西郷隆盛

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zoom RSS 「織田信長の天道思想」(再掲載)

<<   作成日時 : 2018/01/13 15:56   >>

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戦国の混乱を収拾しようとした織田信長は天道思想を強く信じていた。
 
 「天下一統」「天下布武」「天正」「天主」

 「天」は彼の事業を理解する上でのキーワードである。

 彼の人生は戦争と政治に明け暮れて、これと言った文書を残さなかったが、様々な記録や証言から、凡そつかむことができる。
 特に小瀬甫庵が愚直と評した太田牛一の『信長公記』やキリスト教宣教師ルイス・フロイスの残した記録は貴重な史料だ。
 さらに参考図書として、歴史の専門学者ではないが、信長好きで、このテーマで特に冴えを見せている歴史学界の「ブラックジャック」・井沢元彦氏の『逆説の日本史9・10』(小学館)、安土城を復元した建築学者・内藤昌氏の『復元安土城』(講談社学術文庫)を挙げておく。

 信長は無神論者とされてきたが、決してそうではない。
 むしろ戦国の苛烈な社会状況と戦うなかで、強く超越的存在を求めたが故に、宗教が持つ欺瞞を暴いていった人物であった。
 そもそも織田信長の先祖は越前の織田剣神社の神官で、後に越前を勢力下に収めた際、柴田勝家に命じて、これを篤く保護させたし、若い頃には、「火起請(ひぎしょう)」という、古代では「探湯(くかたち)」とされたのと同類の呪術を行って、裁判の根拠と為したことが『信長公記』に出てくる。かなり凄まじい逸話だ。ここでは手に入りやすい「角川ソフィア文庫」版『信長公記』を取り上げるが、この話は首巻二八(65ページ)に出てくる。


 また彼は熱田神宮を深く信じていて、桶狭間の合戦に際しても、ここで戦勝祈願を行っている。後の長篠の合戦の際はわざわざ使いを派遣して、戦勝祈願を行わせている。彼が命運をかけた戦いと認識した時、やはり神の加護を求めた、と考えるのが自然だろう。
 熱田神宮のホームページによれば、御祭神は、草薙の剣を御霊代(みたましろ)としてよらせられる天照大神である。相殿神は「五神(ごしん)さま」と呼ばれ、草薙神剣とゆかりの深い神々、すなわち天照大神を筆頭に、スサノヲ尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命の五柱である。
 桶狭間の起死回生の勝利は、その信仰をさらに強いものにしたと思われるがどうだろう。

 桶狭間の合戦は、首巻二四にあるから、「火起請」の話よりほんの少し前ということになるが、この「火起請」の一つ前、すなわち首巻二七は「蛇がへ」という、これまた興味深いエピソードである。
 内容はこうだ。

 ある雨の夕暮れ、信長の家臣の一人が、「虵池(蛇池)」とも言い伝えられる「あまが池」の堤上で、胴体は黒く、太さ一抱えほどもあり、顔は鹿のようで、眼は星の如く光り輝き、舌は紅色で手を開いたほどの大きさ、という大蛇を目撃したという。
 これを聞いた信長は目撃者を直接尋問し、家臣および近隣の百姓数百人を動員して、池の四方から、水をかき出させた。
 やがて池の水が七分まで減ったところで、居ても立ってもいられなくなった信長は、脇差を口にくわえて、池に飛び込み、自ら大蛇を探したが見つからない。念を入れるため、水練に達者の者を選んで捜索させたが結局見つからなかった。
 実はこの時、暗殺の企てがあったという風聞に話は移っていくのだが、私は信長の頭にあったのはヤマタノオロチの神話で、大蛇を退治すれば、ひょっとすると神剣が出てくるのではないかと思ったのではないかと思っている。
 脇差をくわえて行ったのは護身の意味合いもあったかもしれないが、見つけ出して退治するつもりだったのではないか。
 熱田神宮の御神体、草薙の剣はスサノヲ命がヤマタノオロチを退治した際、その尾から出てきた剣と伝えられてきたのである。

 もと天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と言った草薙の剣は天照大神に献上され、天孫ニニギ命が降臨する際、授けられ、以後、宮中に保管されてきたが、垂仁天皇の時代に伊勢神宮内宮に移され、景光天皇の御代に東国征伐に向かう日本武尊に授けられた。
 この遠征で剣は神威を発揮したが、日本武尊は宮簀媛と結婚した後、剣を彼女に預け、素手で息吹山の荒ぶる神と対決する。しかし、敗れ、逆に重い病を得て都に還ることなく薨じた。
 日本書紀によれば、息吹山の神は大蛇となって現れたという。日本武尊は、この大蛇は息吹山の神の使いであって荒ぶる神そのものではない、と考えて、これを跨いで通ったが、大蛇は雲を起こし、氷を降らせ、日本武尊を苦しめたのである。大蛇は放置しておくと逆に災いとなって襲ってくる。尊はその苦境の中で病に罹られた。

 宮簀媛は尊の薨去後、形見の剣を祭るため、神社を建立した。
 それが熱田神宮の起こりである。

 後の天智天皇の御代、剣は、当時対立していた新羅の僧・道行に盗まれるが、神風が吹いたのか、船が風雨で迷い、戻ってきたため、取り戻すことができたという。大阪に放出(はなてん)という地名が現在もあるが、この僧が神剣を放り出したこと(関西弁で言う「放(はな)ってん」)がその名の由来だという伝承がある。
 以後、剣は宮中で保管されることになるが、次の天武天皇の御代に、天皇が重病にかかると、占いの結果、剣の祟りと出て、熱田の宮に戻されることになった。
 信長がこういった剣の起源を知らなかったとしても、剣が退治された大蛇の尾から出てきたことや日本武尊によって神威を発揮したことぐらいは聞いていたことであろう。

 信長は、自ら多くを語らない、多くを求めない日本の神に、ある種の神威を認めていたのではないかと思われる。そして、それが後の彼の思想の土壌となっていたと思われるが、その神の子孫として、やはり多くを語らず、多くを求めない皇室にはやはり冒しがたい何かと感じていたのではないだろうか。

 今年は伊勢神宮の式年遷宮の年に当るが、永禄十二年十月六日、信長は伊勢攻略に先立って伊勢神宮を参拝している。(『信長公記』巻二【九】)
 それに先立つ三月から四月頃と思われるが、御所の修理を部下に命じている。(同巻二【四】)
 そして、天正十年正月には、伊勢神宮の式年遷宮のためにひとまず三千貫、あとは要り次第差し出す、と、費用の全面的負担を申し出ている。
 式年遷宮は原則として二十年ごとに社殿を全く新しい物に造り替えて、神座を遷す制度である。ところが、この乱世の皇室の衰微によって、内宮は寛正三年(1462年)、外宮は永禄六年(1563年)以来、遷宮が行われていなかった。信長はこれを再興しようとしたのである。
 この事業は秀吉に受け継がれて、天正十三年に式年遷宮は行われた。

 さらに、これに先立つ天正七年十二月には、今日の裏鬼門(南西)を守護する石清水八幡宮を再建せしめた。石清水八幡宮は中世以降、勧請元の宇佐神宮に代わって、伊勢神宮と並ぶ二所宗廟の一つとされる皇室にとって最も重要な神宮の一社である。
 御祭神は八幡(三所)大神で、応神天皇、神功皇后、比売神(比盗_・ひめがみ)の三柱である。『信長公記』の著者・太田牛一は、主君による復興の光景を見て、『御成敗式目』の句を引用し、「誠に『神ハ人ノ敬ヒニ依ッテ威ヲ増ス』とは夫れ是を謂ふか」と表現している。(巻十三【七】)


 信長はまた一方で仏教にも関心が高かった。
 フロイスによれば彼の宗教的態度は、

「形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大にすべての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした」

 という。

 また、

「信長は禅宗の教えに従って、来世はなく、見える物以外には何ものも存在しないことを確信しており…」

という記述も見られる。

 信長は釈迦如来は否定しなかったが、長く敵対した石山本願寺が信仰する西方の極楽浄土にいるという阿弥陀如来の存在は否定していたらしい。
 それが釈迦如来を信仰する法華宗に属しているかのように映ったのかも知れないが、同じ釈迦を本尊としながら、坐禅を中心とする修行によって仏になろうという宗旨の禅宗の見解を受け入れたのは、彼の武士としての実践的性格がそうさせたものだろう。
 彼は怠惰で本分を尽さぬ人間を嫌悪する。

 彼は法華宗の攻撃的性格と堕落を嫌っていて、いわゆる安土宗論で、信長の調停を受け入れず(浄土宗側は「何様にも上意次第」と受け入れた)、公開の場での宗論を求めた法華宗徒が、宗教論争で浄土宗に完全に敗北したとの報告を受けた。これは当時、誰の眼から見ても明瞭な敗北であった。
 信長はすぐ判定を下し、彼らを辱め、罰し、詫び証文と罰金まで取った。逆に宗論に勝った浄土宗には褒美を与えてさえいる。(「法花・浄土宗論の事」巻十二【四】)  
 「浄土宗・法花(華)宗宗論、彼(かの)いたづらものまけ候」とは、信長が息子・信忠に宛てた書簡中にある文言である。

 この際、信長はかつて、フロイス等キリスト教宣教師と日蓮宗の僧・朝山日乗との間で行われた宗論の時と違って、法華宗と浄土宗の宗教論争の内容には興味もなかったのだろう、宗論の場に出席もせず、宗論の顛末を書付による報告だけで済ませて、すぐ安土城から下山して判定を下している。その時の信長の判定は、『信長公記』に詳述されているが、論理的かつ峻厳だ。

 
 彼は若い頃、臨済宗妙心寺派の僧・沢彦 宗恩(たくげん そうおん)を師としていたとされる。
 この沢彦和尚が稲葉山城のある「井ノ口」という地名を「岐阜」という支那風呼称に改名するよう勧めたという。「岐阜」は支那の古代王朝周が興った「岐山」にちなんだ名称である。「阜」は「おか」を意味する漢字である。
 ここにも仏教と儒教の混交は見られる。

 信長が早くから古代支那の伝説に関心が大きかったことは、フロイスがその眼で見、書き残した岐阜城の内装が物語っていよう。

 その一部を紹介すると、

「私たちは、広間の第一の廊下から、すべて絵画と塗金した屏風で飾られた約二十の部屋に入るのであり、人の語るところによれば、それらの幾つかは、内部においてはことに、他の金属をなんら混用しない純金で縁取られているとのことです。これらの部屋の周囲には、きわめて上等な材木でできた珍しい前廊が走り、その厚板地は燦然と輝きあたかも鏡のようでありました。円形を保った前廊の壁は、金地にシナや日本の物語〔イストリアス〕(の絵)を描いたもので一面満たされていました。」(『完訳フロイス日本史2』第38章、中公文庫)

 彼は大変意匠にこだわった人物で、この内装は後の安土城に発展継承されていく。特に、日本の物語がほとんど消え、支那の物語が大きく扱われるようになる。
 岐阜城の廊下の壁に描かれたシナや日本の物語の内容は定かではないが、彼は書物は読まなかったかもしれないが、歴史や伝統に疎かったというわけでもない。
 わずかな手がかりから想像すれば、シナの物語で彼が関心を持っていたのは、三皇五帝の伝説に周王朝の成立、そして孔子や老子の伝承。
 日本の物語としては、草薙の剣にまつわる神話や伝承、そして『平家物語』を題材とするものだろう。彼が「人生五十年、下天(化天)の内を比ぶれば夢幻の如くなり」云々という『敦盛』の一節を好んでいたことを想起されたい。
 彼はそれらから何かを酌み出していたのだ。


 彼は戦争に明け暮れはしたが、武力による統一ばかりに勤しんでいたばかりではない。
 同時に信仰面における統一も図ろうとした。
 その拠点として建築された独創的な安土城の構造はその世界観の表現でもある。安土城が当時、世界から見ても、いかに前代未聞の建造物で、重要な意味を持つ城であったかは、ルイス・フロイスの『完訳フロイス日本史3』第五十三章に活写されている。
 安土城については『信長公記』に詳細に記録されているのだが、城は七層あって、第三層までは、俗世界の様々な主題の絵で飾られている。そして四層目では、竜虎の戦い、鳳凰など支那の伝説を主題とする絵が飾られ、五層目は絵がない。
 興味深いのはここからで、おそらく現世を超越した原理の表現であろう。
 まず六層目の絵の主題は仏教である。

「釈門十大御弟子等、尺尊成道御説法の次第、御縁輪(えんがわ)には餓鬼ども、鬼どもかゝせられ、御縁輪のはた板には、しゃちほこ、ひれうをかゝせられ、高欄ぎぼうし、ほり物あり。」

 ここに阿弥陀如来はない。原仏教に対する関心がある。

 次に最上階、七層目。

「上七重め、三間四方、御座敷の内、皆金なり。そとがは、是れ又金なり。四方の内柱には、上龍、下龍。天井には天人影向(ようごう)の所。御座敷の内には、三皇五帝、孔門十哲、商山四皓、七賢などをかゝせられ、・・・」
 

 ある系統の写本には、より具体的に次の行間補記があるそうだ。

「南・伏羲神農皇帝 西・文王老子 北に太公望 東に孔子七賢」

 そして、戦後新たに発見された安土城の設計図である『天守指図』には、南側の東脇間に「ふつき(伏犠)」「しんをう(神農)」、同西脇間に「くをうてい(黄帝)」、次に西側は、その南脇間に「かうし(孔子)」、北脇間上部には「ふんわう(文王)くるまにて御なりのていなり」と書き込みがあり、北側西脇間上部には「たいこう方(太公望)へちょくし(勅使)ノていなり」、東脇間は「しゆこうたん(周公旦)ひけ(髭)をあらふていなり」、東側北脇間には「しつてつ(十哲)」とあるという。以上は『復元安土城』内藤昌(講談社学術文庫)を参照のこと。


 ここには原儒教に対する強い関心がある。
 
 この最上階七層目はまた天人影向の間であり、支那の聖人賢者がその影向を待つ形となっている。
 影向とは通常、神仏が仮の姿で現れることであるから、天人が仮の姿で現れる空間ということになる。ここに言う天人が何を表すかわからないが、仏教的な「天人(てんにん)」、儒教的な「天人(てんじん)」という言葉の用法を超えた、つまり、仏教や儒教を超越した意味をこの空間に込めたのだろう。
 私はこの七層目が「天主」と呼ばれていたことから見て、信長は自ら天の主宰者として、天下に君臨しようとしたのではないかと思う。
 これは東アジアでは空前絶後、古今未曾有の絶対者の誕生であった。

 安土城の設計図である「天守指図」を静嘉堂文庫の収蔵品の中から発見し、綿密な考証を経て、見事、安土城の復元を果した建築学者・内藤昌氏はこの城で表現された信長の思想を山腹に建立された「総見寺」に着目して、次のように解説している。
 長くなるが引用してみる。

「・・・最後に、都市計画的視座にたって安土城をみれば、城下町が形成された南西方=百々橋に接する安土城尾根続きに「ハ(總)見寺」が開設されている点がとくに注目される。この天主とハ見寺の軸線は、近年の発掘調査によって明らかにされた水平距離にして約百三十メートルにもおよぶ直線状の大手道石段に直交しているのである。そして極彩色唐様南蛮風の新建築、天主が、城下町から約一一二メートル高の安土山上本丸台地に、さらに約四六メートルの木造高層建築としてそびえ立ち、新政権のシンボルとなっている。
 単なる守護神を祀る程度ならば不思議はないが、このような大寺を天主にならび建てているのは、きわめて大胆にして異例なことである。信長は伝統的に道教的思想性を持つ津島牛頭天王社天王坊より堯照法師を招いて住持となす。
 ・・・(中略)・・・
 したがって正系に属する禅寺というよりは、天道思想にもとづくゆえに禅宗に近いものの、おそらく信長は超宗派的性格を与えていたものと推測される。甲賀より移建した六間四面の仏殿(焼失)は、円通閣といわれて本尊を十一面観音とし、あわせて信長の願になる弁財天が祀られていた。同じく甲賀より移建の三間四面の三重塔(現存)は、本尊を安阿弥作の大日如来とし、脇侍に不動・毘沙門を据えていた。鎮守には尾張から熱田社をも勧請している。キリスト教が渡来した初期に、デウスを「大日」と称した件を想起すると、キリスト教をも内包した儒・仏・道・神を總べる天道思想をもっていわゆる庶民信仰を推進し、人心収攬の宗教的ひいては政治的効果を求めた信長ならではの意図が「ハ見」にこめられているとみられよう。
 そして天主は、そのさらなる聖域であったに違いない。王法・仏法を克服して天下統一を希求した信長は、既存のイデオロギーを否定でなく、超越する天道思想をもって、まず須弥山上にみたてた安土山上石蔵に宝塔を設けて仏舎利を奉祈し、ついで一階に盆石を安置して「神にして不滅なる」自己の化身を崇めさせ、そこでの超越的権威をもって一・二階で行われる政治を支配、三階の天界に常住する。そうした精神的イメージをもつ吹き抜けの空間を利用しての二階舞台は、時に饗応の舞台であっても、天上の楽をかなでることも可能である。さらに五・六階は、まさしく天堂である。キリスト教の天主(デウス)にも通じて「唯一絶対神」以上の「統一絶対神」というより、「總見」の「總合絶対神」を志向して信長の座を極めたのである。」(『復元安土城』内藤昌、講談社学術文庫)

 支那の皇帝でさえ、天子、すなわち天の子として広大な土地人民を支配してきたのであり、それを超え、天の主宰者「天主」として、シナを征服し、平和を達成しようとした信長の登場は空前絶後と言っていいのではあるまいか。

 その思想の誕生に、彼が近づけたキリスト教が触媒の役割を果したことは間違いないところだ。彼はその誕生日を祝祭日とすることを定め、山腹に建立した総見寺の参詣を推奨し、現世的な御利益を保証した。フロイスが信長の傲慢を、悪魔視し、憎悪するに至った原因はこれであろう。(以上のことは『完訳フロイス日本史3』第五五章参照)

 ルイス・フロイスは書き残している。

「彼(信長)は日本の諸国王、ならびに諸侯、諸将らすべての人を軽蔑したが、我らに対しては情愛を示した。また異国人であるため、我らを憐れむべき人であるかのように取り扱い、そして我々に向かって語って言った。『時に御身らに対する反対者の陰謀が大きく、予の許で頻繁に偽証する者があるが、予は伴天連たちの行状を承知しており、その教えが善良で真実であることをわきまえているので、予が生存中は何ぴとの嫌がらせも妨害も御身らは受けはしないであろうし、自領内でデウスの教えを説き、教会を建築することを保証する』と。彼は時には説教を聴くこともあり、その内容は彼の心に迫るものがあって、内心、その真実性を疑わなかったが、彼を支配していた傲慢さと尊大さは非常なもので、そのため、この不幸にして哀れな人物は、途方もない狂気と盲目に陥り、自らに優る宇宙の主なる創造主は存在しないと述べ、彼の家臣らが明言していたように、地上で礼拝されることを望み、彼、すなわち信長以外に礼拝に値する者は誰もいないと言うに至った。…」

 また、フロイスは別のところで次のようにも述べている。

「信長がかつて述べたところでは、彼自身が正しくその(安土山の寺院の)神体にして生きた神仏であり、己れ以外に世界の支配者も万物の創造者もないとのことであった。」

 この証言は、内藤昌氏が要約した信長の思想を裏付けるものだ。

 信長の行き過ぎは彼の死後、「天主」が一般に「天守」と称されるようになったことに象徴されるように、後の支配者によって修正されていくことになるが、その事業を土台に、受け継がれていったものも多い。
 彼はこの国をなにか根本的に変えて、去ったのである。

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