西郷隆盛

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zoom RSS 「徳川家康と天道」(再掲載)

<<   作成日時 : 2018/01/20 16:43   >>

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徳川家康が織田信長のことをどう思っていたか分らない。
 しかし、彼にもまた、信長・秀吉とはその内容のやや異なる、独自の天道思想があったことは確かだ。

 家康は源頼朝の天下統治のあり方を模範としたが、信長の死後、それと同じ原則に則って天下人となった秀吉を、織田家の天下を簒奪した、として批判したことは既に触れた。
 そして、豊臣家の滅亡に「何と天道報応の理、恐ろしきものにはなきか」とつくづく感じ入ったのである。

 もう一度引用しておくと、

「大坂陣之已後、駿府にて或時、近習衆え権現様(家康)仰せ付けられ候は、恩を得たる主人、又は主の子供などへつらく当たりたるものは、たとへ当分仕合よくて、別条なきごとくこれあり候ても、子孫に至り、その報ひは逃れざると思はるゝ。子細は織田三七郎信孝切腹の時の御辞世に、

 昔より 主を討つ身の 野間なれば むくひをまてや 羽柴筑前

と読み置かれたりとの義は、その時分より我等なども聞及び居りたる事なるに、右野間の内海にて信孝切腹と云うも、五月七日の由なり。今度大坂にて、秀頼が自殺せしは、八日なれども、豊臣家の滅亡は七日なり。何と天道報応の理、恐ろしきものにはなきかと仰せられしとぞ。」(『駿河土産』)


 ここにおける天道報応の理の内容は様々な解釈が可能だろう。
 信孝の怨みに着目すれば、「たたり」という、日本古来からの怨霊信仰で理解できる。仏教的世界観からすれば、因果応報という言葉が頭に思い浮かぶ。
 また主君・主家への忠節という世俗倫理に着目すれば、儒教的天道観ということも出来るだろう。
 家康の中でこれらの価値規範がどのように整理・統合されていたのかよく分らない。

 家康が駿河への隠居後に語った言葉を記録した『駿河土産』には彼の思想を探る上で興味深い話がいくつか収められているが、巻一・三によれば家康は道教の思想をも受容していたらしい。

 【『駿河土産』の内容に付いては次のサイトで閲覧することができる。http://www.hh.em-net.ne.jp/~harry/komo_surugafront.html


「権現様(家康)御隠居遊ばれ候節、将軍様(秀忠)より本多(正信)佐渡守を以て御伺ひ遊ばれ候義これあり。御用相済み候以後、佐渡守へ仰せ聞かされ候は、我等抔若き時分世上事いそがわしき比(ころ)故、学問抔に打懸りて居る事もならざるに付き、一生文盲にて年をよらせたるなり、乍去(さりながら)老子の言葉の由にて、足る事を知て足る者は常に足る、と云う古語と、あだをば恩を以て報ずる、と云う世話と此二句をば年若き時分より常にわすれずして受用せしなり。将軍には我等とは違ひ、学問などもこれ在る義なれば、さまざま宜事共(よきことども)をも知て居らるべき間、此語を用ひられよと云事にてはなきぞ、是は其方へ言きかする義なりと有る…」

 この談話中にある二句は、家康自身が語っているように『老子』にあるもので、

 四十六章
「天下に道有れば走馬を却けて以て糞す、天下に道無ければ戎馬郊に生ず、罪は欲多きより大なるは莫く、禍は足るを知らざるより大は莫く、咎は得んことを欲するより大は莫し、故に足ることを知るの足るは常に足れり。」

 六十三章
「怨みに報ゆるに徳を以てす」

に由来しているという。

 前者は、遺訓にも「不自由を常と思えば不足なし、心に望み起らば困窮したるときを思い出すべし」とのくだりがあって、忍耐の人、家康にふさわしく思われるが、後者は関ヶ原の合戦において豊臣家の天下を簒奪し、さらに遺児秀頼を死に追いやった狸親爺の言としては意外かもしれない。
 しかし、これについては思い当たる節がある。

 家康はその天下人としての人生において、先輩に当る信長や秀吉に比べて、残忍なことをしなかった人物とされている。信長の峻厳さの根源については、その絶対性についての考察で既に述べたが、秀吉もまた、いくつかの事例を除いては敵対者に対して寛容に臨んだ人物であった。
 信孝や彼に加担した柴田勝家に対する厳しい態度は、信長の天下意識の継承者を以て任じている秀吉にとって、彼ら織田家の重鎮としての振る舞いが、天下の儀に対する逆心とみなしうるものであったことは前回触れた。
 つまり、織田家への忠節という世俗倫理への屈従を強いる信孝・勝家連合と、秀吉の天道への献身がここにおいて衝突したということだ。
 
 家康は織田家の出頭人秀吉の天下人としての人生を振り返って、その資格ありとは認めなかったようだ。豊臣家の滅亡にむしろ天道報応の理をつくづくと感じ取ったくらいである。

 『駿河土産』によれば、家康は次のように言ったという。


「権現様仰せられ候は、在世の時、智仁勇の三徳を兼備へたる人ならでは、死後に神といはれ候ことはならざる筈の義なり、と仰せにて、太閤の影像の束帯をとり坊主に成され、その節社頭の義も悉く取こぼちて跡ははき地にて仰せ付けられこれあり候処に、北の政所より崩れ次第になし置れ被下度(くだされたし)との願ひに付、其通りに仰せつけられ候と也。敵祖の廟を重て置申さざると有る義は異国・本朝とも相定りたる事也と也」

 主筋につらく当り、主家の天下を簒奪した秀吉には、三徳の内、仁が欠けていた、だから神として祀るにふさわしくない、というのが家康の豊国大明神を認めなかった理由だったようだ。天道応報の理によって豊臣家が徳川家に敵対し、滅亡した今となっては、その祖たる秀吉を神として祀る廟をそのままにしておくわけにはいかない、というのである。

 しかし、それを思うなら、家康が「当分仕合よく」と表現したところの、天下一統事業における秀吉の幸運に恵まれた成功は、これもまた「天道報応の理」と受け取ることもできたであろう。
 現に前回見たように、秀吉自身は道理を推して事業を進め、この成功を晩年になって「天の授けるところ」と表現したのである。これは家康流に「天道報応の理」といってもいい。
 こういったところ、学問を好んだとは言え、「文盲」のプラグマティストたる家康の思想は未整理で、矛盾を孕んでいて、秀吉のほうが思想的には屈折が少なかったといえる。
 秀吉は天に直なる大気者であり、それによって天下の人気を収攬したのである。

 その秀吉が信長に密着してすべてを吸収実践したように、家康も一歩離れたところから多くを学んだように思われる。
 家康は、公家となった太閤秀吉と違って、頼朝に倣って、征夷大将軍として天下を統治する道を択んだ。

 その前将軍家である足利将軍家を再興し、結果的にこれを追放したのは信長であった。
 信長は天下一統事業に足利義昭を利用しようとしたが、言いなりにならないため、これを追放した、というのが一般的な理解だが、これでは反面しか理解したことにはならないだろう。
 彼は天下一統のためには将軍家の復権が必要と考えたが、義昭にその器量なく、むしろ障害となっていると認めたからこそ、追放処分となしたのだ。

 その前に(元亀三年)信長は十七条の諫言書を送って、将軍の行為を諫めている。要は天下の儀を疎かにし、私欲を逞しくし、ほしいままに振舞っている、という諫言である。

 最後の十七条目には

「諸事に付いて、御欲がましき儀。理非も外聞にも立入られざる由、其聞え候。然る間、不思議の土民百姓に至る迄も悪御所と申しなす由候。普光院殿をさ様に申したると伝え承り候。其は各別の儀に候。何故かくのごとく御陰事(おかげごと)を申し候や。ここを以て御分別まいるべきかの事。」

と締めくくられている。
 普光院とは六代将軍足利義教のことで、石清水八幡宮の籤引きで、すなわち八幡大菩薩に択ばれた将軍として恐怖政治を行い、魔王として恐れられた人物だ。
 信長はこの諫言書を天下に公表した。

 『信長公記』は、この後の両者の確執を大体次のように叙述している。

 十七条の諫言に義昭は怒り、信長は年来の忠節がむなしくなることや都鄙の嘲弄を無念に想って、遣いを派し、将軍の示した条件をのみ、人質ならびに誓紙を差し出し、等閑なき趣きを陳情に及んだ。
 信長は天下一統を想い、ここまで譲歩したのだ。
 ところが、義昭側はこれをも受け付けず、逆に、大津の堅田に派兵し、石山に城塞を築き始めた。
 報せを受けた信長は二月二十日に派兵、二十四日には勢田を渡り、石山に攻撃を仕掛け、二十六日には降伏せしめた。この時活躍したのが、義昭側から寝返った明智光秀であった。二十九日には堅田に攻めかかり、当日中に落としている。
 それでも信長は和平交渉を継続するが、義昭の態度はさらに硬化して行く。
 そこで、三月二十五日、信長はいよいよ岐阜を出て、四月三日、洛外を焼き払った上で和談を持ちかけたが、拒絶されたので、翌日、義昭のいる二条城を包囲した上で、上京を焼き払った。
 ここでようやく義昭は和談に応じ、信長は七日には岐阜への帰還の途についた。
 しかし、信長は義昭がこのままに素直に引き下がるとは思えず、ついに天下の敵となって、琵琶湖を堀として防戦するだろう、と見越して、五月二十二日には佐和山に入って、付近の材木と匠を集めて、数千の兵を一度に渡す事ができる大船団の建造を命じ、自らこれを監督した。その甲斐あって七月五日には大船団は完成している。
 これに脅威を感じたからでもあろう。果たして、義昭は反旗を翻した。七月三日のことである。
 信長は大船団完成の日にその報告を受け、早速、翌六日には、折からの風をものともせず、大船に乗って、琵琶湖を渡り、七日には入洛し、二条城に立てこもった、義昭の味方の公家衆を降参せしめ、十六日には、義昭自身が立てこもる真木嶋に移動して、十八日には総攻撃。四方から攻め立てて難なくこれを攻略した。

 注目して欲しいのは、ここで行った信長の処置である。
 『信長公記』巻六(八)によれば次のようであったという。

「今度させる御不足も御座なきの処、程なく御恩を忘れられ御敵なされ候の間、ここにて御腹めさせ候はんずれ共、天命おそろしく御行衛(ゆくえ)思食(おぼしめす)儘にあるべからず、御命を助け流しまいらせられ候て、先々にて人の褒貶にのせ申さるべき由候て、若公(わかぎみ)様をば止め置かれ、怨(あだ)をば恩を以て報ぜらるゝの由候て、河内国若江の城迄、羽柴筑前守秀吉御警固にて送り届けらる。…」

 これが太田牛一の記す信長の指示である。
 ここに字句は若干違うが『老子』「怨みに報ゆるに徳を以てす」の引用がある。(桑田忠親氏校注『改訂 信長公記』(新人物往来社)のこのくだりには注はないが、奥野高広氏校注の『信長公記』(角川ソフィア文庫)には「『老子』の引用だろう」との注がある。)

 ここで思い出して欲しいのは、安土城天主最上階の内壁には、支那の三皇五帝と並んで、孔子とその弟子達および老子が描かれていた事である。

 義昭に対する最後の処置は『老子』の言葉が念頭にあったとしても、そこに至るまでの信長の態度は、むしろ『論語』的だ。

 『論語』「憲問」篇には『老子』の「怨みに報ゆるに徳を以てす」に対する批判とも取れる次のような対話がある。

 或るひと曰く、

「徳を以て怨みに報えば如何。」

 子曰く、

「何を以てか徳に報いん。直きを以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ。」

 
 信長の義昭に対する諫言や挙兵に対する速やかな対応は直なる報いといっていいだろう。しかし、一たび、義昭が和談に応ずる構えを見せるや、謙った態度をしている。すなわち徳を以て報いている。

 これはこの間、義昭との交渉の窓口となっていた細川藤孝(信長の出陣に及んで、信長方につく、義昭を見限った)への黒・朱印状(『織田信長文書の研究』文書【三六〇】【三六二】【三六三】)を読めば明らかだ。
 
 これらの文書における信長の主張は一貫している。


「公儀御逆心に就きて…塙(直政)を差し上せ御理(おことわ)りを申し上げ候処、上意の趣、条々成し下され候。一々御請け申し候。ならびに塙を差し上すべき処に眼を相煩に付きて、友閑(松井)・嶋田(秀満)を以て申し上げ候。質物(人質)をも進上仕り、京都の雑説をも相静め、果して疎意なきの通りに思食し直さるべく候か。…」(【三六〇】二月二三日付黒印状)


「…さてもさてもかくの如き体たらく、不慮の次第に候。今般聞こし召し直され候へば、天下再興候か。毎事御油断あるべからず候。…この一儀相済まず候はば、その上意に随うべし。何れも以て背き難く候間、領掌(了承)仕り候。この上は信長不届きにて、これあるべからず候。此方隙開き候間、不図(ふと)上洛をとげ、存分に属すべく候。…」(【三六二】二月二六日付朱印状)


「…公義(儀)、某(それがし)の質物の事、仰せ下され候由にて候。某(それが)し信長上洛に於ては、平均に申し付くべく候の条、恐れながら御心安かるべく候。天下再興本望に候。その御事、連々入魂候と雖も、以来猶以て疎意あるべからず候。…」(【三六三】二月二九日付書状)


「公方様の御所行、是非に及ばざる次第に候。然りと雖も君臣の間の儀に候条、深重に愁訴申し候の処、聞し食し直され候間、実子を進上申し候。これにより村井・塙を差し副え、明日七日に上洛たるべく候。…」(【三六四】三月七日付黒印状)



 この頃は、武田信玄率いる甲斐の軍団が義昭の呼びかけに応じ西上、家康軍を蹴散らし(三方ヶ原の合戦元亀二年十二月二二日)、三河に居座っており、信長は容易に腰を上げられない状況にあった。だから、このような下手に出て、時間を稼ぐ必要に迫られていたわけだが、武田軍団は信玄の病によって停滞し、四月初旬には撤退し始める。
 信長は最大の危機は去ったと見た。
 だから三月二十五日になってようやく岐阜を出たのだ。
 確かに冷静沈着な状況判断、戦略的計算があったのは事実である。
 しかし、そもそも彼はいつでも部下を派遣して、義昭を殺すことは可能だったのであり、信長の将軍に対する卑屈な態度が戦略的なものであったとするなら、七月に入っての寛大な処置は説明がつかないだろう。
 当時の文書を読む限り、信長は義昭の処置が天下の政道に適うにはどうすればよいか慎重に考慮していたように思える。


 将軍義昭は元亀元年に始まった信長包囲網の陰の首謀者である。
 彼の呼びかけに応じて、信長の義理の弟に当る浅井長政が突如離反し、本願寺が攻撃を始め、信玄は西上を始める。 
 義昭の非行には諫言を以て報い、怒れば臣としての立場から将軍の条件を飲んで、人質と誓紙を差し出してまで和議を図る。義昭がこれをも蹴って、挙兵の準備を進めるや、初めて兵を派遣して威嚇している。ここでようやく義昭が折れるやさっと兵を引き、琵琶湖東岸に引き上げ、様子を窺いながら、再びの謀反に備える。すべては天下再興のためである。
 この苦境の中にあって、信長は決して理性を失ってはいないのだ。

 信長の理性が天を意識することによって保たれていたことは次の例でも分るだろう。
 先に紹介した文書【三六四】の中には、義昭が幕府に何の功労もない者を引き上げて御供衆に加えたことに付いて批判して、「天に咎をうる時に、祈るに所なし、と聞き伝え候」とある。
 これは『論語』の「罪を天に獲(う)れば、祷る所なきなり」が出典だろう。
 字句そのままでないのは、身辺近くに控えさせた禅僧に問うたからであろう。

 この時期苦境にあった信長は、将軍の処置において、古賢人の言葉に耳を傾けようとしていたことが窺えるのである。信長はあくまでも行動者であって、隠君子でも学者でもない。思想を実践的行動を通して表現した人物である。
 行動と思想が一体化している。
 信長は、義昭への処置に関して、天に対して一点の愧ずるところもないように努めている。文書【三六二】の「この一儀相済まず候はば、その上意に随うべし。何れも以て背き難く候間、領掌(了承)仕り候。この上は信長不届きにて、これあるべからず候。」というのはそれを表している。
 信長はこれまでの恩に加えて、天下の儀において、ここまで将軍に譲歩している。天に罪を獲るような不届きはこちらにはない。むしろ将軍こそ、不届きで、天に罪を獲、祈るところを失って、加護を得ることはないだろう。
 この思想がやがて「天(=信長)に咎をうる時に、祈るに所なし」となって絶対者として天下に臨むようになるのであるが、この時期はそこまで至っていない。

 もう少し穿ってみる。
 信長は将軍の行動にどう対処すべきか禅僧に問うたのではないか。将軍の怨みに報いるにはどうすればよいか、何か適当な智慧はないか。
 禅僧はそこで『論語』の「直きを以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ。」という言葉で答えた。しかし、将軍家再興の恩を施したとは言え、臣の立場から兵を以て直に討つ、というのは天下の外聞からいかがなものか。
 禅僧はそこで「天に咎をうる時に、祈るに所なし」と答えた。
 そこで信長は納得した。
 そういう場面を想像してみた。

 そして将軍の非企を討ち、処分は天の意志に委ねることにした。
 ここまでの考察を踏まえた上で、もう一度、『信長公記』が記す信長の処置を読んでもらいたい。


「今度させる御不足も御座なきの処、程なく御恩を忘れられ御敵なされ候の間、ここにて御腹めさせ候はんずれ共、天命おそろしく御行衛(ゆくえ)思食(おぼしめす)儘にあるべからず、御命を助け流しまいらせられ候て、先々にて人の褒貶にのせ申さるべき由候て、若公(わかぎみ)様をば止め置かれ、怨(あだ)をば恩を以て報ぜらるゝの由候て、河内国若江の城迄、羽柴筑前守秀吉御警固にて送り届けらる。…」


 太田牛一が聞いた信長の処置は、将軍は本来なら切腹に値するが、死一等を減じ、追放処分となし、嫡子を人質とする、というものである。
 もう少し敷衍すると、信長がここで言うには、天命とは恐ろしいもので、これだけ天に罪を獲れば、もはや何の加護も得ることはできず、将軍の思い通りには行かないだろう。御命は助けて追放処分とし(これは信長の庇護を受ける以前に戻ることでもある)、後は成り行きを天に任せ、さらに、武家の習いで敵対者の子として殺すべき若君の命も助け、人質とする。これは怨みを恩を以て報ずるとの古賢人の教えに基づくものである。

 信長は当時の史料を総合すれば、このような趣旨の命令を出したわけだ。 

 ここで『老子』が適用されたのは、司馬遷の『史記』「孔子世家」、『礼記』「曾子問」などに、いわゆる孔子の問礼説話というものがあって、広く信じられていたからであろう。
 問礼説話とは、孔子が老子のもとを訪ねて礼について問うた、という伝承であるが、老子についてはその実在が疑われ、しかも『史記』の記す所によれば、この歴史書が書かれた時点で、孔子の家系は十一代目、老子の家系は九代目とされており、老子は孔子よりも後世の人物である可能性が高い。つまり、老子の「怨みをば恩を以て報ず」との言葉は、孔子の「怨みには直を以て報い、徳には徳を以て報いる」という言葉に対する批判が含まれている、ということになる。
 しかし、問礼説話が正しいとすれば、その位置は逆転し、孔子の言葉こそ、老子の言葉に対する批判ということになろう。義昭の怨みに直を以て報いた信長が、それがうまくいかず、殺すか生かすか最終的な判断を迫られた時に、原点に立ち返って、孔子が教えを請うた老子の言葉を採用したとしても思想的にはおかしくはないのである。

 後に安土城天主において儒教的主題の絵が描かれた時、そこに儒教の聖人賢者に加えて老子が描かれていたとする史料があるが、だとすれば当然それは問礼説話が採用されていたことだろう。 


 ともかく、これら一連の処置を近くで見ていたのが秀吉であり(彼はこの命令を執行してさえいる)、遠くから見ていたのが家康だったのである。
 足利将軍家に対する信長の処置は彼らにとって非常に重大な関心事だったはずで、秀吉の敵対者に対する態度にもこれは生かされているし、家康が天下経営に当って『老子』を引き合いに出すのも決して不自然ではないのである。

 では、秀吉亡き後の豊臣家に対する家康の態度はどうなのだ、恩を以て報ずるようなものだったのか、との疑問が出てくるだろう。
 これについては次回考察する。

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