西郷隆盛

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zoom RSS 「この人を見よ!織田信長の正気と狂気」(再掲載)

<<   作成日時 : 2018/01/15 13:09   >>

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 『信長公記』によれば、天正七年五月十一日、織田信長は安土城天主に移り、まさに天主として降臨した。これは同時に神仏の影向でもあった。
 この翌十二日は信長の誕生日とされている。
 (フロイスの記述からの逆算による通説。井沢元彦氏は十一日説を主張。私もこちらだと思う。)

 ところで最近、古書店で、西尾幹二氏が翻訳と解説を行っているニーチェ著『この人を見よ〔ECCE HOMO〕』(新潮文庫)を見つけた。

 その解説で氏は次のように書いておられる。

「ところで、ニーチェにおける狂気と正気との関わりであるが、われわれはゴッホやストリンドベリやその他の例に見られるように、この種の問題を決して一面的に考えてはならない。最後の破局まで、正気は狂気と戦っているからである。狂気の淵のそば近くまで歩み寄ることによって、正気はかえって明晰になり、洞察の目はますます深く、ますます鋭く物事の核心を捉えるというきわどい関係がここにはある。ニーチェの作品はおおむねそうだが、『この人を見よ』は特にそういう先鋭な性格が際立っているといっていい。
 …(中略)…最晩年のニーチェは要するに反体制の一個の過激派だったのだ。草案の一部が不敬罪を恐れた母親の手で焼却されていることからも、彼の行き過ぎは分る。けれども、そのようなラディカリズムに支えられてこそ、ニーチェは他面において、十九世紀後半のこの国に特有の独特の歪み、「帝国ドイツ的体質」を完膚なまでに剔抉(てつけつ)し、予言することができたのである。狂気がこのように背後にあって、むしろ正気を純化している。
 …(中略)…
 以上のように『この人を見よ』は、正気の中に早くも混じり、また隠れた狂気のお陰で、正気の認識がかえって一層の鋭さを増し、深みに達し、まったく新しい認識の地平をも拓く一方、やがてその限界のラインをも越えて、狂気そのものが誤魔化しようもなく露呈し、一切を呑み込んでいく、というプロセスを辿っている。」
 

 ニーチェは正気と狂気の微妙な均衡が破れ、やがて狂気の世界に連れていかれたが、信長はどうだろう。
 フロイスはキリスト教の文脈で、天の主宰者として君臨した晩年の信長を「悪魔の勧誘と本能に操られ」たとしたが、これをわれわれの言葉に翻訳すれば、狂気に動かされた、ということが出来るだろう。
 

 現に『信長公記』には、信長がその生涯を通じてしばしば発する「御狂(おくるい)」と呼ばれる行為が記録されている。天主降臨直前の四月八日および二十六日にも記録されている。この時期は、抜擢して何かと恩を施してきた家臣・荒木村重の謀反という重い問題を抱えていた。

 太田牛一はこの乱行「御狂い」を記した後、「御気を晴らさせられ」と結んでいることから、決して否定的な捉え方をしていないことが分る。今で言う、ストレスを発散させたとか、鬱気を散じた、ぐらいの物言いだ。
 その「御狂い」にも理性があって、近習と馬を乗り回したり、敵味方に分かれて、一方は攻め、一方は防ぐ、というような軍事演習的なもので、今で言うスポーツによる発散のようなものである。

 信長は天下一統の事業を極度の正気によって推し進めていた。
 フロイスでさえ、彼の天下一統の事業を評して、「彼は生来、大いに武技に秀で、その賢明さと才知によって、万事において平和と安静を回復するよう努めた」と書いているほどである。これは極度の正気を必要とする事業である。
 一方で、それは極度の狂気によって支えられていたものでもあったから、彼自身がこの狂気に呑み込まれそうだと感じたとき、本能的に、傍目からみて「御狂い」としか見えないような行為で、その正気と狂気のきわどい均衡を回復していた、と見ることができるだろう。
 逆に言えば、その時期に信長の理性は根源的な難問に直面し、極度に研ぎ澄まされていたと見ることができる。 


 彼が天主最上階内壁に、天子として天下を治めた三皇五帝、そして天を篤く信仰した孔子とその弟子達を狩野永徳に書かせていたことは前回触れた。
 実は人類史上初めて、この人間の精神に内在する狂気というものの意義を積極的に認めたのが孔子であった。

 孔子は狂について、

「中行を得てこれに与(くみ)せずんば、必ずや狂狷(きょうけん)か。狂者は進みて取り、狷者は為さざる所あり。」(「子路」)

と述べている。

 孔子は行動を共にするならば、分別がありバランスの取れた中行(中庸)の人物の次に、狂者と狷者を高く評価していたのである。狷者とは保守的な頑固者で、狂者とは進取の気性を持つ直なる人物のことである。
 狂者は人間が本来もっている根源的な、その始原性のままに、社会の変化から取り残されている人々であった。

 孔子の弟子では子路が最も狂者にふさわしい人物であったし、何よりも孔子自身がこの精神の体現者であった。
 孟子もまた孔子のこの言葉を引用して、狂の精神を高く評価した。

 曰く、

 孔子あに中道を欲せざらんや。必ずしも得(う)べからざるがゆえに、その次(狂者と狷者)を思えるなり。…言、行いを顧みず、行い、言を顧みずして、すなわち古の人、古の人というも、行いなんぞ踽踽涼涼(くくりょうりょう・・・独行して人に親しまれない様)たる。その行いをかんがうれば、掩(おお)わざる者なり。狂者また得べからずんば、不潔を屑(いさぎよ)しとせざるの士を得てこれに与(まじ)わらんと欲す。これ獧(狷に同じ)なり。これまたその次なり。

(『孟子』「尽心章句下」)


 訳せば次のようになる。

「孔子とて、どうして中庸の人を欲しないわけがあろうか。中庸の人は得がたいがために、その次を言ったのだ。
 …(狂者は)言葉が行いに及ばないことを顧みず、また行いが言葉に及ばないことも顧みず、古の聖賢、古の聖賢が、と口にはしていても、その行いはどうして人の容れるところとならないのか。
 考えてみれば、その行いが言葉に及ばないからである。
 その狂者もまた得ることが出来ないとするなら、その次として、潔くないことを嫌う廉潔の士、すなわち狷者と行動を共にしようと欲したのだ。」

 中庸、これは君子といってよいと思うが、これはなかなかいない。ならば、せめて狂狷の者と行動を共にしたい。

 これと対置されて、孔子・孟子の批判するところとなっているのが、郷原(きょうげん)である。郷原とは、地域社会の名士のことであり、教条主義者、形式主義者であり、道徳家のように見えて、実は、処世に長けた、世に阿る偽善者である。郷原の頭にあるのは常に自分のことだけである。吉川幸次郎はこれを似非君子と訳した。
 孔子がこの郷原を「徳の賊なり」とまで言って批判したのは有名だ。

 これに対して狂狷は、一般社会になじまぬ存在である。
 漢字の碩学、白川静氏によれば、狂にせよ、狷にせよ、共にケモノ偏であることからも想像できるように、何か取り付かれたような精神性を感じさせる存在である。しかし、そのような人物にこそ、孔子は人間の持つ徳性の萌芽を見た。
 「剛毅木訥、仁に近し」(『論語』「憲問」)とは、そのことを述べたものである。
 
 『孔子伝』を著した白川静氏には、「狂字論」という、支那における狂の精神史の通観を試みた文章がある(『文字遊心』所収)。
 白川博士によれば「狂気こそが理性と創造の源泉であり、狂気の歴史は、その民族の創造的な活力の消長を示すもの」であるという。
 ここにいう「理性」は、西尾氏の言う「正気」に置き換えられるだろう。

「狂の問題は、民族の精神的な振幅に関する問題である。狂は理性の対極にあって、いわば運動の起動力となる。狂的な自己衝迫によってはじめて運動が起る。」(『文字遊心』後書き)

 しかし、狂気とは理性から区別・排除され、対立するだけのものではない。
 狂気は、人の中に理性とともに内在し、その対立によって逆に理性を照らし出し、それが強ければ強いほど、より強く理性を確保し、支えるものであった。

 白川氏は続けて言う。

「学問の世界でも忠実な紹述者ばかりでは、何事にも発展はありえない。論難答問があってはじめて展開がある。その論難答問を認めないような権威主義の横行を許してはならない。狂とはまずそのような権威を否定する精神である。そしてその否定を通じて、新しい発展をもたらす理性が生まれる。そして理性は無限に螺旋(らせん)的に循環し、いつも対極者の力を呼び起こしながら運動する。理性が狂をよぶのか、狂が理性をよぶのかはいずれとも知られない。ともかく生きることは一種の狂である。」

 信長の人生を通観すると、その死まで正気(理性)と狂気はきわどい均衡を保っていて、破綻は見られない。彼は難局に直面し、その均衡が破れようとした時、武人としての鍛錬の中で培われてきたその強靭な精神力で、さらに高い次元での均衡を達成してきた。おそらく、その行き着いた究極のところに天主という超越的観念は生まれたのであろう。

目に見えるものしか信じない信長はその理性によって考えたのではなかったか。
 伴天連たちはこの世界の主宰者について、理性的に説得力を持って語る。
 もっともである。
 また、彼らの態度も、多くの仏僧と違って、この主宰者に対して献身的で、決して嘘を言っているように思えない。彼らは本気でその主宰者を信じているのだろう。
 しかし、だ。
 彼らの故郷ではいざ知らず、唐・天竺・日本という、この広い天下を見渡す限り、これを信じ、救いを求める大多数の者に、最大限の平和と富を与えているのは「デウス」とやらではない。
 この俺である、と。

 安土城天主降臨の前年末にあった荒木村重の謀反という、信長にとって不可解な事件には、キリシタンの向背という問題が絡んでいた。キリシタン大名高山右近の自己犠牲的な「デウス」への献身に信長は心を深く動かされた形跡がある。荒木村重の与力で高槻城主高山父子の向背は、それこそ彼がこれまで苦心惨憺して築き上げてきた天下一統事業を崩壊させかねない危機を孕んでいた。
 キリシタンの問題は、既に遠い外国の問題ではなく、自身が布教を認め庇護したことによって、庶民から大名まで大きな広がりを見せており、天下一統事業上の大きな問題になっていたのである。

 この事件を境に、信長の過酷な態度と、フロイスの信長に対する好意的な見方も大きく変化を遂げる。別の段階に入ったのだ。

 そして、彼は、天主に降臨した。
 その間に二度の「御狂い」があった。


 彼は次々と戦争を外へ外へと拡大して行き、その内側で、次々と平和を現出し、古くからあるものを復興させると同時に、新しい文化を創出して行った。
 本能寺の変までの数年、彼は戦争は部下に任せ、自らは文化事業に勤しんでいたのである。
 『信長公記』をよく読めば、それは明らかである。

 信長は最晩年の天正十年、甲斐武田家との最終決戦に着手する。
 信長は二月十二日、息子・信忠に歴戦の武将・滝川一益をつけて、先発軍を発進させた。信長自身は三月五日にゆっくりと出陣するが、最終的な決戦は自ら行うつもりであり、信忠には、滝川一益を通じて、功名心に駆られての越度は許されない、と厳しく戒めた。が、意外なことに、甲州軍団は、信忠軍や徳川軍の活躍によって、織田本軍の到着を待たずに、あっけなく崩壊してしまった。
 それは信長自身が「我ながら驚き入る計り」と表現するほかないものであった。

 戦後の論功行賞で、信長は信忠の働きを認め、そして「天下の儀も御与奪なさるべき旨仰せられ」たという(『信長公記』)。一連の流れからいえば、また「与奪」という言葉遣いから見て、「天下の儀」とは、敵の攻略・成敗とか、部下の論功行賞、統治とか言った、「天下布武」という言葉に象徴される、これまで彼が自らに課してきた事業を執行する権限の一部を息子にも分け与えた、ということだろう。
 では、彼は、自らに課して来た使命、いや、おそらくそれは当初は天から与えられた使命、すなわち天命であったはずのものを息子に許し、自らは何をするつもりであったのか。
 ここでも既に天主との自己認識に達していた信長の思想は言葉遣いに表れている。
 そもそも天命を与える資格を持つのは天のみである。天の命令であるからこそ、命懸けの遂行が求められる。信長の命令がますます絶対性をおびて、ますます一般の眼に異様な印象を与えるようになるのは、やはり安土城天主への降臨に前後する時期からであることに気づかされる。

 天下の儀を与奪する権限は一部、息子の信忠に分け与えた。 
 ならば、彼がこれからもっぱら行おうとしていることは自然と見えてこよう。
 すなわち天の儀である。

 信長は甲州からの帰路、軍勢を先に帰し、諸将だけを連れて、念願の関東見物を果すことにした。甲州より富士の根かたを見物し、徳川家の領地となる駿河・遠江をまわって帰還するとの指示を出して四月十日に甲府を発っている。
 その帰路、信長は生まれて初めて霊峰富士を見、麓で例の「御狂い」におよんだ。あたかも戦場で発散すべき狂気をここで発散したかのようであった。

 この帰路の奇観は、徳川家康の家中を挙げての信長一行に対するもてなしであろう。これが家康の自発的なものなのか、信長が求めたものなのか『信長公記』の記述からは分らない。
 一行は四月二十一日、安土に帰陣した。(巻十五【二十三】)
 そして今度は、信長が家中を挙げて、もてなしへの返礼として、家康を馳走するのである。(同【二十五】【二十七】【二十八】)

 それは信長流の礼・楽の創出であった。
 それは彼が天主に描かせた物語で言えば、主に周公旦が古代支那において創出し、孔子が賞賛した、先王の道と称されるものがヒントになったと思われる。これは『論語』に「政を為すに徳を以てすれば、譬えば、北辰(北極星)のその所に居て而して衆星の之に共(むか)うが如し」という言葉があるように、天の秩序の地上への再現である。
 ユニークなことに、信長は、御茶湯によるもてなしを、彼のお眼鏡にかなったものだけに許し、これを天下のご政道に活用したのである。
 本能寺の変から四ヶ月余り経った秀吉の書簡に、「御茶湯は御政道といへども、我らは免しおかれ、茶湯を仕るべしと仰せ出され候こと、今生後世、忘れがたく存じ候。」というくだりがある。いかに茶湯を行う権限が特別なものであったかが分るだろう。

 その間の(同【二十六】)には信長の中国地方への出陣の話が差し挟まれる。有名な秀吉による備中高松城の水攻めが語られ、この城の危機に対処するため、織田家の年来の敵毛利家の主力軍が終結する。急報を受けた信長は「天ノ与ウル所」と自ら出陣し、中国の歴々を討ち果たす、と命令する。

 秀吉を中国地方に派遣し、攻略を命じたのは信長である。
 その攻略が功を奏して到来した毛利との対決の機会は信長自身が設け起こしたものということが出来よう。
 この「天ノ与ウル所」は慣用句として捉えるべきではない。
 この機会は、天主たる信長の与えた所である。
 だから、天主自ら動座し、決着をつけたうえ、「九州まで一篇に仰せ付ける」となるのである。
 
 歴史上の事件や人物の評価にイフは欠かせないから敢えて言うが、もし明智の謀反がなければ、信長自身がフロイスに語ったように、日本の統一事業はあと二年あれば概ね達成したであろう。

 しかし、歴史事実の一回性を言うなら、よく言われるようにイフはない。
 信長の天下一統事業は本能寺の変の勃発によって挫折した。 

 ちなみに彼が中国征伐のために立ち寄った本能寺における変の前夜、最大の関心を持って語っていたのは改暦についてであった。
 暦とは天体の運行に関する問題であり、信長の関心は深かった。

 これについては以前書いた文章があるので、過去の記事「織田信長と真暦」から引用しておく。


(引用開始)

 旧暦(太陽太陰暦)にあって、朔(ついたち)は必ず新月で闇夜だが、謀叛はその晩、日付が変わった時刻に行われた。
 よって日付は二日ということになるが、一日の晩、すなわち新月が見守る中で行われたことになる。

 決行寸前の光秀の心境や如何。
 少なくとも、討たれる側の主君、信長のこの日月の運行に関する関心は別のところにあった。この辺の暦に関する意識の違いは、コントラストをなしていて面白い。

 実は、中国地方への出陣のため京都に入った信長は、この晩、公家衆を前に、暦の改変を話題にしていたのだ。

 この席で信長は、二月から四月にかけて行われた関東平定(武田勝頼の征討)やこれから行われる中国・四国地方への出陣について語ったが、そこで彼は、この年(天正10年)の十二月の後に閏月を差入れるべきとの意見を述べたのである。太陰太陽暦と閏月については「さくら(その弐)」で解説した。

 これまでの日本の正式な暦である朝廷の暦(京暦・宣命暦)では、翌天正十一年の正月の後に閏月を差し入れることになっていたのである。
 太陰太陽暦は、古代において、支那より伝来したものだが、支那において暦は、時を支配するものとして、皇帝(天子)が制定するものとされており、これを踏襲して、わが国においても、天皇(天子)が制定するものとされてきた。そのため、朝廷では陰陽寮(おんみょうりょう)を置いて陰陽頭(おんみょうのかみ)が暦の作成を司ってきたのである。

 公家社会は古来からの慣習を重んじる。

 その席にいた勧修寺晴豊は次のように日記に書き留めているそうである。

「十二月閏の事申し出、閏あるべきの由申され候。いわれざる事なり。これ信長むりなる事と各申す事なり。」
 
 公家衆の反発がここに表れている。
 しかし、これは信長にとって、無理ではなく、有理だったはずである。

 信長の暦に対する関心は、古くまで遡る。
 そもそも「元亀」から「天正」への改元は彼の強く推したことであった。
 「元亀」の元号は不祥ということで、すでに元亀三年には朝廷において改元の議が起っており、三月二十九日には使者が信長と征夷大将軍・足利義昭のもとに派遣されていた。信長はこれに同意したが、義昭のほうはこれに掛かる経費の献上を拒んで、改元は棚上げされていた。
 九月、信長は将軍への十七条の諫言を行っているが、十条目には次のように書かれている。


「元亀の年号不吉に候間、改元然るべきの由、天下の沙汰に付いて申し上げ候。禁中にも御催の由候処、聊かの雑用仰せ付けられず、今に遅々候。是は天下の御為に候処、御油断然るべからず存じ候事。」


 そして、翌元亀四年七月、義昭追放の三日後、信長は改元の奏請を行い、その七日後には、「天正」への改元が行われている。
 改元の発議は朝廷からであったが、後にこれを熱心に推進したのは信長であったことがわかる。
 彼の理念である「天下布武」が、朝廷の改元案の一つ、「天正」という言葉に感応したのだろう。

 さて、改暦の問題に話を戻す。

 今、二十五年ぶりということで、(平成二十四年)五月二十一日の金環日食が話題になっているが(本州で見られたものとしては百二十九年ぶり)、実は信長が改暦の話題を持ち出した、この天正十年六月一日も日食であった。
 ただし、この日の日食は金環日食を10とすると6の部分日食であったという。

 日食はかならず、月が太陽の影に隠れる新月、即ち太陰太陽暦の一日に起る。日食は当時の暦でも推測が可能であったが、この時の日食は京暦では推測できなかった形跡がある。
 だから、信長もとっさに改暦の問題を口に出したらしいが、彼が改暦を主張したのはこの時が初めてではなかった。この年の正月にも信長は改暦の問題を持ち出していたのである。

 当時、関東では三嶋大社の作成する三嶋暦を代表として数種の暦が用いられていた。そして、それらは閏月の挿入に関して見解を異にしていた。
 信長は関東平定を前にして、支配地域における暦の一元化を図ろうとしていたらしい。甲州出陣の軍令(二月三日)を発する直前に、朝廷の陰陽頭・土御門久脩(ひさなが)と賀茂在昌(あきまさ)を安土に呼んで、濃・尾の暦者とその正当性について対決させている。二月の一日から二日のことだ。議論は平行線を辿り、結論は出なかったのだが、信長は京で作暦に携わる者を集め、改めて検討し直して、七日までに結論を出すよう命じた。その結果、京暦が正しいということになって、その結果は信長に伝えられた。
 
 天下に公正を求める信長は、宗論においてそうであった様に、専門学者による討論を通じて、より精確な暦による一元化を求めていたのだ。必ずしも京暦による一元化ということではなかった。
 以後、この問題は取り上げられた形跡はない。
 しかし、六月一日になってこの話を蒸し返したのは、おそらく、誰の眼から見ても、京暦に欠陥があることが明らかになったからだろう。

 後の江戸時代、三嶋暦は幕府によって正式な暦として採用されている。しかし、この問題に先鞭をつけていたのは信長だったのだ。
 信長は学者ではなかったが、天地と一体となった、本居宣長が後に言うところの「真暦」の感覚から、当時一流の学者が捕らわれている、言わば「からごころ」という「人作の巧」による暦の歪を正そうとした。
 とは言え、信長は天下の人々を納得せしむるところの権威たる「人作の巧み」そのものまでも否定したわけではない。意識的な政治、むしろ政事と表現したほうがいいかもしれないが、それはどこまでも「人作の巧」である。乱世における天下一統の事業はどこまでも「人作の巧」を必要としていた。彼はそれを誰よりも、大胆に、峻厳に、精緻に推し進めたのである。

(引用終了)


 その新月の闇夜、明智光秀の謀反を知った信長は、紅蓮の炎とともに昇天した。

 是非に及ばず。

 彼の強靭な精神は、狂気によって支えられた理性によって、善悪の彼岸に到達していたと思われる。

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