司馬遼太郎『翔ぶが如く』 (その三)「司馬と徳富蘇峰」

 さて徳富蘇峰の畢生の大著『近世日本国民史』が敗戦の余波を受けて、明治時代に入ったところで出版が滞ってしまったことはすでに触れました。
 しかし思わぬことで、『近世日本国民史』は再刊されることになったのです。蘇峰没して二年後の昭和34年、彼の故郷を根拠にする熊本日々新聞社長の呼びかけが端緒となって、時事通信社から、未刊本を含む全百巻が出版されることとなったのです。蘇峰が五百年後の知己を待つという雄大なことを言っていたことを思えば、驚くべきことでした。自己の目先の利益を追いかけるばかりの戦後育ちに比べ、戦前の教育を受けた人には骨のある人物が多かったのでしょう。これは時事通信社代表取締役長谷川才次の大英断によるものでした。校正は皇国史観の旗手であり、戦後の公職追放令によって、鳴りをひそめていた平泉澄が担当しました。
 昭和35年9月より明治期に当たる未刊本24冊から刊行は開始され、同37年8月に第百巻までの刊行が終わりました。あとは既刊の部分が順次刊行されていきました。
 このことと、それまで幕末を扱っても、明治の十年を扱うことがなかった司馬が、昭和47年より、明治六年の征韓論破裂から明治十年の西南戦争までを扱った『翔ぶが如く』の執筆に取り掛かったということは無縁ではないでしょう。
 この本の後書きで、司馬は「私は、維新から明治十年までのことに昏(くら)かった」と述べています。つまりこの本を書くまで司馬は明治維新を理解せずに、幕末のことやその一つの成果である日露戦争(『坂の上の雲』)を書いていたことになるのです。しかも『翔ぶが如く』を書いた後でも、明治の十年を深く理解したとはいえません。この作品は、彼の明治維新に対する理解が不徹底であることを表していますから。
 こういった評価は司馬信者からは酷であり、冒涜であるとさえ云われそうですが、これはあくまでも小説家・作家としての評価ではなく、歴史家・思想家としての評価ですので、誤解のないよう。司馬とて無謬ではないのです。
 さて歴史家・思想家としての司馬の欠陥というか、不徹底性について、彼自身の言葉によって一つの証拠を挙げておきたいと思います。
 彼は『坂の上の雲』の中で、大東亜戦争について次のように論じています。
「筆者は太平洋戦争の開戦へいたる日本の政治的指導層の愚劣さをいささかでもゆるす気になれないのだが、それにしても東京裁判においてインド代表の判事パル氏がいったように、アメリカ人があそこまで日本を締めあげ、窮地においこんでしまえば、武器なき小国といえども起ちあがったであろうといった言葉は、歴史に対するふかい英智と洞察力がこめられているとおもっている。アメリカのこの時期のむごさは、たとえば相手が日本でなく、ヨーロッパのどこかの白人国であったとすれば、その外交政略はたとえおなじでも、嗜虐的(サディスティック)なにおいだけはなかったにちがいない。文明社会に頭をもたげてきた黄色人種たちの小面憎さというものは、白人国家の側からみなければわからないものであるにちがいない。」
 私もパル判事の判決には歴史に対する深い英智と洞察力を感じる者であるが、そうであるならば、日本が武器を持って立ち上がったことは何ら責められるべきことではないといっている事になります。いわんや多くの武器と陸海軍の精鋭を要する我国においてをや、です。しかも日本には、自存自衛と東亜の共存という明治維新以来の国是という大義がありました。
 戦前の日本人は太平洋の向うのサディストの大男を相手に武器を取って立ち上がったのです。当時の日本人はサドとは言わず鬼畜米英といいましたが、意味するところは同じことです。
ところが司馬は後に「この国のかたち 一」の中で、次のように発言しています。
「私など、その鬼殆(大日本帝国憲法のなかの統帥権の独立を指す)の時代から戦後社会にもどってきたとき、こんないい社会が自分の生きているうちにやって来ようとは思わなかった。それが与えられた自由(アメリカからということであろう)などとはひねくれて思わず、むしろ日本人の気質や慣習に適(あ)った自由な社会だと思った。焼跡と食糧難の時代とはいえ、日本人たちの気分は明るかったように思う。」
 かつてビスマルクは「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」といいましたが、どうも司馬は、大東亜戦争の敗戦については、彼自身がパル判事を通じて認めた歴史の英智と洞察よりも、敗戦時まだ二十歳で青臭く、同情すべき点はあるにしても多分に愚かな経験を上位に置いてしまったようです。戦後の明るさとは、どうみてもアメリカというサドの巨人のむごたらしい折檻から解放されたことによる明るさです。こう解釈することをひねくれているというのですから話になりません。
 折檻されたあげく、これによって与えられたものに恍惚とし感謝する。こういうのをマゾという。自虐史観というのがこれに当ります。司馬に限らず自家撞着も甚だしい考え方です。
 ともかく司馬自身が自家撞着に陥っているのは、前掲の彼自身の言葉からも明らかです。
 こういったことをパル以前に洞察していたのが徳富蘇峰でした。こういった考えを蘇峰は、マッカーサーの言論統制により情報の限られていた当時に口述した『終戦後日記』のなかで早くも洞察し批判しています。司馬史観は、蘇峰の英知や洞察力の足元にも及ばぬものだったのです。
 司馬遼太郎のペンネームは、「史記」の著者司馬遷を凌駕するという意味を込めて、あるいは司馬遷の足もとにも及ばないという意味をこめてつけたともいわれますが、彼自身が超えるべきは彼自身の敗戦経験だったということが出来るかと思います。そうである以上、彼は歴史家・思想家として全く徳富蘇峰を凌駕することが出来ませんでした。
 もちろん『翔ぶが如く』も『近世日本国民史』を飛び越えるものではありませんでした。まさに翔ぶが如き程度のものです。

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この記事へのコメント

よしよし
2011年09月26日 21:58
そうだ、そうだ。明治10年までが一番大切だ。そのレールで戦争が続き、戦後もそのレールでどの政党も利権政治のままだ。

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