西郷隆盛

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zoom RSS 「鬼神のこと」…『十人の侍』プロローグ2

<<   作成日時 : 2018/01/04 07:10   >>

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西洋に限らず、日本の知性の伝統にも同様の箴言(しんげん)がありました。それは東洋の箴言でもありました。すでにちらりと触れましたが、「鬼神を敬して遠ざく」という言葉がそれです。孔子の言行を集めた『論語』にある言葉で、弟子の「知とは何ですか」との問いかけに対しての孔子の答えの中にあります。

「子曰(のたまわ)く、民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく、知と謂うべし。」

 これは知そのものについて答えたというよりも、知的態度のあり方をもって答えたというべきで、江戸時代の知識人の重要な規範となりました。「義務」「敬遠」という言葉の語源ともなっています。「鬼」とは先祖の霊、「神」とは人間以外の神のことで、「鬼神」は日本語では「神霊」と訳されます。これは「遠ざく」の前に「敬して」とあることからも分かるように、孔子は「鬼神」の存在を必ずしも否定していたわけではないのです。むしろ、ゲーテのように知的アプローチでは「窮め得ないものを静かに崇め」たというのが、孔子の態度だったといえるでしょう。
日本の「國體」を考える上で重要な、神聖にして根源的なオカルトの問題は皇室や神道の問題に行き着くと思われますが、江戸時代の学者富永(とみなが)仲基(なかもと)が喝破したように、神道はただ物を隠すがそのくせなり、というところがあります。まさにオカルティズムそのものです。
 インディは西洋キリスト教文明にとって重要なアークに象徴される、神聖にして根源的なオカルトの問題の追究に、聖書や考古学的な知識を手掛かりとしましたが、われわれが自分の「國體」の根源を知る上で何を手掛かりにしたらよいでしょうか。
 アークに匹敵する日本のオカルト、すなわち隠されたものの代表格と言えば、三種の神器がそれに当たるでしょう。神話に由来し、天皇の皇位継承の証である神器です。しかし、これらの神器は、われわれ一般の目からは隠されてはいますが、失われていません。天照大神が天孫瓊瓊(にに)杵(ぎの)尊(みこと)に伝えたとされる八咫(やたの)鏡(かがみ)は伊勢神宮に、草薙(くさなぎ)の剣は熱田神宮に、八尺瓊(やさかにの)勾玉(まがたま)は皇居のしかるべき場所に安置されている。これらの神器は歴代天皇さえ実見されたことはないといいますから、まさに隠されたもの、オカルトです。 天照大神の末裔である歴代の天皇ですら直接に拝めぬほど厳重に隠されているわけですから、われわれ世俗の者は見ることも、触れることもかなわず、したがって検証不能ですから、究極のところでその価値を否定するか、信じるか、あるいは判断を留保するか、これらの態度を取るしかありません。
 しかし、日本人にも、ゲーテの箴言「窮め得るものを究めて、窮め得ないものを静かに崇め」る境地に到達した人物がいました。國学者の本居宣長です。日本の神器は隠されてはいても、失われてないうえに、だれも盗もうともしませんから、ムチを振り回したり、拳銃をぶっ放したり、軍隊と戦ったり、危険を冒して探し回る必要もありません。インディが学生に教えたように、「文献を読み、調べる」を徹底して実践することで謎への挑戦を成し遂げたのです。彼の考古学、すなわち古について考える学問は、そのほとんどが、「鈴乃屋(すずのや)」と名付けられた書斎においてなされたのです。その努力の金字塔が『古事記伝』という書物です。
 彼はその『古事記伝』の中で、すべて神代の伝説は実(まこと)の事であり、人智によってはかり知ることはできないから、賢(さか)しらなる心で考えてはいけない、という意味のことを言っています。多くの知識人が神代の伝説は未開人の無智蒙昧、荒唐無稽な話と考える中で、伝説を実の事として信じよ、という宣長のこの戒めは、日本最古の歴史書の探究の行き着くところで発せられた言(こと)の葉(は)だったのです。
 彼は静かに天照大神を中心とする高天原の神々を崇めましたが、その境地に至るまでの思想的探究は十分に大胆で、冒険的でした。先人の探究から学び、そこから吸収したものを大きく展開していく様は劇的ですらあります。彼は聖人孔子の戒めを破って、「敬して遠ざける」どころか、古語の徹底した研究を通じて、「鬼神」に敢て近づこうとしたのです。大胆というほかありません。それに比べると、研究者としてのインディは、物理的危険、肉体的危険をいくら冒しても、思想的危険は全く冒していません。オカルトの謎に直面しても、またその不思議な力を目の当たりにしても、科学者としての立場に踏みとどまっています。
 近代合理主義の結晶である科学万能主義は科学的合理性の光に照らし出されるものにのみ信を置き、オカルトに闇を見ます。一方のオカルティズムはその闇の中に光を見出すのです。彼らは逆に、科学の中に影を見ます。「窮め得るものを究めて、窮め得ないものを静かに崇め」る境地に到達した宣長ほどの人物になると、天照大神という日の神の光を目の当たりにしているわけですから、彼が「さかしら」と形容するところの人智、すなわち人工の光は、自然の光に圧倒されてしまっているかのようです。彼の言い分を読んでいると、そんな感じがします。それに対し、人工の光を駆使することに長けた当時の知識人は、常識人として、このオカルトの光を浴びて物を言う、不思議な人物には反発を覚えたようです。
 宣長はその境地を「大和魂(やまとだましい)」あるいは「大和(やまと)心(ごころ)」と名付けました。その対立概念が外国文化崇拝心である「漢(から)心(ごころ)」でした。江戸時代ですから、儒教を中心とするシナ文化崇拝心がメインですが、そこには当時普及しつつあった蘭学も含まれています。日本人は程度の差はあっても、多かれ少なかれ、皆、この「からごころ」に侵されているから、日本の古道を究めるにはすべからくこの心を去らなければならない、と彼は言いました。これは現代日本人にも通ずる批判ですが、西洋文明に親しんだ多くの日本人はやはりこの批判に反発を抱くのではないでしょうか。
 宣長という人物が面白いのは、彼が影響を受けた人物として國学の先達である契沖や実際に師事した賀茂真淵を挙げたのは当然のことながら、先人の研究では、彼が否定したはずの「からごころ」においてゲーテが理想とする境地に到達した儒者荻生徂徠の影響を若いころに強く受けていたことです。宣長は若き日に、荻生徂徠が書いた『論語』の注釈書『論語徴』の強い影響を受け、そこに描かれた孔子への敬愛が終生続いたらしいのです。
 当時の知識人で『論語』を学ばなかった人はいませんでしたから、人文方面においては、その『論語』理解の深さが、知識人としての知性を左右した面も少なくなかったのではないかと思われます。

 ところで筆者が『論語』に興味を持ったのは二十代前半で、評論家の呉智英氏が書いた『封建主義者かく語りき』(史輝出版)を読んだことがきっかけでした。この本で、白川静氏の名著『孔子伝』を知り、読んで感銘を受け、それによって古典の英知に目覚めました。呉氏が言うように、『論語』は面白い上に深い。『聖書』は分厚くて、読むのが大変ですが、『論語』をはじめとするいわゆる四書(ほかに『孟子』『大学』『中庸』)は分量も大したことがない。『論語』だけなら、孔子と弟子たちの一種の対話編であり、体系立てて編集されておらず、どこからでも拾い読みできるのでとっつきやすい。かといって、「論語読みの論語知らず」ということわざがあるように、その内容は実に豊かで、奥が深いのです。
 呉氏の同著からは、渋沢栄一という人物がこの『論語』を高く評価し、近代國家日本の価値規範の基軸に据えようとしていたことを教えてもらいました。渋沢は勤皇の志士であった幕末から、幕臣となって渡欧している間に王政復古倒幕を経験するという数奇な運命をたどりました。明治初期の政府に官僚として勤めた後、官を辞し、財界人として明治の大半と大正・昭和を経験し、その間、第一銀行をはじめとする五百もの企業の創設に関わったといいます。かつてマックス・ウエーバーが指摘した、アメリカ型資本主義を支える倫理としてのプロテスタンティズムのような、日本型資本主義を支える倫理として『論語』に着目し、自らもその規範に遵(したが)って生きた人物でした。彼の口述筆記である『論語講義』『論語と算盤』は有名です。
 後者で渋沢は次のような意味深の発言を行っています。

 世の人は漢学の教うるところは禅譲放伐を是認しておるから、わが國體に合しないというが、そは一を知って二を知らざる説である。…不幸にして孔子は、日本の様な万世一系の國體を見もせず、知りもしなかったからであるが、もし日本に生まれ、または日本に来て万世一系のわが國體を見聞したならば、どのくらい讃嘆したかもしれない。

 以後、この発言がずっと頭に残っていて、『論語』を読み込み、また日本の歴史を学び、理解が深まるにつれ、この発言の正しさを実感するようになりました。
禅譲放伐とは王朝交代を肯定する論理のことで、これをはっきり述べているのが『孟子』です。孔子もはっきり述べているわけではありませんが、前王朝殷の討伐によって成立した周王朝の文化を再興しようとしていたわけですから、それを一応は肯定していたとみて間違いないと思います。ただ、明確に自覚はされていなかったけれども、それを理想とはしていなかった、というのが渋沢の卓見です。これもその通りでしょう。渋沢は『論語』の解釈を通じて、そのことを論じています。 
 要するに筆者は日本の國體を論じる上で、『論語』を中心とする四書の思想を援用しようとしているのですが、そうすると自分の考えに近いと感じている、いわゆる保守の人からは大抵、ひとこと批判をいただきます。その批判を要約すると、現在の中華人民共和国あるいは中国人の道徳的荒廃を見れば、孔子や孟子の教えが生きていないのは明らかである。もう少し辛辣(しんらつ)な批判になると、孔子や孟子の教えなどウソだらけであり、仁を説いた孔子には食人の習慣さえあり、好物は人肉の燻製であった、というものまでありました。
 ここまで行ってしまうと完全にデマなのですが、そういったデマがまかり通るにはそれなりの事情があります。
 いわゆる「保守」は反共産主義であった経緯から、基本的に反中国(反中国共産党)であり、そういった面からシナの政治・歴史・文化に詳しい知識人も多く、シナにおける儒教への理解から、儒教体制、延いては儒教思想そのものに対する嫌悪感が強いようです。そもそも「保守」とは「conservative」で、西欧に由来する思想です。代表的な保守思想家と言えば、バーク、トクヴィル、チェスタトン、ハイエクなどの西欧の思想家が挙げられます。ですから、近代化に遅れた現代の中国を見下す感覚から、シナ伝来の文化・思想である儒学までも見下す感覚が強いのです。
 しかし、シナの儒教の伝統と、日本が受容し育んできた儒教の伝統は分けて考える必要があります。戦前の中国の思想家・林語堂は、『孟子』の思想の基本には、人間とはしょせんは飲食と女である、という考えがあり、その思想は老獪極まりない、という趣旨のことを言っているそうです。林語堂はもちろん、この老獪という言葉を、最も尊重されるべき肯定的な意味合いで使っています。しかし、日本で古来、『孟子』をこのように読んだ日本人はおそらく一人もいなかったでしょう。孟子は「惻隠(そくいん)の心は仁の端なり」と言いましたが、それは例えば、よちよち歩きの幼児が今にも井戸に落ちそうなのを見かければ、思わず助けの手をさし伸ばしてしまう、その心のことであり、人なら誰でも持っている心だとしました。あるいは、孟子の生きた時代には多少なりともそういった気風がまだシナには残っていたのかもしれません。しかし、後世のシナ人からすれば、そんな心など自分のどこにもないし、周囲を見回してみても誰も持っていそうにいない。そういった私利私欲にまみれた人間を抑えつけて、統治していくために、道徳の重要性が声高に叫ばれた。だから林語堂流の解釈では、孟子は老獪だ、ということになるのです。ひょっとすると、儒教を学んで科挙に合格したシナ人エリートにしてみれば、孟子は、惻隠の心無きは人に非ざるなり、と言っているから、惻隠の心無き人間は人ではない、ということになって、シナ人全般の命が、官民双方において、文字通り、鴻毛より軽く扱われることになったのかと勘繰りたくなってしまいます。もしそうなら、孔子や孟子の思想は、彼の文明ではむしろ、道徳を圧殺する働きをなしたことになります。その倒錯した世界観には愕然とさせられます。
 このことを裏付ける事件が現代でも起きています。二〇一一年一〇月一三日、広東省佛山市街で二歳の女児が続けて二台の車にひき逃げされるという事件が発生しました。監視カメラの映像がユウチュウブに流され、世界中に衝撃を与えた事件です。
 この女児は、母親が目を離したすきに道路に飛び出し、通りかかった車の前輪にひかれました。車の運転手は女児をひいてしまったことに気づきましたが、車を降りることはなく、なんと再び車を発進し後輪でもひいたのです。女児は道路にうずくまっていましたが、さらに別の車にひかれ、意識を失いました。廃品回収のお婆さんが女児を道路のわきによけ、母親を探し出して女児はようやく助け出されましたが、女児は人形のようにぐったりとしています。病院に運び込まれたとき、女児は呼吸ができず、脳死状態だったといいます。結局、事故の発生から母親が駆けつけるまでに、合計二十一名の通行人が、倒れている女児のそばを素知らぬふりをして通りすぎていったといいます。 映像は今でもインターネットで検索すれば見ることができます。報道によれば何でも、中国では、親切心から倒れた老人を助けた人が、老人本人から逆に訴えられ、治療費を請求されるという事件が多発していて、倒れた老人を助けない現象が発生しているそうです。
 こういった風潮を踏まえると、おそらく最初のひき逃げ犯は女児がまだ生きているのを確認したうえで、治療費を請求されるくらいならいっそのこと殺してしまった方が後腐れがない、と考えてあえてひき直したと考えられます。報道によれば、最初のひき逃げ犯は「一人ひき殺しても1〜2万元で済む」と嘯(うそぶ)いたとのことです。このこともショックですが、それ以上に、通行人のほとんどが見てみぬ振りを決め込んでいた事が、一種のカルチャーショックとして衝撃的に受け止められたようです。日本ではちょっと考えられない事件ですが、同様の事件はたくさん報告されています。日本でも目を覆いたくなるような凶悪犯罪はありますが、たいていは犯罪者個人あるいはグループの資質に起因するものです。
報道ではこの事件を現代的な風潮のように解説していますが実は違います。
中華人民共和国が生まれる前の中華民国の時代ですが、戦前のシナ研究家長野朗は昭和四年刊行の『日本と支那の諸問題』の中で、今回の事件を髣髴とさせる事件の数々を報告しています。(ちなみにこの本は当時のシナの実態を報告する書籍として、GHQによって焚書されています。連合国側の悪はわれわれの記憶から消されなければならず、悪者はどうしても日本人にしておかなければならなかったのです。)

 支那(しな)人の主なる性質の一つはその利己的なことであって、この方面では徹底した性格を備えている。日本では「旅は道づれ世は情け」とか、「情は人の為ならず」等と云う諺があるが、支那では人が殺されようが死のうが全く無関心である。私の友達が同文書院(上海の日本人学校、東亜同文書院)の旅行で洞庭湖を船で行っているうちに船が転覆して溺れそうになったが、近くを舟が幾らも通るが助けて呉れない。所が一人の男がポケットから一元の銀貨をつかみ出して見せた所が、忽(たちま)ち方々から舟が集まって助けて呉れたので、六人の命が一元で、一人当たり十七銭ばかりになると話したことがある。

 つまり、車にひかれた二歳の幼児の場合、一枚の銀貨を取り出せるはずもなく、二十一人のシナ人の素通りと相成ったわけです。
 さらに次のような経験も紹介されています。

 私が或る時川辺を通りかかったが、男が二三人立って居るので、何だと聞いて見ると、この河に子供が溺れて居ると云う。その河と云うのが深さが大人の腹まで位しかない処である。それを誰も助けようとしない。また河に溺死体が浮いて潮の加減で上ったり下ったり二三日もやって居るのを見ることは決して珍しくない。たまに死体を引き上げる奇特なものが居るかと思えば、衣服だけ脱ぎ取って体はまた河に投げ込むと云う有様である。支那には兵乱や土匪(土着の強盗団)等で、時々人民が避難することがあるが、そんな時には一家の主人が在り金を皆持って、親や妻子にお構いなしに逃げ出すと云う有様で、かかる混乱の際に国民性は最もよく現わるるものである。
 支那人が金を大事にするのは一つは人情が利己的なためで、金が無ければ誰もたすけて呉れるものはなく、官憲はもとより相手にしないし、野垂れ死にする外ない。そこで子供を売ると云うことにもなる。殊に旅に出て金が無くなった場合には全く動きが取れないので、最愛の妻を売り飛ばすようなこともある。子供を売るのは珍しくはない。大体十円位の相場である。支那人が金と命を同じ位に大事にするのは、無理のないことである。

 こういった例は古代からいくらでも資料が遺されていて、食糧難に陥った時には人肉の市場ができるのです。そう、漢民族には食人の風習があり、それを題材にした魯迅の『狂人日記』は有名です。文化大革命の時にも、吊し上げた反革命分子の臓器を食した話が出てきます。そういった残虐な発想を日本人に転嫁したのが、戦前の日本軍が中国人民に対し犯したとされる残虐行為の数々なのでしょう。ああいった残虐行為は日本人の発想にはないもので、彼らの嗜好性が創り上げた創作話といえるでしょう。これでは惻隠の心どころの話ではありません。
 こういったシナ人の生態を踏まえ、長野は次のように言っています。

「孔孟の教えも支那には形骸だけが残ってそれが却って災いをなし、実質はとうの昔に消え失せ、日本の方に伝わって居る有様である。」

 そうなのです。
 そうなった歴史的経緯を分析すると大体次のように考えられます。
 孔子が生まれたのは今から約二千五百年前のことで、周王朝の時代でした。最盛期に高度な文明を誇った周王朝も、孔子の時代には下剋上によって衰退し、人心は荒廃していました。孔子は王朝文化の再生を夢見て活動しますが、挫折を余儀なくされます。その約二百年後に活躍した孟子は孔子の理想を受け継ぎますが、これもまた人心荒廃の趨勢に勝つことはできませんでした。
 この古代シナの混乱期である春秋戦国時代は秦の始皇帝による中原の統一によって一応の収束を見ます。その際、始皇帝が統治の思想として採用したのが、韓非子に代表される法家の思想でした。法家の思想とは法と術による統治ですから、人心の荒廃が改まったわけではありません。
 秦は一代で滅び、漢王朝が成立すると、法家による統治の思想を継承し、その上で儒教を官学として採用します。つまり、法家の思想による統治体制が、術として、すなわち人民統治の道具として、儒家が重んずる儀礼が持つ外的規制力を利用したのです。つまり、シナ儒教は法家が纏った衣と言っていい。そこで日本人が『論語』や『孟子』の言葉に読み込んだのとは全く逆転した世界観が成立した、そういうことであったと思われます。 
 韓非子が生まれた時代は、春秋戦国時代の最末期で、秦による統一の足音がようやく聞こえ始めた時代でした。周王朝が分裂を始めて、大体、孔子が没した頃までを春秋時代、それ以後の時代を戦国時代といいます(時代区分に付いては諸説あり)。春秋時代は、衰えたりとは言え、周の権威、遺制はまだわずかに生き残っていて、孔子は周の伝統に連なる者として、その再興を目指すことで世の混乱を収めようという志を抱いたのです。これを「先王の道」といいます。
 一方、戦国時代はそのわずかに残っていた周の残光さえ消え失せて、諸侯が王を僭称して覇を競い合った時代です、諸子百家と呼ばれる思想家群が活躍したのもこの時代です。仁義なき時代ゆえに、孟子は仁義を説きましたし、老子が「大道廃れて仁義あり」と儒家を批判したのも、むべなるかなという気がします。
 この時代の儒家に荀子がいます。荀子は、孟子の性善説を否定し、治を善、乱を悪と規定して、礼の持つ外的規制力に着目した思想家です。もちろん乱世に生まれた荀子はその時代の人間観察から、性悪説に立つ他なかったのです。
 韓非子は、韓の国の公子として生まれました。韓王安の妾腹の子であり、公子中、その地位は低かったといいます。ですが、王族に連なる者として、統治者の視点を持っていました。その点、「吾少(わか)くして賤(いや)し」と告白した孔子とは出自が異なります。
 韓非子は荀子から儒学を学んだと伝えられています。韓非子は孔子を聖人として尊敬しましたが、その聖人孔子にしても、彼に随った弟子はたかだか七十人ばかりであり、乱世を救うことは出来ませんでしたから、韓王室の衰微を救うには別の手立てが必要であると考えるようになったようです。そこで彼が着目したのが、私欲のみで動く人間に外的規制力を与える手段としての法と術でした。彼がその着想を得たのは、一つはいまや韓王朝最大の脅威となっている隣国秦が採用している商鞅の「法」、もう一つは五代前に韓の国力を充実させた宰相・伸不害の「術」でした。韓非子は、王室を守るための手段として、法術の思想を大成させましたが、これが自国で採用されることはなく、受け入れたのは、皮肉なことに敵国である秦王・政でした。後の覇者、始皇帝です。韓非子は秦に赴きますが、讒言されて、結局この秦王・政に殺されたうえ、韓王朝は攻め滅ぼされました。
 
 ところで、孔子もかつて謀略に手を染めたことがあります。
 孔子は衰退していた生国・魯の王室(周公を起源とする)を再興させるため、当時国政を牛耳っていた季氏の一人の家宰に、愛弟子の子路を送り込んで、季氏の領地の武装解除を企てたのです。この企ては、成功半ばまで行きましたが、最終的に失敗しました。その結果、孔子は亡命を余儀なくされます。この失敗に対する反省が、孔子の思索の原点となり、その思想を大成させるわけですが、一方、韓非子は王室を守るという同じ目的を持ちながら、孔子が行き着いた思想を学ぶところから出発し、逆に謀略の思想に行きついた、というところが思想継承のドラマとして面白いところです。孔子の思想を根とすれば、韓非子の思想はシナの土壌で成長した幹なのです。
 この根幹を持つ大木であるシナ王朝は何度も倒壊します。比喩的にですが、根が枯れていて倒れることが宿命づけられた大木、これがシナ文明の体ではないでしょうか。毛沢東は文化大革命においては、「批林批孔」のスローガンで知られるように孔子を否定し、『韓非子』を推奨しましたが、ある意味、この皇帝制への復古を目指したといえます。今は習近平がそれを目指している。しかし、ひっくり返って、本来なら地中深くに隠されているべきにもかかわらず、日の光を浴び、衆目にさらされた根は枯れた姿をさらしているのであり、シナが見せかけの隆盛にもかかわらず、脆弱性を抱えてきたのは、こういった文明の体質に根ざしているものと思われます。
 ともかくこういった歴史的経緯がシナ人の倒錯、荒廃した道徳観を作り上げてしまったのだと思うのです。 
 かつて徳富蘇峰は、シナ文明に関する次のような卓抜な批評を残しています。

「極言すれば、杜甫一たび出でて、支那の詩界は亡びたりと云うも、大なる過言にあらず。即ち王右軍出でて書亡び、朱晦菴(朱子)出でて経学亡び、韓退之出でて文章亡ぶ、と云う意味に於(おい)て然る也。而して此の意味に於て、特に杜甫に於て、痛切なるを見る也。」

 この蘇峰の卓抜な表現を借りるなら、次のようにシナ文明を表現できると思います。

 孔子一たび出でて、シナの道徳は亡びたり。
 
 孔子は古代シナの伝統を集大成し、自らもこれを体現した人物で、歴史的に振り返った時に、その出現が一つのピークであったということです。
 こちらの方が杜甫の場合より、よほど痛切で、深刻です。辛亥革命から文化大革命まで続いた内乱で、それまで緩慢に衰退し続けたシナの道徳の根は完全に死に絶えました。毛沢東の次の指導者ケ小平は資本主義を導入し、人民の欲を煽りました。中国共産党は、『韓非子』を読みながら、利己主義がむき出しで、愚民と化した人民に銃口を突きつけ、搾取しながら君臨し続けているのです。国民道徳となるべき思想は一向に現れてきません。 
 これに対し、日本では千年以上かけて創り上げてきた『論語』受容の歴史があります。これは近代合理主義的立場に立つ歴史からはその成果が隠されてしまっているという点で、オカルト的かもしれません。しかし、その痕跡は日本の歴史にはっきりと残されているのです。

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