西郷隆盛

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zoom RSS 明治維新の意義 (その弐) 倒幕は必要だったか

<<   作成日時 : 2018/02/12 16:31   >>

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 次に第二の質問、すなわち幕末の幕府は公武合体に動いていたことから、長州、薩摩の倒幕は不必要だった(倒幕しなくて、我が国は近代化し生き残れた)という意見はどうか、とのご質問についての筆者の考えです。

 歴史にイフはない、すなわち歴史の一回性を言うなら、それは無意味な設問ですが、歴史事件の評価をする上でイフという仮説を立てるのは有用です。

 思うに、薩長の討幕は不必要で、それがなくてもわが国は近代化を達成し、生き残ることが出来た、と断言できる人は、あまり深く明治維新を知ろうとしたことも、考えようとしたこともないのではないか、そんな気がします。

 確かに幕府は公武合体に動いていたし、近代化も受け入れていました。しかし、当時の幕府組織の衰退ぶりを考えれば、出来たとしても緩やかな統合であり、ゆっくりとした近代化であって、それでその後の日本を襲う列強の脅威に対応でき、生き残れたかは疑問です。特に日露戦争を乗り切れたとは思えません。
 まず第一に徳川中心の体制で、近代化徹底の条件である廃藩置県は明治四年の段階で行うことはできなかったはずです。英国公使パークスの、西欧なら戦争にならずに済まないはずの改革が一日で成った、とかいう趣旨の発言がありますが、それほどの改革を断行する力は徳川家にはもはやなかったでしょう。

 唯一可能性があるのは、幕末随一の逸材であった徳川慶喜の政治指導力ですが、ちょうど第一の質問で水戸学が出て来たので、これを切り口にしてみましょう。徳川慶喜は本来、御三家の一つ、水戸徳川家の貴公子です。「弘道館記」を書いた烈公こと斉昭の七男として生まれました。
 藩校弘道館に学び、会沢正志斎より学問を教授されています。
 生母は斉昭の正室吉子女王で、皇族有栖川宮家から降嫁された王女です。つまり、母方の実家が皇族であったということになります。

 要は水戸学の精髄を叩きこまれ、母方からとはいえ、皇室の血を引く人物だったわけですから、勤皇精神旺盛にならないわけがありません。
 重要なのは、彼が二十歳の元旦に、父斉昭から直々に伝えられた光圀の遺した家訓です。

 「…もし一朝事起りて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときことあらんか、我等はたとえ幕府には反(そむ)くとも、朝廷に向かいて弓引くことあるべからず。これは義公(光圀)以来の家訓なり。ゆめゆめ忘るることなかれ」

 これらの事が慶喜の政治思想を強く規制することになるのです。
 その後、慶喜は御三卿の一つ、一橋家の当主となり、黒船来航後の将軍継嗣問題の際は、その英邁さから、次期将軍候補に担がれ、その政治運動の反作用が安政の大獄の一大要因となります。その後、島津斉彬の遺志を継いだ久光主導の幕政改革により、将軍後見職を務め、その後禁裏守衛総督を務め、孝明天皇の信頼を得るなど、十分な政治経験を積んだ後、徳川宗家を継ぎ、将軍に就任しました。
 慶応二年十二月のことです。
 慶喜は就任挨拶のために参内し、孝明天皇に直接拝謁して、幕府が勝手に結んでいた兵庫開港の勅許を得ようとしますが、折悪しく天皇は病に罹られて突如崩御されたため、彼の願いは叶いませんでした。
 これが一つの転機となります。
 
 慶喜の回想を信じるなら、この頃、慶喜は大政奉還をなそうと懐刀の原市之進に相談しましたが、まず幕威の回復に努めるべきだと進言され、翻意したといいます。原市之進は「弘道館記述義」の著者藤田東湖に水戸学の精髄を学び、慶喜が全幅の信頼を置いた人物です。慶喜にとって、薩摩の南洲翁や大久保の朝廷工作に唯一対抗しうる人材で、その支えにより、列強各国公使を謁見し、その信頼を勝ち取るとともに、諸侯会議を招集して、諸藩の輿論をまとめようとします。
 なぜこの時期にそれが重要であったかと言えば、慶応三年十二月七日(太陰太陽暦、太陽暦では正月元旦になる)が、幕府が結んだ条約で定められた兵庫開港期日であり、それまでに朝廷の勅許を得、公議輿論をまとめる必要があったからです。

 これは徳川幕府の中興を目指す政策で、公武合体とは言っても、徳川家への大政委任を前提としたものであり、権威においては朝廷を尊重しても、政治権力において幕府主・朝廷従の体制であることに変わりはありません。

 一方で、慶応二年十二月、慶喜の将軍職就任と親幕的で攘夷思想をもっておられた孝明天皇の崩御は、王政復古討幕派にとっても重大な転機でありました。
 南洲翁を中心とする薩摩藩首脳陣はこれを以て「維新の時」ととらえ、まずは四賢侯会議を催し、雄藩で連合して、非常の覚悟で幕政を正そうとします。その眼目が大政奉還にあったことは後で判明してきます。
 こちらも兵庫開港期日を意識して、会議を大変重要視しました。

 ここで幕府と薩摩藩は対峙することになります。
 慶喜と原にとって、幕府が諸藩主を召集した諸侯会議は、日本全国の輿論を公議としてまとめる好機会でした。そこで、雄藩が主体となって上京した、当時四賢侯とされた薩摩の島津久光、土佐の山内容堂、宇和島の伊達宗城、越前福井の松平春嶽(彼らは藩主ではなく隠居の身ですから、諸藩主とは一応分けてとらえる必要があります)の連合を懐柔すべく、待ち構えます。
 しかし、薩摩藩はそれを外すべく、他の三侯に足並みをそろえさせ、幕府に対しては慣例に反して挨拶には出向かず、上京の届け出だけで済ませ、朝廷への伺候、周旋を優先します。親幕派の議奏伝奏を更迭し、二条摂政に拝謁してその従幕的態度を改めさせようとしたのです。
 しかし、原市之進の朝廷工作が功を奏し、薩摩藩は朝廷改革を断念せざるを得なくなります。いよいよ慶喜との対決です。

 このあたり、権謀術数に満ちた政治的駆け引きのように叙述してまいりましたが、実は、ここで争われたのは個別の重要政治課題を廻っての義論でありながら、潜在的には國體をめぐる議論であったのです。

 政治当局者として、政治的プラグマティズムの立場から、西洋列強を相手にした兵庫開港の勅許を優先課題とし、次いで長州処分を決定しようとする慶喜と、斉彬から継承した、「孟子」に基づく、道義に基づく人心の一致一和の優先を政治信条とする薩摩藩の議論はことごとく対立するものでした。

 南洲翁が中心となって推し進めた薩摩藩の主張は次のように要約されます。
 道義に基づく人心の一致一和重視の立場から、まずは長州処分をなし、その上で長州も召集した上で、諸侯会議を開き、公議を尽くした上で、勅許ではなく、勅命によって開港すべきである。

 要は皇室をいただく公議政体論で、しかもその着手の順序にこだわりました。
 開港の勅許とは事後承認になりますから、幕府への政治委任を前提とした議論ですから、両者は國體観に根源的な対立を孕んでいます。
 もう一つの対立点は國體には直接関係していませんが、長州処分の問題です。もちろん幕府は二次にわたる征討を実施した立場から、罪を犯し朝敵となった長州藩を有罪と見なし、しかし内外の状況を考慮して寛大に処分する、という立場です。しかも国内問題だから、それは後回しでも構わない。つまり兵庫開港問題に比べれば大して重要ではない。
 一方の薩摩藩の立場は長州の立場を受け入れて、冤罪論でした。そもそも冤罪で罪を蒙っているのだから、罪を解かれてしかるべし、という立場です。
 これは有名な、坂本龍馬が斡旋した薩長盟約成立の場面で、桂小五郎が長州藩の従来の立場を弁じ、薩摩藩の対応を詰った際、南洲翁が「ごもっともでごわす」と頭を下げ、受け入れた名場面がありますが、このことで薩摩藩の藩論は大きく転換し、盟約関係は成立したのです。維新史にとって薩長盟約成立が画期的に重要なのは実はこのことなのです。藩論、すなわち両藩の輿論の合致こそ、盟約成立の条件だったのです。ですから、内容的にこの段階ではまだ攻守同盟にまで至っていません。

 慶喜の意識は兵庫開港勅許に集中していて、薩摩藩の長州冤罪論を受け入れるわけにいかず、また彼らが着手の順序にこだわる理由が理解できず、議論は平行線のままに終わりました。四賢侯の内、容堂と春嶽は幕府寄り、宗城は薩摩寄りで、共に周旋する所がありましたが、皆、非常の覚悟の薩摩藩の強情ぶりに困惑します。とくに徳川一門の松平春嶽は幕府との間に入っていたこともあって、薩摩藩の捏ねる強情理屈に悲鳴を上げています。

 しかし結局、政治的には慶喜が勝利します。
 朝廷において、慶喜の推す、兵庫開港勅許、長州寛典論、そして同時着手論が通ったのです。朝廷は幕府を選んだのでした。
 薩摩藩はこの時の朝議を欠席することで、消極的に反対の意志表明をしたにとどまりました。

 ここで薩摩藩は道義は尽くしたとして、挙兵を決断します。もっと大きく声を張り上げて(もっと強く道義を主張して)幕府と対決するというのです。
 このことは長州藩に伝えられ、共に挙兵することになりました。ここで初めて戦略を共に共有する軍事同盟に発展します。
 作戦のモデルは建武の中興における楠木正成の挙兵です。

 ところが薩摩藩が準備に動き出したところで、土佐の後藤象二郎が大政奉還を幕府に建議すると言って待ったを掛けます。後藤は殷周革命の故事、すなわち武王による紂王の討伐の故事を挙げ、いまだに長州以外の諸侯が会盟していないのは薩摩藩が条理を尽せていないからで、時至らず、いまだ天命定まらず、と言って南洲翁を説得したといいます。後藤は土佐兵を上京させ、幕府が大政奉還を受け入れなければその時は土佐も挙兵に加わる、という趣旨のことを言って、翁を納得させたのです。
 両者の間で盟約が交わされましたが、内容は明らかに水戸学的國體観に基づいています。

「約定の大綱
國體を協正し、万世万國に亘りて恥じない、これが第一義。
王政復古は論をまたない。宜しく世界の形勢を観察して、参酌し協正すべし。
國に二帝なし、家に二主なし。政治と刑罰は一君に帰すべし。
将軍職にあって政柄を執る。これは天地間にあってはならない理である。宜しく諸候の列に帰し、翼戴(よくたい…君主を助け上にいただくこと)を主とすべし。
右は現在の急務であり、天地間で変わることのない大条理である。心と力を一つにして尽くし、斃れて後やまん。どうして成敗や利鈍を顧みる暇があろうか。」

 これは翁が諸侯会議開催中に、久光への建言書の中で述べていた政柄返上の趣意そのままです。
 これに加えて個別の約束事項を確認した約定書がありますが、これは坂本龍馬が後藤に託した八策(いわゆる船中八策)とほぼ同じ内容です。特に注目しておきたいのは、坂本の八策にはない、最後の一条です。
 そこにはこうあります。

「この皇國興復の議事に関係する士大夫(したいふ)は、私意を去り、公平に基づき、術策を設けず、正実を貴び、既往の是非曲直を問わず、人心一和を主としてこの議論を定むべし。」

 ここにも『孟子』の思想は盛り込まれているのです。
 ことさら國體などといわなくとも、日本の文明を象徴的に表した言葉が「和」であることに異論を唱える人はいないでしょう。これは明治維新の精神でもあったのです。

 結局、土佐兵の上京は容堂の受け入れるところとならず、翁は一杯喰わされたことになるのですが、結局、双方邪魔はしないということで、薩長は挙兵準備を進め、土佐は建白を行うことになりました。これが慶喜に背後に不穏な空気を感じさせながら、大政奉還の建白を求めるという形になったのです。
 以上の経緯で慶喜は大政奉還を受け入れることになったのですから、王政復古討幕運動がなければ、大政奉還もなかったと結論付けることが可能かと思います。
 慶喜自身が語る光圀の遺訓を思い出して下さい。
 幕府と朝廷が決定的対立に至った時は朝廷に味方せよ、という趣旨でした。
 当時の慶喜はご指摘のように公武合体を推し進めていて、決定的対立どころか、協調関係にありました。むしろ強硬姿勢によって朝廷から疎外されたのは薩摩藩の方です。この遺訓から言えば、慶喜が自発的に大政奉還を行う政治的条件は皆無と言ってよかった。

 五月から六月にかけての諸侯会議で政治的勝利をおさめた慶喜の動きがここから鈍くなり、政治的後退を余儀なくされ、大政奉還を受け入れることになったのは不思議ですが、一つの要因として考えられるのは、彼の懐刀であり同じ水戸学的國體観を共有し、幕威回復の政策を支えてきた原市之進が八月十四日に幕臣の手によって暗殺されたことが大きかったでしょう。この日は奇しくも、薩土盟約によって延期してきた長州との挙兵準備を再開した日でした。
 慶喜は原の暗殺によって、幕府の中に同志を見出すことが出来なくなって孤立感と幕府という組織に対して失望を深めたのではなかったかと思われます。
 不穏な空気が醸成される中、土佐から大政奉還の建白があったことは渡りに船に感じられたのでしょう。

 薩土盟約にも出てくる、水戸学的國體観も依拠している王土王民思想は、当時の知識人にとって、また幕府側の知識人にとっても、常識でした。しかし、それは大方は教養にとどまり、それに基づいて現実を正すべきとまで考える者は極く稀だったのです。幕末の幕臣で言えば、慶喜のほかは、有名なところでは勝海舟や大久保一翁ぐらいしか筆者は思い当たりません。教養として受け入れているものにしても、幕府が全国の土地人民を支配しているのは家康を開祖とする先祖代々の天下統治の功によってであり、皇室の土地(王土王民)を奪ったわけはなく、正当な支配であると考えられていたのです。
 皇室から奪ったものではないというのは確かにその通りです。律令制が実質的に崩壊し、武家の世になって所有権が移り変わった土地を実力で接収していったからと言って、王土王民、すなわち皇室の土地と人民を奪ったということにはなりません。

 しかし、水戸学的國體観を信条とする側から言えば異なります。
 長州藩の政治行動には性急にして拙速なところがありましたが、薩摩藩が本腰を据えて、後の翁の言葉を借りれば、わが國の本體、すなわち國體を据えるための改革が起動するのは、維新の時、すなわち慶応二年十二月からの王政復古討幕運動からでした。王土王民思想が表立って問題になってくるのは王政復古の大号令直後の小御所会議からですが、この維新の時から、彼らは道義を掲げて、ぐいぐい押し込んでいきます。翁の言葉で言えば「理に当たってのち進み、勢を審らかにしてのち動く」です。実際、当時の翁の書簡にはこの言葉が頻出しています。
 これに同じ國體観を持つ慶喜は政治的後退を余儀なくされていくのです。

 小御所会議の議題は大政奉還で一諸侯に下った徳川家の「辞官納地」の問題です。
 「辞官」は官位返上の問題ですから大した事ありませんが、「納地」とは土地人民の返上問題ですから大変な問題でした。徳川家はもちろんのこと、旧幕府寄りの人々にとって、幕府の失政の罪は大政奉還という自己犠牲によって相殺されたと考えられており、徳川家の土地人民支配は先ほど解説したように正当なものでしたから、薩摩の不条理な要求ということで大変な反発が起きました。徳川家のみ土地人民を返上し、他の諸侯にもそれが適用されないのはおかしい、不公正だ、という、一般的な平等感から言えばもっとも主張です。
 一方、王政復古討幕派にとって、大政奉還は征夷大将軍としての責任担当能力喪失の当然の結果であって、失政の数々の責任を取ること、罪を償わせることは別のことです。逆に罪を犯していない諸藩が徳川家同様に、土地返上を求められる事こそ不公正である、ということになります。確かに一諸侯に下った以上、天下人としての資格で領してきた天領を支配する根拠は少なくとも失われているはずです。

 王政復古討幕派は、まずは慶喜の大政返上が政略的なものでなく、これまで朝廷や諸侯を欺き、譎詐権謀が多かった慶喜の反正改悟が真正なものであることを明らかにするためにも、土地人民を一旦返上させ、真意を見定めたうえで、改めて土地人民を新たに画定し直し、会議に招集する、というのが彼らの主張でした。
 要は王土王民の國體を受け入れるか否かが問題の焦点だったのです。
 そこで勅命に「土地返上」の文字を入れるかが争われることになった。
 激昂する家臣の手前、徳川家の領地から土地の献上を朝廷に申し出るという形にして、早期の参内、朝議への参加に漕ぎつけたい慶喜や春嶽・容堂は必死に周旋します。薩摩藩とその支持を受けている岩倉具視は譲りませんが、戦を避けたい朝廷によって彼らは孤立化を余儀なくされます。
 そうこうしているうちに、江戸で薩摩藩邸が焼き討ちされたとの報が入り、朝廷に緊張が走ります。

 これはそもそも薩摩藩が江戸藩邸に匿った旧水戸藩士を中心とする浪士を使って幕府を挑発したから、というのが通説ですが、事件の経緯、当時の書簡類を丹念に読み込むと真相は異なります。
 薩摩藩首脳の計画では、京の政局により、一報があり次第、江戸藩邸に匿っていた浪士に決起させ、江戸から上京するはずの幕軍を足止めさせるつもりでした。当初は土佐藩の大政奉還の建白提出と同時に決起する計画でしたが、結局大政奉還が成ったため、誠忠組の同志吉井幸輔(友実)は、一報があるまで自重するよう諭した書簡を江戸藩邸に送っています。吉井は王政復古の大号令が無事済んだ後も同趣旨の書簡を送っています。
 ところが功を焦った浪士は勝手に挑発行為を繰り返したのです。匿っていながら彼らを統制しきれなかった薩摩藩指導部に責任があるのは当然ですが、薩摩藩が意図的に幕府を挑発させたというのは事実と異なるのです。
 現に一報を受けた南洲翁はこれを大久保に知らせた書簡で驚いていますし、事実何の備えもしていませんでした。意図的に挑発していたとしたら間抜けとしか言いようがありません。

 逆に幕府の方が、フランスと結んだ強硬派を統御できず、焼き討ちを強行させてしまったことを忘れてはなりません。作戦はお雇いフランス軍人の手になるものでした。強硬派が従来考えてきたのは、フランスの援助で薩長を討ち、徳川を中心とする郡県制を敷くことでした。彼らは大坂にあって弱腰の慶喜の背中を押すつもりで敢えてこの挙に及んだのです。
 そして、彼らはこの焼き討ちを以て、徳川と薩摩は開戦したと主張し、大坂湾に停泊中の薩摩藩の汽船を攻撃しました。
 鳥羽に陣取った薩摩の砲兵が、京に進軍しようと殺到する旧幕軍に発砲したのはこの後の事です。当時京にいる薩摩軍は大坂方面を封鎖されていて、すでに一方的に開戦の通告を受け、海戦が行われたことを知らなかったのです。
 鳥羽において、薩軍が最初の一発を放ったからと言って、これは対米戦争における真珠湾奇襲攻撃と同じであって、アメリカが日本に対し経済制裁という戦争行為をすでに行い、それ以前からシナ大陸において日本軍と交戦中の蒋介石率いる國民党に膨大な援助を行い、フライイング・タイガーと言われる、軍籍を外した米軍人を参戦させ、日本本土の爆撃まで計画していたことと本質において変わりありません。アメリカが真珠湾以前に日本に戦争を仕掛けていたように、いざ開戦となった場合の準備はしていたものの、京において、徳川家に水戸学に基づく國體、王土王民思想を受け入れさせることに集中していた薩摩藩に、旧幕府勢力はすでに戦争を仕掛けていたのです。

 以上の経緯を考えても、王政復古討幕運動が必要でなかったときっぱり言い切れるでしょうか。

 水戸学の信奉者である慶喜ですら、朝廷に逆らうことは考えられなくとも、強情理屈を無理押ししてくる薩摩の奸謀を討つことは正義と考えていたのであり、彼が翻意して徹底恭順に態度を改めるのも、慶喜の反逆行為に弁解の余地がないことを、これまで慶喜のために周旋してきた春嶽が書簡を送って、厳しく諫めたことによってでした。
 この慶喜の態度によって、討幕は比較的容易に成し遂げられました。

 その後、維新政府は明治二年、王土王民思想に基づいて、版籍奉還を行います。
 これは儒教思想に言うところの名を正すための改革です。藩主がそのまま知事を務め、政府の指示に従って改革を行うことになりました。
 そして明治四年、今度は新政府官員の腐敗を正し、維新を一歩進めるための改革を薩長土で御親兵を献じて行うことになりました。驚くべきことに、それまで新政府には独自の軍隊というものが存在しなかったのです。
 南洲翁や大久保、木戸孝允の考えでは、今回の政府改革は廃藩置県の前段階の改革で、そのために政府自体を粛正しておこうとの考えだったようです。
 しかし、有能だが横暴な新進官僚(大隈重信や井上馨など)の人事をめぐって薩長で対立があり、改革が頓挫しそうになったため、ちょうど新進官僚から廃藩置県の建議があったこともあって、座礁するならいっそのこと、ということで、廃藩置県の断行まで改革は飛躍することになったのです。
 これは王土王民思想に基づき、郡県制を敷くという、維新の要となる大改革でした。名を正す改革に続く、実〈実体〉を正す改革であったと位置づけることが出来ます。

 このことによって近代的政策は急速に進められるようになったのです。
 現に、廃藩置県の中心となった元勲たちの安堵感と一体感、充実感は大変なものであって、この勢いのまま、条約改正が視野に入り、文明化政策が次々立案され、条約改正の予備交渉を第一義とする遣欧使節団の派遣と、留守内閣による文明化政策の実施が同時進行で進められることになったのです。

 以上大まかに維新の歴史を叙述してきましたが、こうした水戸学に由来する國體観を軸に展開した近代化の経緯を無視して、王政復古討幕運動は必要でなかったというのは、維新を批判する前に勉強と理解が足りないのではないかと思わざるを得ません。
 当時広く興された会議で、どのような熱く、緊迫した議論が戦われたかが全く無視してされているようにしか思えません。いや、おそらく彼らは知りもしないのです。
 
 歴史は鑑(かがみ)です。
 それはそれを問う者自身が映し出される鑑であり、そこに権謀術数や過去の否定しか読み込めないなら、それは自身の精神を表わしているに過ぎないのです。
 批判は対象に対する批判行為であると同時に、自己表現である、ということを弁える必要があるでしょう。

 と同時に、維新の本質を否定的にみるというのは、アメリカニズム、コミュニズムやインターナショナリズムやグローバリズムを奉ずる人々にとって非常に都合の良い見方であることを弁えておく必要があるでしょう。
 日本にとって大変な脅威である朝鮮民族や中国共産党にとって大変利用価値のある見方であります。

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