貸しビルには様々な業種の業者が、次々テナントとして入れ替わったりしますよね。

その貸しビルが建設されたのと同時に、A社 ⇒ B社 ⇒ C社 ⇒ D社 ⇒ E社の順に、倒産したり撤退したりで、次々テナントが入れ替わって行ったとします。
その貸しビル内での事業年数はそれぞれ・・・

A社:20年  B社:30年  C社:25年  D社:15年  E社:10年

とします。

最後のE社で丁度100年目となりました。
そこで何をトチ狂ったのか、現在のテナントであるE社が、「我が社は創業100年の歴史のある老舗だぞ!」とか言い出したらどうでしょう?
「何を言ってるんだ?アホか?」と思われるだけでしょう。

その「100年」というのはあくまでも、オフィスを構えている貸しビルの歴史(建築年数)に過ぎないのであって、E社自体の歴史(事業年数)ではないからです。

以上の比喩から、「支那は何千年の歴史」とか言うのは、それと同じ事な訳ですよ。
それはあくまでも共通の舞台となっている貸しビル(土地、大陸)の歴史であって、その中身であるテナント企業(国家、政権)の事業継続の歴史ではありませんから。

この記事へのトラックバック