西郷隆盛

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zoom RSS 「徳川家康の天下取り【二】大坂の陣」(再掲載)

<<   作成日時 : 2018/01/26 08:01   >>

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 徳川家康は豊臣秀吉のよき理解者ではなかった。
 彼の才気に満ちた天下への仕置きの多くを、物好きから来る私的行為とみなしていたらしく思える。

 例えば、方広寺の大仏建立である。
 この事業は、井沢元彦氏が説いておられるように、織田信長がハ見寺を建立して、あらゆる宗派を統合しようとしたのと同じ趣旨で建立されたものだ。だから、この大仏が地震で倒壊した際、信濃・善光寺の阿弥陀如来像を持ってきて代置した。
 実はこの阿弥陀如来像は、日本に初めて伝えられた仏像とされ、その由来は聖徳太子の時代のまで溯る。蘇我氏と物部氏のいわゆる崇仏派と廃仏派の対立の犠牲となった仏像なのである。つまり、わが国の仏教導入の起源にまで溯る、全ての仏教徒にとって特別な意味を持つ仏像なのである。
 これを強引に持ってきて代用したことでも秀吉の大仏建立の意図は明らかだろう。

 家康はこれを太閤の例の物好き、すなわち私的行為と見た。

『駿河土産』巻二の十五に

「聖武帝勅願の(東大寺)大仏殿さへ頼朝は構へ申さず候と見へたり、ましてや京都の大仏と有は太閤の物好を以て建立いたし置きたる儀なれば、親父の志を相立て秀頼の建立申さるべくは格別、将軍より構ひに申さる事にはあらざる」

という家康の考えが出てくる。 

 秀吉のやり方と違って、家康は宗派それぞれに対して法度を定めるという、無理のない、道理に基づいた方針を取った。そのため、彼の駿河での日常を記録した『駿府記』には、しばしば、各宗派の高僧を召して宗論を行わせ、これに耳を傾けた記事が出てくる。法度は、その理解に基づいて定められたのだ。

 家康は秀吉の天下統治を天下の私物化と見たふしがあり、死後、神として祭られた彼を、智仁勇、三徳兼備の要件を満たした神とは認めず、神像を辱めた。

【ということは、死後、神となることを遺言した家康は智仁勇の三徳を兼備している、との自己認識を持っていた、ということになる。晩年の学問好きは智者たらんとの強い意志から来ていたのだろう。仁については、「怨(あだ)をば恩を以て報じる」という『老子』の言葉を若い頃から心掛けてきたことは既に触れた。勇については彼の最も自負していた徳目であっただろう。】

 ところが、たかだか十数年、この国を統治しただけの秀吉に私的な恩を感じて、天下を豊臣家のものと勘違いしている勢力がいる。
 太閤恩顧の大名だ。
 彼らが担ぎ上げている秀頼や母淀君でさえ、その意識は抜けきらなかった。彼らは太閤の浪花の夢にまどろみ続けようとした人々である。 

 関ヶ原の戦後処理において、家康は秀頼の事情を汲んで赦免、一大名としての存続を許した。「怨(あだ)をば恩を以て報じ」たわけだ。
 しかも、秀吉の遺言にもとづいて、孫に当る千姫(秀忠の娘で、母は淀君の妹・お江。姉妹の母は信長の妹・お市である)を嫁がせ(慶長九年七月)、右大臣にまで昇進させている(慶長十年四月)。これと同時に、家康は征夷大将軍職を秀忠に引き継いでいる。
 家康は武家としての矜持、手本とした源頼朝への崇敬もあって、将軍家としての地歩を固めていったが、秀頼を決して粗略に扱ったというわけではないのである。秀吉の織田信長の子孫達への待遇を想えば、むしろ優遇といっても良い。

 以上の経緯を踏まえれば、『駿河土産』巻一の七に紹介されている、後年、大坂城内の消息を聞いた家康が怒気を発したという次の逸話もすんなり理解できるのではないだろうか。

 権現様駿府に遊ばれ御座候節、蜂須賀蓮庵(家政)登城致され、去日頃、秀頼卿の機嫌伺ひとして大坂城中え罷り越し候所に、大野修理私(家政)へ申し候は、其元には故太閤の厚恩においては定て今以て忘却され仕りまじく候間、此以後、何様の義によらず其元を頼みに秀頼には思し召す事に候間、兼て左様に相心得候様に、と申聞候。ケ様の儀を聞き捨てに仕り差し置きかたく候に付き、申上げ候と申上げられ候へば、権現様以ての外御機嫌悪き御様躰に成りなされ、仰せられ候は、其元には若老耄など致され候に哉、其元抔存ぜらるごとく、先年関ケ原一戦の砌(みぎり)、秀頼事も逆徒と共一所に身上を果さずしては叶はざる次第にこれあり候を、我等心得を以て宥免致し差置くのみならず、大禄をあたへ、安楽に指置くには何の不足もこれなき儀にて、其元抔の口より左様の事を申されて能き者にて候哉、との上意に付き、蓮庵殊外迷惑致し候と也、御下心これある儀とこれあり候と也


 恩をあだで報じる気か!との口吻である。
 このように家康が大坂方の下心を疑っている中に有名な方広寺の鐘銘事件が起きる。
 この事件は、家康が戦争の口実を得るためにこじ付け、林羅山や五山の僧達がこれにおもねって雷同した、という見方が一般的であるが、論者は家康側の言い分、起草者清韓長老の言い分を十分検証したことがあるのだろうか。
 確かに博覧強記の秀才・林羅山の言い分には、こじ付けの嫌いがないではないのだが、彼は大坂方の下心を疑っていて、それをこの鐘銘の一件で確信したからこういう結論になったまでだろう。

 家康もまたこの一件で、それまで心の隅に引っかかっていた大坂方の下心(必ずしも秀頼の下心ではなく)、逆心は疑いようがない、という結論に到ったように思われる。

 方広寺の鐘銘事件、これは諱(いみな)の問題であり、我国の慣例に則った家康側が、支那および朝鮮の慣例に則った清韓長老を糾問するに到った事件である。そして、これに対する清韓長老の弁解は、羅山が指摘した呪詛調伏の下心は否定するものではあったが、徳川方の指摘した点を一部認めるものであったのだ。

 家康がこの事を言い出したのは慶長十九年七月二十一日のこと。

「七月二十一日、伝長老・板倉内膳両人、これを召す。仰せに曰く、大仏鐘銘関東不吉の語あり。上棟の日、吉日に非ず、御腹立云々。」(『駿府記』)

 この日から家康の大坂方に対する疑心はさらに深くなっていったようで、特に大坂方の下心を確信した林羅山が強く訴えたためもあって、この件の追及を厳しくしていった。

【当時の五山僧および林羅山の見解はウィキペディア「大坂の陣」に全文が掲載されている。解説も当時の慣例に則った常識的で、先入観・偏見に毒されていない。
「大坂の陣」ウィキ解説;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3#.E6.96.B9.E5.BA.83.E5.AF.BA.E9.90.98.E9.8A.98.E4.BA.8B.E4.BB.B6
 

 『摂戦実録』に記録された清韓長老の弁解文を引用しておく。これは林羅山の主張への弁解となっている。

「右僕射と申(す)は、右大臣の唐名なり。秀頼も右大臣にて候へば、唐名を書きまがひ候はぬやうにと、書き換へ申候。

 庶幾(こいねがう)所は国家安康、四海施化、万歳伝芳。

 鐘と申す物は奇特・不思議のあるものなれば、此功徳によりて、四海太平、万歳も長久にましませと云(いう)心ぞ。国家安康と申候は、御名乗の名をかくし題に入れ、縁語をとりて申すなり。分て申す事は、昔も今も縁語に引て申し候事多く御座候。
 総じて御名乗は賞玩の物なれば、かくの如く申し候。諱と申候は、松・杉など連歌也、歌の作者に一字御座候を申候と承及候。但、御侍公方家の御事、無案内に候。御名乗は名乗字と相つづき、これを字(あざな)と申候て、賞玩のやうに承及候間、かくの如く仕候。随分あがめ奉り仕候へども、愚人、夏の蟲の如くに候。御慈悲を垂れ給ひ、届き候はぬは、不才の咎にて候。万事芳免を下されば生前死後の大幸なり。

 君臣豊楽、子孫殷昌、仏門柱礎、法社金湯、英檀之徳、山高水長。

 是も豊臣をかくし題に仕候。此例も昔し御座候。」

(徳富蘇峰『近世日本国民史』より)


 清韓長老は、自分が迂闊だったことを、つまり過失があったことを認めて、赦免を求めているのだ。
 家康は清韓長老に呪詛調伏の意図はなく、淀君・秀頼母子に悪意がなかったことを受け入れたようで、この後、特に鐘銘の一件を問題にした形跡はない。これは、とにかく戦争の口実を得る為にこじつけて問題化したことであって、真偽はどうでも良かったからということではなく、それは大坂方逆心の一証左にすぎなかったからである。不信材料は他にもあった。

(なお清韓長老についてはこの後、大坂の陣の際、大坂城に籠もり、落城後逃亡したが、捕らえられ、駿府に監禁状態に置かれたまま元和七年三月に入寂している。)

 家康は弁解のために先に駿府に下向した片桐市正には拝謁を一切許さず、秀頼母子が別に使者として下向させた大野修理の母で秀頼の乳母・大蔵卿局には拝謁を許し、次のように語ったという。

「秀頼事、大樹(将軍秀忠)の婿たる故、吾孫に均しければ、予、常々愛慕し、成人の期を待居る所なり。察するに秀頼は勿論、母堂も大樹の簾中と姉妹なれば、害心を含まるべからず。只家臣等、其心僻(ひがみ)みて浪客を招き募り、軍旅を修練するが、早く侫臣阿党の族を追退(おいしりぞけ)て、真実の情を顕し、大樹と父子の親を厚くせらるべき旨、汝等熟々(つくづく)謀り帰り報ずべし。尚余意を片桐市正に含め、帰すべき旨御諚有て、鐘の銘の事は努々(ゆめゆめ)御沙汰なかりしかば、二女(大蔵卿局と正永尼)、大坂にて甚だ辛苦して、未だ知らざる漢字の訓釈を俄に習ひ、道すがら諳んじて下向する所、御怒(り)聊かなければ、歓然として寓舎に帰る。…」(『武徳編年集成』)

 全く情理を尽した説得というべきだろう。豊臣家に対する関ヶ原の戦後処理の趣旨はここでも守られているのである。

 この時片桐市正が持ち帰った家康の「余意」というものが、どのような内容だったのかが問題だ。
 確かな記録はないが、金地院崇伝の日記によれば、九月七日、崇伝と前日に江戸から到着したばかりの将軍秀忠の補佐役・本多正純は、家康の意を受けて片桐に会い、大蔵卿局にも言い含めるから、それぞれ大坂に戻った上で相談し、将軍秀忠と父子の関係にある秀頼が、これから疎意なく、御意を得られるように周旋せよ、との内意を伝えた。片桐は安堵したようであったという。

 そこで将軍と大坂との間の葛藤をなくすために、片桐が出した案が、淀君を人質として江戸に下すか、領地替えを行って母子を大坂からよそへ遷すか、あるいは秀頼自ら関東に下って和を請うか、というものであった。
 これは、関ヶ原の戦後処分に際して、太閤取立ての大名達が主張した内容とあまり変わらないことからも分るように、天下一の名城にいる秀頼が反徳川の家臣を統制できない以上、武家の慣習として常識的な内容である。
 しかし、母子が飲めない内容であった為、大坂方は疑心暗鬼に陥り、やがてこれを言い出した片桐への敵意と大坂城退去という事態に陥り、いよいよ征討が決定されるに至るわけである。

 この結果から逆算して、大坂からの両使者に対する家康の対応が腹黒い謀略のように語られるが、これは逆であろう。
 大蔵卿局に家康が面会したのは八月二十九日で、この時既に清韓長老の尋問は済んで、蟄居を命じ、鐘銘はすりつぶす、との処分を下していたのであり、家康のこの件に関する疑惑は氷解していたのである。
 だから大蔵卿局との対面の際、この問題には触れなかった。大蔵卿が言い出さない以上、家康の方からことさらこの問題を持ち出す必要はない。 
 彼が問題にしたのは別の面からみた秀頼の態度、そして大坂方がしきりに兵を集めていることである。
 彼はこの使者に、親族に接するように対した。片桐には政治的処断を伝えたが、彼に拝謁を許さなかったのは、大蔵卿局への接待のほうを重視し、優遇していることを彼女達に分りやすく示す為であろう。これは現代の政治においても政治意志の表明として普通に行われていることだ。
 彼は親族としての情を以て彼女達に説いた。
 その説く所は非常に道理にかなっている。
 むしろ鐘銘事件で秀頼に対する疑惑が氷解したからこそ、侫臣阿党の族を追退て、真実の情を顕し、大樹と父子の親を厚くするように、という話になったのだ。

 歴史を見るものは過去から時間を溯りがちだが、現実の時間は過去から次第に流れていくものだ。
 話は逆なのである。
 問題は鐘銘のことしか念頭になく、難しい漢字の暗誦で頭が一杯になっていた大蔵卿局は勿論、大坂に政治や道理の分る人間がいなかったことだろう。大蔵卿局の息子が、反徳川の急先鋒大野修理治長であったことも亀裂を深めた。
 豊臣家で言えば、秀吉の正妻であった北政所は、太閤とともに苦労してきただけあって、明らかに、武家の慣習を理解し、家康の深意を汲み取っていたが、こういったものの判る人間は次第に秀頼の身辺から遠ざけられ、あるいは自ら遠ざかっていったのである。その最後の一人が片桐であったといい。
 大坂方はこの片桐を、秀頼を徳川に売った裏切り者とみなし、総意として排除した。
 これは徳川から見て、拒否回答と受け取られても仕方なく、事実、そう受け止められたのである。

 片桐が大坂城を退去したのが十月一日の事である。
 ところが同日、家康は京都の板倉勝重からの報知を受け、激怒し、大坂への出馬の意志を表明し、各大名へ動員令を下している。
 片桐の退去を知る以前に、成敗を決断したことが分る。
 大野治長らが秀頼の意向を無視して、屋敷に籠って登場を拒否した片桐を襲撃しようとしたのが九月二十五日のことだから、これが家康の意志を固めさせたのだろう。

 十月一日付、金地院崇伝の藤堂高虎宛書状に、

「今度仰せ出さる儀に付いて、大坂本丸衆と、片市正と出入り出来の由候様子により、大御所様、是により御上洛なさるべくとの御内証に候…」

とあり、問題が秀頼よりむしろこの連中にあると正確に認識していたことが窺える。だからこそ、秀頼を移すなどして、問題の根を絶つ必要があったのだ。 

 片桐の大坂城退去の報は、四日か五日頃には早速、家康の耳に届き、五日付で本多正純・板倉重昌の名義で送られた片桐宛書状に次のようなくだりがある。

「大御所様(家康)聞こし召され、一段神妙なる儀と御意成られ候。大形(おおかた)ならず、御誉め成られ候。日本の神は少しも偽りにて御座無く候。大御所様御出馬御急ぎ成られ候間、今月二十日時分には、京都に於いて御目に懸かり、御意を得るべく候。」

 通常、神妙とは「殊勝である」との事で、家康が片桐の道理に基づいた振る舞いに関心した、という文脈で一応は理解はできるのだが、続けて、「日本の神は少しも偽りにて御座無く」云々となると現代の用法とは違ってくる。
 「神妙」とは字義通り、神霊の妙であり、家康の側では、この一連の出来事に、人智を超えた存在(ここでは日本の神)の作用を感じとっていたことになる。ということは、彼らの認識においては、一点の疚しい所もなかったということだ。
 彼らの言い分に、菅原道真の詠歌とも伝えられる「心だに 誠の道に かなひなば 祈らずとても、神や守らん」を連想してしまうがどうだろう。
 この連想が的外れでなければ、これから起こす軍にもまた、神の加護があるだろう、と言っていることになる。


 事態は十月一日を境に、一気に戦陣の準備に入っていった。
 ここで俄然、溌剌としてきたのが大御所様、すなわち、御年七十一の家康その人である。
 二日付で、本多正純が藤堂高虎に宛てた書状には次のようなくだりがある。

「大御所様、今度の仕合を御聞きなされ、大かたもなく御わかやぎなされ候間、御満足なさるべく候。方々への御仕置、一段とはかまいり、らちのあきたる儀と存じ候。斯様の儀、御すきの道と申し、又、えさせられ候儀に御座候へば、何もかも恐れながらよきと存ずばかりに候。…」

 先入観にとらわれた眼でみれば、計略がまんまと当って大はしゃぎ、ということになるのだろうが、よく読めばそういった趣旨でないことはわかるだろう。
 彼は道理を守って、大坂方に堪忍に堪忍を重ねてきたのだ。
 家康はそもそも武勇で出頭してきた人物である。信玄も、信長も、秀吉も、彼の武将としての能力には一目を置いてきた。
 数々の戦歴を有し、それが今日の天下人としての基礎となっている。その道は得たるものである。天下分け目の関ヶ原を経て、天下人となってからの彼はみだりに兵を動かすことはなく、この道を封印して、彼にとっては努力と忍耐を要する政道に精力を傾けてきた。
 いまや埒が明き、その事に老いたる道から解放されて、若い頃からの得意の道を存分に行えばよい、というので、若やいだのである。天下という重い荷物を背負って遠き道のりを歩んで来た彼が、好きの道を行えるということで、一瞬、その重荷から解放された気分になったのであろう。

 駿府にて、家康公、秀頼公逆心に相極(きま)り、籠城ならるべきの旨、聞し召し届けられ、例(いつ)も御陣の度毎に御帯なられ候御太刀取出し候へと仰せ付けられ、その太刀を御帯なられ、御年寄りなされ候て、たたみの上にて御他界あるべくと御無念に思し召し候処に、秀頼公逆心に就き、秀忠将軍様、家康様、大坂表へ御馬出され、討果さるべきの旨、御本望と仰せ出され、御太刀をがばと御ぬき成られ、床へ御飛びあがり成られ候・・・

 『慶長見聞集』にある逸話であるが、ちょっとできすぎた話のようだ。
 というのは、この時点で、秀頼逆心と極まったわけでなく、必ずしも戦争と決まったわけでもなかったからだ。

 江戸にいる将軍秀忠は、家臣土井利勝を駿府に遣わし、大坂への出馬は将軍に任せて、家康自らの出陣を諫めた。
 それに対し、家康は次のように言ったのである。

「仰せに曰く、先ず御上洛、大坂の體(てい)御覧ぜられ、指したる儀これなきに於いては、御仕置等仰せ付けられ、還御あるべし。若し又大坂に於いて堅く籠城せば、幕下に仰せられ、大坂城攻め落とさるべし。…」(『駿府記』十月八日条)


家康が軍勢を率いて駿府を発したのが、十月十一日。
 諸大名の集合を待つためか、のんびりと進軍し、大坂に至ったのがようやく十一月十七日のことである。
 同日、向井忠勝等が福島の砦を攻めて、戦端が開かれている。堅く籠城に決した様を見て、攻め落とす決断をしたのだ。
 しかし、戦う内、この天下の名城を落とすことが困難であると覚ったのか、それとも当初よりそういう方針を抱いていたのか、家康は講和の方針に切り替える。

 『駿府記』の記録である。

「十二月五日、岡山より将軍家御使為し、土井大炊助参上、申して云う。城中より御和睦の儀申上の由聞し召す。尤も大御所御下知の外これあるまじくと雖も、漸く日本諸軍勢ここに馳せ参ず。然る所、これ程の城郭、何(なぜ)攻め落とさざる乎(か)。和平後難如何。近々日限を定め、攻め入らせしめ給うべきの由言上。(大御所、すなわち家康)仰せて曰く、尤も大樹(将軍)御憤り、その理有りと雖も、小敵を見て侮るべからず云々。その上、戦わずして勝つ良将と謂う事有り、御下知に随い給うべきの旨、再三仰せ含めらる。…」

 家康は『孫子』の言葉を引用して、秀忠に和睦の方針に随うよう求めたのだ。
 ところが、十七日に、後水尾天皇が勅使を派遣し、家康の上洛を求め、和睦するよう諭した際には、諸軍に命令を下すために在陣している、と上洛を謝絶。さらに、もし調わなければ、天子の命を軽んぜしめることになるから、と和睦の勧めも謝絶している。
 その実、家康の方針は早くに和議と決まっていたのだから、朝廷の介入を嫌ったのだ。

 紆余曲折をへて交渉がまとまったのは、十二月十九日の事。
 誓紙の交換は二十二日に済んだ。

 和議の内容は、開戦以前の状態を保証。反逆の罪も不問。
 但し、家康が固執したある点を除いては。 
 それは、大野修理治長および織田有楽斎(信雄)から人質を差し出させること、そして、本丸を除いて、二の丸、三の丸を破却し、外堀を埋めることである。

 反逆したにしてはあまりに寛大な内容といえば、内容だろう。
 しかし、これは総合的に判断して、大坂城を攻め落とすことが困難と判断した家康が、戦わずして勝つために取った武略だったと見ていいだろう。
 だからこそ、講和後、有無を言わさず、一気に、外堀のみならず、全ての堀を埋めてしまった。残るは本丸のみである。これでは城は丸裸にされたも同然だ。
 誓紙には「惣堀」とあって、これは惣構えの堀の略で、外構えの堀を指すが、奉行が「惣掘」すなわち総ての堀と勘違いして埋めてしまった、という説もあるが、仮にそうであったとしても、家康側がそれを回復する動きを見せていない以上、これを活用したことは間違いない。
 家康が開戦以降、武略で動いていたことを表している。

 しかし、考えようによっては、大坂城に拠って戦うことを物理的に不可能にしてしまったわけであるから、諸浪人を統制できない秀頼に対しては寛大な処分だといえなくもない。いくら武略とは言え、和議が成った以上、これで秀頼がおとなしくしていれば、家康は手出しをしなかったはずだからである。

 一方で、大坂城に籠る諸浪人の素性は、ほとんどが関ヶ原で西軍に与して没落していた人々であった。そうである以上、失うものは何もなく、やけっぱちで戦う可能性はある。家康はそれも見越して、兵器を購入するなど、再挙に備えているが、これは武将として当たり前の判断であろう。

 ここで不思議なのは、秀頼は遣いを派して、正月二十三日には家康に贈り物を届けさせたりして、疎略なきよう努めている一方で、浪人たちは散るどころか、逆に増え続けたらしいことである。
 全ての堀を埋め立てられてしまった上、将軍上洛など、様々な風説が流れ、疑心暗鬼に陥った大坂方は、心理的に追い詰められ、備えを余儀なくされた。駿府にはその状が次々と報知され、態度を硬化せざるを得なくなる。
 これは勢いとしか言い様がないだろう。

 果して、再び大坂における戦は勃発した。
 家康は今度は豊臣家討滅の覚悟を固めたようだ。
 当時の武家の慣習、それまで関ヶ原、大坂冬の陣、と二度までも家康に弓を引いてきたこと、家康の天道思想などを思えば、無理もないだろう。
 秀頼は家康の「あだをば恩を以て報いる」態度に甘え過ぎたし、家康は何度もこれを矯正しようとした。

 戦は数日でけりがついた。
 落城後、秀頼は焼け残った蔵に隠れている所を発見された。大野修理は千姫を差し出して、助命を請うたが、井伊直孝・安藤重信は蔵に鉄砲を撃ちかけ、自害せしめた。
 五月八日のことである。
 家康は天下の安定のために、秀頼を自害に追いやったのである。

 豊臣家は滅亡した。
 終ってみて、家康は、信長の死によって俄かに勃興した豊臣家の歴史に、天道応報の理をつくづくと感じ取った。

 もう一度次の文章を引用しておこう。

「大坂陣之已後、駿府にて或時、近習衆え権現様(家康)仰せ付けられ候は、恩を得たる主人、又は主の子供などへつらく当たりたるものは、たとへ当分仕合よくて、別条なきごとくこれあり候ても、子孫に至り、その報ひは逃れざると思はるゝ。子細は織田三七郎信孝切腹の時の御辞世に、

 昔より 主を討つ身の 野間なれば むくひをまてや 羽柴筑前

と読み置かれたりとの義は、その時分より我等なども聞及び居りたる事なるに、右野間の内海にて信孝切腹と云うも、五月七日の由なり。今度大坂にて、秀頼が自殺せしは、八日なれども、豊臣家の滅亡は七日なり。何と天道報応の理、恐ろしきものにはなきかと仰せられしとぞ。」(『駿河土産』)


 時勢を考えれば、秀頼の没落は自業自得である。
 しかし、一方で、「あだをば恩を以て報ず」を信条とした家康の甘さが招いた悲劇でもあったのである。

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