西郷隆盛

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zoom RSS 徳川家康の天下取り 【一】 「天下分け目の関ヶ原」 (再掲載)

<<   作成日時 : 2018/01/23 14:47   >>

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家康は狸親父といわれ、大変な陰謀家と思われているが、必ずしもそうではない。
 確かに、彼は秀吉に六尺の弧、すなわち遺児秀頼を託されておきながら、後にこれを滅ぼした。これほど後世の印象を悪くしたことはないだろう。
 しかし、これも太平の世から、あるいは後世の価値観から見れば、そう思えるだけのことで、当時の社会状況や価値観を考えれば、むしろ非があったのは大坂方である。
 大坂方への判官びいきや戦後の価値観で見ていては見落としている問題が実に多いのだ。家康の言い分にも耳を傾ける必要があるだろう。そして、それに耳を傾けてみれば、家康がその武将としての能力のみならず、道理を重んずる姿勢で人心を収攬していったことが見えてくるはずだ。 

 
「文盲」といった家康が、自ら書物を紐解くことはなくとも、学問を好んだことは有名だ。
 それも儒教に限らず、漢籍全般、そして仏教や神道にまで及んでいる。特に帝王学の古典『貞観政要』を好み、『吾妻鏡』を好んで、武家政治の祖、頼朝を模範としていた。

家康の侍医板坂卜斎の日記『慶長年中卜斎記』によると、

家康公書籍を好せられ、南禅寺三長老・東福寺哲長老・外記局郎・水無瀬中納言・妙壽院(藤原惺窩)・学校(三要元佶)・兌長老(承兌)など、常々御咄(おはなし)成られ候故、学問御好、殊の外、文字御鍛錬と心得、不案内にて詩歌の会の儀式あると承り候。根本、詩作・歌・連歌は御嫌いにて、論語・中庸・史記・漢書・六韜・三略・貞観政要、和本は延喜式・東鏡(吾妻鏡)なり。その外色々。大明(シナ)にては、高祖(漢の劉邦)寛仁大度をお褒め、唐の太宗・魏徴をお褒め、張良・韓信、太公望・文王・武王・周公、日本にては頼朝を常々おはなし成られ候。

 とのことであった。
 唐の太宗・魏徴は『貞観政要』のいわば主役である。
 漢の高祖の寛仁大度を褒めた、というのは、彼自身若い頃から心掛けてきた『老子』の「怨をば恩を以て報いる」との精神に合致するのを見たからだろう。

 『吾妻鏡』は特に愛読書で、頼朝の政道を模範にしたのは既に紹介したとおりである。

 慶長九年六月と推定される、家康が五山僧・西笑承兌に宛てた書簡がある。
 
「昨晩は御出(おいで)、御心静かに御物語を申し承り、今に本望の至りに候。よって、『吾妻鏡』四十五の巻、御覧候はんの由仰せられ候間、取りに遣はし申し候。何分に、三十八、四十一、四十五、此の三冊は、此の方にも御座なく候。余りは御座候間、御用に候はば、借し申すべく候。何様、御目に懸り申し承るべく候。かしく。」

 この徳川家所蔵の『吾妻鏡』は、元は北条氏の所有物で、秀吉の命で小田原征伐後の和談に赴いた黒田如水に氏政父子から贈られたものであった。それがこの慶長九年三月、如水の息子・長政によって、近く征夷大将軍になる予定の秀忠に贈られたのである。家康が朝廷に奏請して、征夷大将軍職を秀忠に譲ったのは、この年の四月十六日の事であった。
 家康は翌慶長十年三月に、『吾妻鏡』を出版せしめているが、その跋文を書いたのは承兌であった。
 

 家康は駿府に隠居してから、これらの書物の印刷刊行に熱心で、しかも、それを天下のために自ら実践しようとの意欲が強く存在した。 
 晩年の彼の関心はいかに天下に太平をもたらすかという一点に絞られていたと言っても過言ではない。

 そこに至るまでの彼は、厳しい戦乱の時代に、幾たびも辛酸を嘗めされられながらも、よくそれに堪え、武家勢力の中では頂点を極めた。それを支えたのは、かの武田信玄をして、「海道一の弓取り」とまで言わしめた、その武勇にあった。
 しかし、天下を治めるにはそれだけでは十分ではない。
 それ以上のものが必要である。
 そのため晩年の彼は、形而上の学問を修めた人物を重用した。西笑承兌しかり、金地院崇伝しかり、南光坊天海しかり、神龍院梵舜しかり、林羅山しかりである。
  
 家康は、自らは地の道を行っているのだ、という明確な使命感があったようだ。『徳川実紀』に記されてい驕A彼の息子秀忠への遺訓とされている言葉は、後世の誰かが作ったものとも言われているが、彼の人生自体がまさにこの言葉を裏付けており、やはり家康の遺訓として伝えられた言葉と考えて差し支えあるまい。

 遺訓は次の通り。

 また御所(二代目征夷大将軍秀忠)には、天下の政に於いて、いささか不道あるべからず。諸国の大名共へ、大樹の政治ひが事あらば、各代わりて政柄を取るべしと遺言しぬ。
(『徳川実紀』)

 外様の諸大名には、

 …大樹の政策ひが事あらんには、各代わりて天下の事はからうべし。天下は一人の天下にあらず、天下は天下の天下なれば、吾これをうらみず。…

 と言ったという。

 一般に知られる遺訓は次の通り。

 人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。
 不自由を常と思えば不足なし、心に望み起らば困窮したるときを思い出すべし。
 堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。
 勝つことばかり知りて、負けることを知らざれば、害その身に至る。
 己を責めて人を責めるな。
 及ばざるは過ぎたるより勝れり。


 ここには『論語』の思想を元に、『老子』が加味され、また自身の経験から改変を加えたらしいくだりも見える。過ぎたるは猶及ばざるが如し、が孔子の言葉だが、家康は、いや、及ばないほうがむしろ優れている、とさえいうのだ。
 この、人生経験に裏付けられた言葉を彼が語ったとき、その脳裏には、彼から見て過ぎたるように見えた信長や秀吉の姿が浮んでいなかっただろうか。
 彼らに比べれば地味で、手痛い敗北も経験してきた彼が、地道に事業を成し遂げ、今まさに幕を閉じようとしている自らの人生に対する自負のようなものが窺えないだろうか。
 いずれにしても、これらの言葉は彼が消化した思想であることは間違いないだろう。 
 そして、ここにも、織田信長が安土城天主に描いた天下観は生きているのである。

 
 話を秀吉がこの世を去ったころまで戻すことにしよう。
 家康は本能寺の変後数年の秀吉の主家の凌ぐ行為を、その形跡から非道とみなしたが、秀吉の死後、今度は自分が似たような状況に置かれた。自分は政権の正統な継承者ではないが、周りを見回せば、彼自身の天道観から見て、天下を経営する能力・資格を備えているのは自分しかいない、という状況である。
 自ら「てんか」と称した天下人・秀吉の遺児秀頼が豊臣家を継ぐのはもっともである。しかし、天下は豊臣家の私物ではない。天下を継ぐにはそれ以上の資質が必要である。
 未だ幼子の秀頼にそのような資格があろうはずもない。
 現に、秀吉の死で求心力を失った豊臣政権は、急速に政情不安に陥っていった。いわゆる文治派と武断派の対立である。彼らは党派を組んで、抗争に及ぼうとしている。その対立の中心となったのが、太閤恩顧の大名達であった。
 秀吉によってとりあえず成った天下一統は、再び戦乱の兆しを見せている。これを支え、秀吉の代わりに求心力となって行ったのが、政権の重鎮、家康と前田利家の存在であった。しかし、前田利家は対立が激化する中でこの世を去る。
 自然、家康に人望が集まることになるが、同時に、彼に対する猜疑、反発も高まった。
 そんな中、家康暗殺計画が発覚し、これを梃子に、家康は、父の死により前田家を継いだばかりの利長を屈服させる。
 ところが今度は、奥州の上杉景勝が割拠の勢いを示す。
 家康は景勝の上洛、釈明を求めるが拒否されたため、豊臣政権の重鎮、筆頭家老として、征伐の軍を発する。
 その隙を見て大坂で兵を挙げたのが、石田三成であった。これに毛利輝元、宇喜田秀家らが加担し、天下分け目の関ヶ原の一戦となる。
 周知の通り、軍配は家康率いる東軍に上がった。
 この間の家康の行動はどこまでが作為で、どこまでが不作為か判然としない。

 徳富蘇峰は関ヶ原の役における家康について次のように評している。

「固より史眼炬の如き者は、其の大活劇を仕組むに就ては、彼の胸奥の権変・巧詐、頗る驚く可く、恐る可きものを認むるを禁じ能はぬが、然も彼を法廷に引き出して、審判するに際しては、一個半個の弁護士を用ふる迄もなく、彼の仕事それ自身が、彼をして無罪放免せしむる余りある。そは其の仕事が、如何にも尋常一様の径路を辿りて発展したからだ。言ひ換ふれば、縦令事実其の物は不自然であるとするも、実際は作為に出で来りたりとするも、其の発露したる上から見れば、如何にも自然らしく見ゆるからである。乃ち関原役における家康の所作は、人巧尽きて天巧至るの妙域に達してゐる観がある。」


 私はこの蘇峰の評に、半分は同意し、半分は違和感を感じるのであるが、それは彼の家康観が、腹黒き大策士であり、用心深き政治家であり、堅実無比の大将というものであったからだ。私はこの内、特に腹黒き大策士という評は、家康をマキャベリストとして買いかぶりすぎだと思う。
 しかし、レトリックとしてでなく、本来の意義において、関ヶ原の役における彼の所作が「人巧尽きて天巧至るの妙域に達してゐる」というなら、的を得た評だと思われる。
 というのは、家康は天下人として、彼なりの天道に則って行動しようと心掛けていたように思われるからだ。それは関ヶ原以降の豊臣家に対する態度がこれを証している。

 豊臣政権の崩壊は、家康が仕掛けたというよりも、むしろ自壊現象であり、天運というべきものであった。事実、後に家康は豊臣家の滅亡を、天道報応の理、恐るべし、と表現している。
 太閤の死後早速抗争を始めたのは、家康ではなく、太閤恩顧の大名達であった。むろん、家康がこれらの時運、天運に乗じた面もあっただろう。
 家康から見れば、彼らに天下を云々する資格も、実力もない。
 なにしろ「てんか」と称して天下人として振舞った秀吉でさえ、家康にとっては、織田家の天下を簒奪して私物化した、天道において報いを受くべき人物であったのである。いわんや、他の大名においてをや、である。


 『駿河土産』巻五の五十二には、関ヶ原の合戦を「天下分ケ目の合戦」、大坂の陣を「秀頼成敗申付る」合戦とする家康の認識が出てくる。

 この天下分け目の合戦において、本来なら、西軍に加担したとみなされた秀頼は討伐の対象となる可能性もあった。

 『駿河土産』巻二の十七に次のような話がある。

関ケ原の砌、九月廿四日大坂表え、秀忠様御越遊ばれ候刻、大名分の面々十六頭召し連れられ候と也。大坂え御着陣遊ばれ候やいなや、城中え御使を御立、今度伏見の城にて討死を遂げ候、鳥居彦右衛門尉元忠・松平主殿頭家忠・同五左衛門三人者共の頚を当地え実検致され候と有る上、其一乱の儀、秀頼企てと有るに紛れこれなく候に付き、御攻め殺し遊ばるべしとの御口上にて、城中大きに驚く。秀頼の母義・淀殿御請申上られ候は、秀頼未だ幼年のことにも御座候へば、一乱企て候義は申すに及ばず、頚実検の義も毛利輝元其外奉行共の仕業にて候、秀頼の存たる義にはこれなき旨段々御詫云の趣、秀忠様より京都え仰せ越され候処に、権現様御聞□遊ばれ、秀頼の義は御赦免あられ、向後の義は、御蔵米七拾万石づつ行れ候旨仰せ出され候と也。夫迠の義は諸家の旗をも張立て、一戦の支度のこれあり候處に、右の通り、秀頼安堵の儀を仰せ出され候以後、諸手共に持旗等を治め、休息仕候と也。

 しかも、このような寛大な処分には家康の意思が強く働いていたらしい。

 徳川家の家臣・戸田一西(かずあき)の覚書に次のようにある。


「其後、太閤取立の大名衆より、浅野弾正を以て申上候るゝは、此節、秀頼公を御方えも移し参らせられ、内府公(家康)大坂に御座なされ、天下の御仕置(おしおき)仰せ付けらるべきかと云々。内府公御返答に、今度、治部少(石田三成)、我を亡し、己天下に我意を振廻(ふりまわさ)んとの心根にて、謀叛を企つる也。此上は彌(いよいよ)秀頼公の御後見をなさるべしと思召さる。然ば、江戸中納言(秀忠)娘を秀頼公え参らすべきと思召候。如何様存られ候哉と御意なり。太閤取立の大名衆、是を承り、感涙を流し、この上は内府公を古太閤同然に存じ奉るべき旨申上、限りなく悦び申され候。」(『戸田左門覚書』)

 太閤取立ての大名衆でさえ、秀頼をよそへ移して(「御方え」とは江戸へ、ということだろう)、家康が大坂城に入って天下の仕置きを行ってはどうか、と勧めたことでもわかる。

 西軍は秀頼を担いで、東軍と対峙したわけだから、いくら幼年とは言え、その政治的責任は決して軽くはない。首実検を行ったということは豊臣家という姓の公家ではなく、武家として振舞ったということになるからだ。これは明確な敵対行為であり、武家の習いとしては、仇なす行為である。処刑されても文句は言えない。
 家康は天下分け目の大合戦勝利の勢いで、そのようにすることも可能だったわけだ。家康が好んだ歴史上の人物で言えば、湯武放伐論で有名な武王などはそうしたであろう。異朝の例に倣えば、これは天命である、との啖呵をきることも可能だったのだ。
 しかし、家康は情状を酌量した上でそのような方法を取らなかった。
 そこに家康の天下人としての個性がある。
 彼は太閤の遺志を守り、秀頼を孫婿として迎え、親族中の長者として後見する方法を取ったのである。ここにも、彼が若い頃から心掛けてきたという「あだをば恩を以て報ずる」との『老子』の言葉は生きているといえよう。

 これが当時にあっていかに道理に基づき、恩を以て報ずる行為であったかは次の二つの事例との比較を通じて明らかになるだろう。

 一つは、西軍の大将として大坂城に居座った毛利輝元に対する態度である。
 彼は毛利氏には当初の約束を反故にして過酷な処分で臨んだとされているがとんでもない誤解である。欺き続けたのはむしろ輝元の方であった。
 そもそも最初に、太閤の死後に取り交わされた誓約書を破って、毛利家の外交顧問的存在であった安国寺恵瓊にそそのかされ、石田に担ぎ上げられて、敵対したのは輝元であった。しかし、東軍と通じていた分家の吉川広家のとりなしによって、輝元に悪意はない旨通じたため、家康もこれを了承した。これは関ヶ原で両軍が激突する一月ほど前の話だ。合戦の前日、家康は今後忠節を尽すなら領地はそのまま保証するとの言質を与えている。輝元はこれを信じて、大坂城を退去した。
 これが難攻不落の大坂城を退去せしめて、ここを占拠した後、厳罰に処する家康の奸謀だったというのだが、毛利氏の言い分は虫が良すぎるというべきだろう。
 家康が大坂城に入ったころから、毛利側の様々な偽りが判明していくのである。家康が大坂城に入ったのが九月二十七日。九月晦日には、現状維持のはずが、輝元助命嘆願が受け入れられて喜ばしい、という話になっている(吉川広家宛黒田長政・福島正則書簡)。
 この間に重大な処分変更があったのだ。
 先に紹介した『駿河土産』の逸話にあるように、伏見城を守って討ち取られた徳川家臣三名の首実検が行われたことが判明し、当初は秀頼の企ての証拠とされたが、淀君の弁解により、輝元他奉行衆の仕業であることが判明した、ということもあっただろう。
 さらに、十月二日付で、黒田長政は吉川に

「輝元身上の儀、羽左大(福島正則)申す談、涯分候へれども、奉行共御一味候て、西丸御移り、諸方同通の廻状(の)数々、中納言殿(輝元)御判たしかに候上、猶また四国へ人数差し渡され候儀到来。かたがた以て是非に及ばざる儀共に候」

と書き送っている。
 つまり、西軍の文書には輝元のハンコがしかと押されてある上、四国へ毛利の兵を差し向け東軍方を攻撃したことが判明した以上、申しひらきようがない。だから、助命嘆願が受け入れられただけでも喜ばしい、ということだったのだ。
 家康は終始、道理に基づいて行動している。彼は毛利の莫大な所領を取り上げ、忠義心を認めた吉川にはその内の二国を与える意向を示した。ところが吉川は本家にそれを与えるよう嘆願したため、輝元・秀就の命を助け、さらに周防・長門の二国を与える事となったのである(十月十日)。

 輝元は坊ちゃんで、善人ではあったかもしれないが、お人好しで悪意がないだけに始末が悪い。自ら事を大きくしたとの意識がない。石田の甘言に釣られて、西軍大将に担ぎ上げられたあげく、下手をすれば天下の大乱になるところであった。しかし、毛利家は江戸時代の二百五十年間、徳川家を敵視し続けたのである。これは逆恨みといってよい。そもそも家康は輝元を弟のように思い、毛利家に悪意など持っていなかったのだ。それを裏切ったのはあくまでも御人好しの輝元である。大人と子供間に対等な信頼関係を築くことは土台無理な話なのであろう。
 この毛利処分に関して、家康の腹黒い策謀と見る論を彼自身があの世で聞けばやはり「世上にて判官贔屓とて、うばかか(姥嬶)共の寄合て茶のみ雑談にする事にて、一向用に立ぬ批判」と反論したことであろう。今で言う、床屋談義、居酒屋談義というやつだ。

 輝元の例が長くなったが、う一つの例である。
 家康は嫡男・秀康を、宿敵である武田家に通じ、謀反を企てたという疑惑で、信長に殺害を命じられ、これを殺さざるを得なかった深刻な経験を持っている。家康は信長の掲げる天下一統の大義のために、涙を呑んでこれに従った。それに比べれば、輝元や秀頼の処分などは寛大以外の何物でもなかっただろう。これを寛大と取るか、過酷と取るかは、過酷な戦国を生き抜いた世代と、彼らが築き上げた遺産を受け継いだ第二世代との間に生じる違いといっていいだろう。

 このことが大坂の陣への伏線となっていくのである。 
 
 再三言うように、天下は天下の天下であって、豊臣家の私物ではない。
 石田三成を中心とするアンチ家康勢力は太閤亡き後、ほしいままに振舞っているかに見えた家康に腹黒き野心を見たが、これは太閤の権威によっかかって権勢を行使してきた自己の発想を反映したものというべきであって、家康からすれば、そもそも天下は豊臣家の物ではないのである。
 だからこそ、家康は天下を豊臣家の物として、そこへの忠義を求める石田三成の挙兵を、「我を亡し、己天下に我意を振廻(ふりまわさ)んとの心根にて、謀叛を企つる也」と断定したわけで、これは彼の偽りなき敵方への認識だったであろう。

 幼い秀頼に家康に対する敵意などあろうはずもない。
 しかし、今後、第二の石田三成が現れて、これを担ぎ上げないとも限らない。だからこそ、太閤取立ての大名達は秀頼を大坂城と切り離すことを提案した。
ところが家康は太閤の遺志を尊重し、婚姻関係を結んで絆を深め、これを後見していく決断をした。

 この時、家康の脳裏には、織田信長の嫡孫秀信のことがあったのではないか。
 「本能寺の変」直後の清洲会議で、織田家の家督を継ぐべきと秀吉が推戴した三法師(秀信)は、本来なら、再建される予定だった安土城に移る予定だったが、勝家と組んで家督相続を狙っていた三男・信孝に岐阜城に止め置かれた。秀吉はこの信孝を攻めほろぼした。次いで、信孝と対立していた次男・信雄が後見代行者となるが、今度は彼が家康と組んで秀吉と対決(小牧長久手の戦い)するなど混乱は続き、安土城が再建されなかった為、秀信は織田家重臣の丹羽長秀の坂本城に預けられた。これが天正十二年のことである。
 成人して天正二十年には、秀吉の計らいで、信長・信忠の居城であった岐阜城を与えられ、美濃岐阜十三万石の領主となった。
 その秀信は、この関ヶ原の戦において、秀頼を担いでいる西軍に属し、敵ながら青年武将として立派な戦いを演じてみせたのである。単なる恩賞目当てなら、ここまで戦うことはなかっただろう。秀吉への恩義に無垢に報いようとしたものと思われる。
 戦後処分において、秀信は助命処分となり、高野山へ追放された。

 家康は、秀吉の織田秀信への態度以上に温情的な態度を取って、秀頼を父の居城である大坂城に置いて、後見し、恩義に報いることを知る、立派な青年武将に成長してもらおう、との期待を抱いていたのではなかっただろうか。
 これはこれ以降の家康の言動にも表れている。
 むしろ、この好意を解せず、粗略に扱ったのが、厳しい現実からの逃避か、太閤の難波の夢にまどろんで、愛児から眼を離せない世間知らずの母・淀君だったのである。

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