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zoom RSS 平日道を踏まざる人は事に臨みて… 【西郷南洲翁遺訓解説】 第三十三条

<<   作成日時 : 2017/06/16 17:08   >>

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平日道を踏まざる人は、事に臨みて狼狽し、処分の出来ぬものなり。譬えば、近隣に出火あらんに、平生処分ある者は動揺せずして、取仕末(とりしまつ)も能く出来るなり。平日処分なき者は、ただ狼狽して、なかなか取仕末どころにはこれなきぞ。それも同じにて、平生道を踏み居る者にあらざれば、事に臨みて策は出来ぬものなり。予、先年出陣の日、兵士に向かい、我が備えの整不整を、ただ味方の眼を以て見ず、敵の心に成りて一つ衝いて見よ、それは第一の備えぞと申せしとぞ。


(大意)平常から独りを慎んで道を踏み行なうことが出来ていない人は、非常の事態に臨んで狼狽してしまい、落ち着いて適正な分別・判断に基づく処置ができないものである。たとえば近隣で火事があった場合など、平生から道を踏み行なっているものは、適正な分別を行う修練が出来ているから、動揺せず、素早く対応することでき、しかも誤ることが少ない。平常から道を踏み行なってこなかった人はいざという時に動揺してこれが出来ない。それと同じで、平常から道を踏んでいるものでなければ、事に臨んで、対策を立て、これを施すことが出来ない。
 自分は、戊辰の役の出陣の際、兵士に向かい、わが軍の備えが整っているところと整っていないところを、味方の眼で見るのみならず、敵の眼で見て、これを一つ衝いて見ろ、それが第一の備えとなると申した、とのことである。


【解説】江戸時代の法規の内、武家を規定した武家諸法度(元和令)の第一条は次のようになっている。

「一、文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事。
  文を左にし、武を右にするは、古の法也。兼備せざるべからず、弓馬は是れ武家の要枢也。兵を号して凶器となす、已むを得ずして之を用ふ。治に乱を忘れず、何ぞ修錬を励まざらんや。」

 文武両道が江戸時代の武家の在り方であり、四書を好んだ徳川家康が朱子学に基づいて、武家の「中(中庸)」にして「理」を定めたのが、この元和令だと筆者は考えている。
 武術・兵法の鍛錬は武家の枢要だが、武力は是非を問うた上で、いよいよ是非の及ばぬ事態になって初めて発動されるべきものであり、その是非の分別の力は文の修練、すなわち学問によって培われる。
 
 家康の侍医の日記によれば、家康公は書籍を好み、当時の一流の学者たちと懇談を重ね、詩作・歌・連歌などは嫌いで、「論語」「中庸」「史記」「漢書」「六韜」「三略」「貞観政要」、和本は「延喜式」「東鏡(吾妻鏡)」その他いろいろな書籍を学んだという。人物に関しては、シナにおいては、漢の高祖の寛仁大度に幕僚の張良・韓信、唐の太宗・魏徴、古代周王朝の太公望・文王・武王・周公、日本においては頼朝の話をよくしていたという。

 「元和令」で「文武」と「弓馬」が区別されているように、ここに言う「武」とは武の鍛錬というよりも、武の発動の在り方という意味合いで、周の武王の征伐の発動の道に学ぶという事である。もちろん、「文」はもちろん、武王の父文王の事跡に学ぶという事である。結局は儒教であり、その学問の伝統という事になろう。
 家康自身が非常に温故知新の態度で歴史や学問から多くを学び、修練して、天下の統治に生かしたわけで、その成果は二百五十年の太平という恩恵となってわが国にもたらされた。学問の伝統とは、その恩恵の中で、洗練と深化を遂げた学問の伝統の事である。
 翁もまたその伝統の内にあって、文武両道の修練に勤しんでこれを幕末の混乱収拾に生かそうとしたのである。翁は文武の道との相性の良い、「戦わずして勝つ」を最上の策とする兵法『孫子』を重んじていた。

 『孫子』の名言「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」は「元和令」の「治に乱を忘れず」に直結するだろう。平和とは「乱」なく、よく「治」まっていることだが、それは本質的な敵国に「百戦して殆うから」ぬ備えあって、また「戦わずして勝つ」政戦略相成って、初めて長期的に保障されるものである。
 「彼を知る」ことで敵に備え、「己を知る」ことでわれを治めるのである。これらは表裏一体をなして、現状を保全する。

 さて、翁は戊辰戦役出陣の際、薩摩の兵に、わが軍の備えの整不整を敵の眼で見て一つ衝いて見よ。それが第一の備えとなると言ったわけだが、これは「彼を知り、己を知る」の態度の応用と言えるだろう。情勢が千変万化する戦場では不測の事態、想定外の事件を排除することは出来ない。万全の備えをしたと言っても百パーセント完璧な備えというものは可能ではなく、敵の立場を弁え、己の弱点を認識しておくことで、初めて狼狽せず、対処が可能になる。場合によってはそこを衝かれたときに、いち早く退避し、損害を最小限に食い止めることも可能だ。

 現代日本人が最も不得手とする思考法がこれであろう。
 筆者はかつて山本七平が『比較文化論の試み』で紹介していた恩師の塚本虎二の談話「日本人の親切」を思い出す。山本によれば、塚本は日本の聖書学、新約ギリシャ語学、ヘブライ語学などの基礎を立てた碩学で、身近なところでは岩波文庫版『新約聖書「福音書」』の訳者である。

 話はこうだ。
 塚本が若いころ下宿していた家のご老人は非常に親切で、ある冬の事、あまりに寒かろうと、飼っていたヒヨコにお湯を飲ませ、皆死なせてしまったことがあったそうだ。塚本は「君、笑ってはいけない。これが日本人の親切だ」と言ったという。まさにひとりよがりであり、山本はもっと悲劇的な例として、保育器の赤ちゃんが寒かろうということでカイロを入れて殺してしまい裁判になったという新聞記事を挙げている。
 これらは極端な例だろうが、身近な人間関係の中で些細なことであっても思い当たることはたくさんあるだろう。
 多くの日本人が感情移入しすぎて物事を間違える。情に棹させば流される、と御札の顔になっている文豪が言っているにもかかわらずだ。

 先頃、日本学術会議が大学などの研究機関における軍事研究を禁止する過去の声明を継承するとの声明を採択したが、これは五十年ぶりの事だそうだ。日本学術会議は昭和二十三年の創立で、内閣府の特別機関だという。
 占領期に創設された機関であるから、当然G.H.Q.の肝いりだろう。
 彼らの統制の及ぶ範囲の学者が「知識人」ならぬ「痴識人」の群れとなるわけだから、国民的な大きな反発がないことに暗然としてくる。
 アメリカ政府のみならず、中国共産党、朝鮮半島の両政権共にほくそ笑んでいることだろう。もちろん彼らの長年にわたる工作の成果として、だ。彼らを御主人さまとでも心得ていそうな朝日・毎日・NHKなどの反日マスメディアももろ手を挙げて賛同しているのだろう。 

 日本は「戦わずして敗れる」道をひた走っているのではあるまいか。中国や北朝鮮の核の脅威にアメリカの核の傘で対抗してきて、今や核の傘が有効とは言えなくなってきている状況で、核アレルギー、軍事アレルギーを克服しなければならないにもかかわらず、学術の進展を妨げるような、このような不自由な声明を出すとは。
 彼を知り、己を知る上で、経済のみならず、軍事も欠かすことのできない重要な要素のはずだ。

 戦前の日本人は同じ東アジアの隣人として、朝鮮人やシナ人に感情移入して失敗した。日露戦争に薄氷を踏む様な勝利をおさめ、財政的に疲弊状態にもかかわらず、朝鮮半島に国家予算一年分以上を投資して、半島の近代化を図った。そして清朝が倒れ、軍閥相争い、馬賊匪賊跋扈する内乱状態のシナに対し感情移入し、シナ人民のために学校を建てて教育を与え、食糧を与え、インフラを整備した。
 
 これは戦中福建州に駐屯したことがある『アンパンマン』の原作者やなせたかし氏も証言したことだ。
 東京高等工芸学校卒業の翌年の1940年に召集されたやなせ氏は自身の戦争体験を次のように語っている。

「まもなく戦争が始まり、43年の春、行き先も知らないまま門司を出港しました。上陸したのは台湾の対岸、中国の福州。戦争しているとは思えないほど静かなところでしたね。米軍が台湾を通り越して沖縄に上陸したので、本格的な戦闘のないまま、上海近くの農村で終戦を迎えました。
 ぼくらは軍閥の悪政に苦しむ中国の民衆を助けなくちゃいけないと思って行ったのに、戦争が終わると『悪鬼のような日本軍』と石を投げられた。うちの部隊は学校を作って子どもに勉強を教えたり、食べ物をあげたりして、何も悪いことはしなかったのにね。」

 これは彼のいた部隊だけでなく日本軍全体が経験したことだ。やなせ氏の所属部隊が配置された福州が、砲声の聞こえぬほど静かだったのは、先輩達がこの地域から人民を搾取し苦しめていた軍閥を実力で排除した後だったからだ。
 だから当然、後続部隊は、手を汚さずに、学校を作って、子供たちに教えたり、食べ物を与えたりすることが出来た。日本軍の占領地域は治安が安定していて、支那の民衆は日の丸を振ってこれを歓迎したのである。
 首都として占領した南京も同様で、占領後南京の人口がかわらないどころか、にわかに増えているのは、いわゆる南京事件などなかったことの証拠である。国際委員会は難民に食糧を供与する必要性から人口の推移を把握する必要性があり、それが一級史料として残されているのである。それによると日本軍占領時20万だった人口は2月後には25万人となっている。安全が確保されたからこそ、戦場から避難していた人々が戻ってきたのだ。さらに多くの証言はむしろ南京市民を虐殺していたのが国民党軍の兵隊であったことを明かにしている。これは内乱期のシナ全般に言えることで、満州の支配者馬賊出身の張作霖などは百年先の税まで人民から搾取していたというではないか。

 やなせ氏はその経験から、誰から見ても正しいことは飢えた人を助けることだ、との結論に至って、「アンパンマン」というヒーローを創作したのである。 
 しかし、「アンパンマン」の福々しい丸い顔は「日の丸」を連想せずにはおかない。自らを犠牲にして、顔の一部を食べられたアンパンマンは戦後の日本国家のようだ。甘い善意につけこまれ、甘い餡子を食い散らかされる日本。バイキンマンやカビルンルンはどんどん肥え太っていった。しかし、そのアンパンマンでさえ、最後はアンパンチという暴力で敵をやっつけることに象徴的に表わされているように、子ども漫画の世界でさえ、平和を守るために武力の適正な行使は必要不可欠である。ましてや核兵器に代表される残虐な大量破壊兵器、すなわち凶器そのものを持つ敵を持つにおいてや、だ。

 戦前も感情移入しすぎて失敗したが、戦後はシナ及び朝鮮人にその裏返しの感情移入をし過ぎて失敗した。相手の言うままに、戦前日本人は悪いことをしたと信じ込まされ、贖罪意識から物や金を援助し、どうしようもない反日国家を日米合作で育て上げてしまったのだ。その大きなツケを払わされようとしているのが現在の東アジア情勢と言ってよい。

 軍事専門家のシュミレーションによれば二三年中に朝鮮半島で戦争が起きる可能性は60%だというし、この前哨戦の後には、北朝鮮の背後にいる中国の日本侵略の脅威が待ち構えているが、その間にも、彼らは「戦わずして勝つ」べく、工作を進めていることはメディアの報道を見ているとひしひしと伝わってくる。
昨日成立した共謀罪に最後まで反対した七人およびその支持者たちはその手先である。そもそも共産主義は暴力革命論であり、テロを肯定しているから潜在的テロリストである。だから共謀罪成立を阻止したかったのだ。今上陛下の譲位問題に絡んで、女系宮家創設―女性天皇誕生―女系天皇誕生、すなわち男系皇統断絶をもくろむ連中も同じ穴の狢であるから注意が必要だ。

 先に例を挙げたように、日本人の親切心は長所である一方で、短所でもある。それは昔からであって、小さな親切大きなお世話、という諺はそれを戒める意識が社会常識としてあったことを示している。よき伝統とそれが悪しき慣習となる事を防ぐ戒め。健全な社会にはその双方が備わっているものだ。
 小さな親切でいい人ぶるのはもうやめようではないか。
 我々は彼を知り、己を知って、戦わずして勝たなければならない。それが成功している状態こそが平和の基である。そうして初めて、政財界やマスメディアが発する偽善的な言論、その実、利害計算に富んだ、国益を害し、日本文明・國體・伝統を傷つけるような言論を見破れるのである。

 その上で、わが国の整不整をわが身のみならず、彼の眼で見て論じてみよう。そうすれば、いかにわが国の備えが欠陥だらけか認識できるだろう。そして、それらの欠陥がわれわれの同盟国であるアメリカの占領政策に由来し、現憲法がその根源となっていることも認識できるはずだ。
 
 われわれは政官財学の指導者に改めて、家康が400年の昔に武士に定めた次の事の知的修練を求めなければなるまい。求める以上、それを支える国民の側もその知的修練に勉めなければなるまいが。

「一、文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事。
  文を左にし、武を右にするは、古の法也。兼備せざるべからず、弓馬は是れ武家の要枢也。兵を号して凶器となす、已むを得ずして之を用ふ。治に乱を忘れず、何ぞ修錬を励まざらんや。」

 それを前提に、当条の翁の言葉を敷衍する内容を持つ、次の文章を紹介しておこう。
 「大山君の東行を送る序」と題された漢文の読み下しであるが、宛名の大山君とは従弟で、大山弥助(のちの巌)が戊辰戦役において薩摩二番砲隊を率いて江戸に出陣する際に贈った文章である。

「…今ここに三月、君将(まさ)に吾が藩兵を以て東京に赴かんとす。嗚呼、その至重の任に処し、また至難の役に赴く。別れに臨みて豈(あに)一言の贈なかるべけんや。君苟も能くその任の重きを知りて、事その宜しきを得れば、すなわち彼の堅陣を破り、巨賊を討つ、何ぞ憂いと為すに足らんや。この役や意馬を駆し、心猿を攻むる、これその難なり。古人言あり、上策は自治にしくはなくして、浪戦を最下となす。戦わずして人の心意を誅するは上乗の勝なり。これその道、奇計異術あるにあらず、ただ誠を推すのみ。事を理(おさむ)るの難に非ず、心を理るは実に難なり。それこれを勉めよや。これ故、三軍心を合わせ、誠を同じうすれば、すなわち向かう所必ず克つ。固よりその成功なきを慮らず、これ諸(これ)を鬼神に質して疑いなきものなり。勉めざるべけんや、勉めざるべけんや。」

 この『孫子』に基づく訓戒は日清戦争では陸軍大将として第二軍司令官、日露戦争では元帥陸軍大将として陸軍総司令官を務めた大山の中に生き、成長し続けたのではなかっただろうか。
 そして、それは決して現代的意義を失ってはいまい。

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