司馬遼太郎『翔ぶが如く』 (その二) 「司馬と徳富蘇峰」

 前回司馬遼太郎の明治維新を題材にした歴史小説には種本があるということを書きましたが、その種本は、海音寺潮五郎が西郷隆盛について書くときにも種本になっていたふしがあります。海音寺だけでなく、戦後の歴史小説家の多くがその本を種本にしている、という説もあります。
 それが徳富蘇峰の『近世日本国民史』です。
 この本は日本の近代史に興味を抱く戦前の人に非常に読まれた本です。徳富蘇峰も海音寺以上に志操の高い言論人・歴史家で、自分の著作が活用されることにケチをつけるような小さな事を言わない人物でした。
 もちろん、これ以外にも司馬や海音寺は史料に当たっているわけで、これは決して不名誉なことでもなんでもないのですが、私がいいたいのは、『近世日本国民史』の世話になっていることを隠す素振りのなかった海音寺に比べ、司馬は意識的にそういった素振りを見せないようにしていたと思われることです。

 蘇峰は戦後全く忘れられた存在になりましたが、これには事情があります。ある意味、蘇峰という人物の思想的変遷は、近代日本文明の衰退というか、その見かけの盛況振りとは裏腹の明治維新以来日本文明が一途に辿らざるを得なかったやせ細りを象徴しているようなところがあります。それは彼が横井小楠の思想を継承して(蘇峰の父一敬は小楠の高弟でした)、五箇条のご誓文に代表される明治維新の精神を日本文明の大体を表したものとして高く評価しつつも、大勢順応者たらんとしたところに原因があったためと思われます。彼が戦前の世論を作り上げたというよりも、むしろ日本の世論に先んじてきたのが、彼の言論だったといえると思います。
 これは蘇峰論ではないので深入りは避けますが、蘇峰は戦争を煽るような言論を逞しくしたということで東京裁判における戦犯容疑者に挙げられましたが、高齢ということもあって訴追を免れています。
 その後、日本人の一億層懺悔によって、日本人の心の中から意識的に葬り去られました。こういったところにも日本人の思想傾向が象徴的に表れています。こういった現象に対する蘇峰の観察は、昨年講談社から『終戦後日記』との題で出版された『頑蘇夢物語』を読めば分かります。彼はここで日本人を買いかぶっていたことを、深い懺悔の心とともに告白しています。
 終戦2ヵ月後の昭和二十年十月の時点で蘇峰は『近世日本国民史』を第98巻途中まで書き終えていましたが、筆を投げ出しました。敗戦のショックと言っていいように思います。彼がようやく筆を再開したのは、昭和二十六年二月のことでした。その間口述を行わなかったわけではありませんが、少なくとも『近世日本国民史』は中断したままでした。
 蘇峰は二十六年二月に口述を再開し、翌四月に第100巻を完成させました。大正七年六月、蘇峰五十六才の時の起稿より30余年の歳月を要してようやく全百巻を完成させたことになります。この時蘇峰はすでに90歳となっていました。しかし蘇峰の目的はあくまでも明治天皇の崩御までを書ききるところにあったわけですから、西南戦争までで終ってしまったことは、未完であったということです。しかし織田信長から始まって、西南戦争終結後の大久保の死を以て終わったということは、近代日本の生成過程を書ききったということも可能だとおもいます。これほど内容の濃密な大著は、世界にも稀なのではないかと思います。当然戦後もその影響力は、歴史家の間に残りました。
 この本の出版は、戦後中断されました。G.H.Q.の言論統制に引っ掛かってしまったからです。その結果、第79巻の刊行を最後に出版は滞ってしまいました。これはちょうど明治の立ち上がりのところまででした。
 続刊発刊の目途は全く立たないまま、蘇峰は後世に問うため『近世日本国民史』百巻までを書き終え、その後昭和32年、95歳の生涯を終えたのでした。彼は自らの宿命と常に向き合った人ということが出来るかと思います。だからこそそこから功罪ともに学ぶことは非常に多いのです。(つづく)

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