西郷隆盛

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zoom RSS 翁に従いて、犬を駆り、兎を追い… 【西郷南洲翁遺訓解説】 第四十条

<<   作成日時 : 2017/08/04 17:05   >>

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翁に従いて、犬を駆り、兎を追い、山谷を跋渉して終日猟り暮らし、一田家に投宿し、浴終わりて、心神いと爽快に見えさせ給い、悠然として申されけるは、君子の心は常にかくの如くにこそ有らんと思うなり。

(大意)翁に付き従って、犬を走らせ、兎を追って、山谷を渡り歩いて、一日中狩猟をして暮らし、一農家に宿り、入浴を終え、心神極めて爽快になられたようで、悠然として申された。君子の心は常にこのようなものであろうと思う、と。

【解説】「君子」については第六条の解説を参照されたいが、本条は、翁が常々君子たらんと心がけていたことを表している。

 征韓論破裂して帰郷してからの翁は、湯治を兼ねて、旧薩摩藩の領内の山谷を狩猟しながら過ごすことが多かった。これにはいくつかの理由があったと思われるが、理屈抜きで単純に、天地自然と一体化した、そういった自由な生活が好きだった、ということも大きかっただろう。ここでは晴猟雨読の生活を楽しんだものと思われる。
 
 日薩隅という島津家の旧支配地は、わが国の古神話の聖地でもある。その山谷を跋渉すれば至る処に古神話に由緒を持つ遺跡が存在することに気づかされるだろう。
 鹿児島市街の東北方向、すなわち鬼門には霧島連峰がある。とりわけ、高千穂峯は天孫降臨の聖地として知られている。その麓にある霧島神宮は島津家とのつながりも深い神社で、天孫瓊瓊杵尊を主祭神として祀っている。翁がよく投宿した日当山温泉はこの霧島と鹿児島の中間点付近にあり、近くの鹿児島神宮は古くは彦火火出見尊を祀っていたが、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后も祀って、国分八幡と呼ばれた神社である。この国分八幡参りは郷中の年中行事の一つであり、後に私学校の年中行事にもなっているから、薩摩隼人にとっては非常に重要な存在であったことになる。現在の宮の東北三町ほどのところにある石体宮は彦火火出見尊の宮殿跡と伝えられる場所で、ここに社を創建したのが神武天皇であったとの言い伝えがあるそうだ。彼ら薩摩人にとって、日本の古神話の神々は非常に身近な存在であったことがわかるだろう。
 
 後に私学校が決起した時、出発の朝、鹿児島は五十年に一度とも言われる大雪に見舞われるが、県民はこの大雪を、神々が政府の奸計を防ぐために降らせてくれたものと受け止めていたと、当時鹿児島に滞在していたイギリス人アーネスト・サトーは書き残している。もちろん神々とは領内に祀られている神々ということで、皇祖神を中心とする古神話の神々ということだろう。
 翁らは薩長盟約締結の仲人役を務め、負傷した坂本龍馬を鹿児島旅行に誘い、これら古神話とゆかりの深い土地の旅行をプレゼントしたが、これは彼ら薩摩隼人の勤皇の源泉を同志として認めた龍馬と共有したかったからだろう。吉井幸輔が案内人として同行した。


 翁はそういった脱俗の境地で英気を養い、いざ政事という俗の世界に戻った時の超俗の気魂、「浩然の気」を培養したのであろう。

 『論語』で孔子は「君子」について次のように述べている。

「君子、仁を去りて悪(いず)くにか名を成さん。君子は食を終うるの間も仁に違うことなし。造次(ぞうじ)にも必ずここにおいてし、顛沛(てんぱい)にも必ずここにおいてす。」
 
 「造次顛沛」とは危急の時との意味。
 要は、君子はどんな時でも「仁」を失わない、ということだが、「仁」とは「人」を愛することで見えてくる、その「人」あるいは複数の「人々」に対する認識を含む。「仁とは人なり」と言ったのは『孟子』だが、その「人」とはある特定の個人から社会的存在としての「人々」まで認識を押し広げていったとき、その「人」あるいは「人々」が、あるいは人間の社会というものが歴史的に形成される、いわば歴史的存在である以上は、その歴史認識を土台にしてしか、真の認識には到達し得ないもののはずである。イデオロギーを優先し、古いものをなんでも悪となし、歴史や伝統を否定する指向を持つ左翼思想が皮相な人間認識に留まり、大衆への世論洗脳工作に頼らざるを得ないのも、こういったところに根本要因があるといえる。

 司馬遼太郎が言う所では、薩摩人は古来日本人の原型と考えられてきたし、当の本人らもそのように考えてきたということだが、これは薩摩藩の保守的な風土に加えて、古神話との精神的なつながりや親近感が強かったということにあったのではないか。それほど、この土地には古神話とのつながりを想起させるものにあふれているのである。
 
 明治維新は、初代神武天皇の創業の規模に則る、ということが高らかに謳われたが、神武天皇の東征は日向の健児を率いて成された。その末裔であるとの矜持を持つ薩摩隼人にとって、王政復古は彼らによって成されるべきものと考えられたのではなかっただろうか。

 翁の晴猟雨読の生活を窺うことが出来るこの条を穿ってみると、そんな深い意義が垣間見える。
犬を連れた上野公園の銅像を思い浮かべながら玩読していただきたい条だが、政府にいた明治六年頃、肥満で胸痛を発してから、ドイツ人医師の助言に従い、健康に気を遣うようになっていたから、当時の翁はおそらく、あの像のようには肥満していなかっただろう。

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