日本史上最大の怨霊 (その二)

 前回、崇徳上皇を取り上げましたが、今回はその続きです。
 なぜ、崇徳上皇が皇室の精神史を理解する上で重要な存在なのか。

 日本史の見方にはいろいろな見方がありますが、皇室が世俗政治において権力の中心にあったか否かで区分するのも、ひとつの重要な視点だと思います。
 今、皇室から武家へ(鎌倉幕府の成立)、武家から皇室へ(明治維新)という見方で、日本史を捉えた時、この崇徳上皇の存在は、皇室の精神史において、非常に深刻な意味を持ってきます。
 ご存知でしょうか。
 明治への改元が、この崇徳上皇の存在と深くかかわりがあることを。
 実は明治への改元は、讃岐に流されて憤死した崇徳上皇の怨霊の鎮魂の儀式の完了を待って行われているのです。

 慶応二年(1866)十二月、孝明天皇が崩御され、翌慶応三年一月には、明治天皇は践祚されましたが、これは皇位を受け継いだだけであり、正式な即位の礼は、さらに翌年、慶応四年(1868)八月に行われています。
 この間、最後の将軍徳川慶喜による大政奉還があり、王政復古の大号令あり、鳥羽伏見の戦に端を発する戊辰戦争が勃発し、すでに江戸城開城を終え、これから東北地方の平定が行われようとしている、まさにそのとき、即位の礼、そして明治への改元は行われたのです。
 この激動の時代に、天皇は京都に新たな神社を建立した上で、讃岐白峰にある崇徳上皇の御陵に勅使源通冨を派遣しました。慶応四年八月二十六日のことです。この日は崇徳上皇の命日でした。
 勅使は、崇徳上皇の霊を慰めるとともに、京都へのご還幸を請うことがその目的でした。神社が建立されたのは、そのご還幸場所としてです。
 明治天皇の即位の礼は、その願文が讃岐白峰で読み上げられた翌日である八月二十七日に行われました。
 そして、九月六日、崇徳上皇の霊は京都にご還幸になり、天皇親らこれを迎え、拝し、二日後の八日、明治への改元は行われているのです。
 つまり明治天皇は、この崇徳上皇の霊を丁重に祀り、御霊とすることで、これから臨む明治創業の難業を守護してもらおうと願ったのです。
 このことは逆に、明治天皇がいかに崇徳上皇のたたりを恐れていたかということを表しています。(その二)

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