薩摩史観

 さて前回は、日本文明における皇室の重要性、及び国民の側からの、そのあり方の象徴としての西郷南洲の重要性について触れました。それにしても、西郷南洲という人物はなぜこれほどに誤解されるようになったのでしょう。いろいろな要素がありますが、歴史のスペシャリストである歴史学者によって書かれた西郷論でさえも、なぜコンナ評価になるのか、今となっては理解に苦しむものが多々あります。
 その最も顕著なものがいわゆる征韓論です。西郷南洲が主張したのが、征韓ではなく、使節派遣論であったことは、最近よく眼にするようになりました。西郷南洲が征韓論者ではなかったことは、西郷追い落としの仕掛け人伊東博文でさえ後の談話で語っていることですから、間違いのないところでしょう。その論証としては、大阪市立大教授毛利敏彦氏の『明治六年政変の研究』などを読まれれば明らかになることと思います。
 このことからも分かるように、歴史の通説という物は意外に当てにならないことが多いのです。物事の評価は、その視点の違いによって180度変わってしまうことも有り得るからです。評価には、その判断のもとになる基準が必要ですから、その基準が明確にされていなければ、その評価が妥当なものかどうかについて一般の読者は判断しかねます。だから学者の書いた物だから、あるいは有名な誰々さんの書いた物だから大丈夫としていては、誤ったものを真実として思い込んでしまう危険があります。だから先入観を捨てて、複眼的に思考することが必要になってくるのですが、人物や事象を評価する上においては、やはり価値判断を手放すことはできません。これの無い実証のみの歴史は、誤った説の否定までがその限度であり、これはこれで非常に重要なのですが、それだけでは無味乾燥になり、後世の我々に何かを問いかけるものではなくなってしまいます。言い方を変えれば、歴史は血の通わないものになってしまうのです。要するに実証性を手放さずに、自らの価値基準を明確に自覚しておかなければならないのです。
 難しい話になってしまいましたが、今日はこのことを書くつもりだったのではありません。薩摩史観についてです。俗に薩長史観といいますが、これは明治維新の主力が薩長の両藩であり、その結果明治政府において薩長閥の出身者が幅を利かせたことによリ、幾分の揶揄が込められた言葉となっていますが、実際明治維新の中心藩は薩長の両藩でした。しかし実質的にその内容を見ていくと、重要な部分において、明治維新の主力は薩摩藩であり、並立的なものではありませんでした。討幕段階における政治は、ほとんど薩摩藩が負っていたと言っても過言ではありません。
 ではなぜそのようになったのでしょうか。いくつかの要素があるかと思いますが、ひとつは当時の指導者に、特定の武家が功を独占すれば、維新は失敗するという共通の認識があったことが挙げられます。これは第二の足利尊氏を出して、建武の中興の失敗を繰り返さないためです。
もうひとつは、薩摩勢力の没落です。明治になって薩摩藩の勢力は主に、西郷南洲、大久保利通および島津久光の三者の対立により、三つに分かれてしまいます。薩摩藩の主な指導者は、有名な西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀などが挙げられますが、これに加えて当時の藩主の父で、藩父と呼ばれた島津久光の存在が重要です。最も若かった小松は明治2年に病没してしまいました。
 明治初年には早くも西郷南洲と久光の対立は始まり、やがて大久保と久光も対立します。そしていわゆる征韓論争で、西郷南洲と大久保が対立、西南戦争まで行き着いてしまいます。この戦災により、戦場となった鹿児島は荒廃し、多くの貴重な資料が失われました。西郷南洲は城山に死に、大久保も翌年暗殺されます。明治政府は自己の正当性を担保するため、賊徒である西郷南洲を征韓論者として葬りました。しかし大久保には人気がなく、後世にまで感化を及ぼす力はありません。西郷南洲には、人気があり後世への感化力はあっても、未だその動機や人物像は不明のままです。これらが薩摩藩の功績をくらまし、維新の意義をゆがめる結果になったと思われます。これは日本人の自画像にも関することですから、重要なことではないでしょうか。そこで薩摩史観、西郷史観が重要になってくるのです。(つづく)

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