西郷隆盛

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zoom RSS 道を志す者は偉業を貴ばぬものなり… 【西郷南洲翁遺訓解説】 第三十二条

<<   作成日時 : 2017/06/09 17:24   >>

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道を志す者は偉業を貴ばぬものなり。司馬温公は閨中にて語りし言も、人に対して言うべからざる事なしと申されたり。独りを慎むの学、推して知るべし。人の意表に出て一時の快適を好むは未熟の事なり。戒むべし。

(大意)道を志す者は偉大な事業というものを貴ばないものだ。司馬温公(北宋の儒者で、『資治通鑑』の編者)は寝室で夫人に語った言葉であっても、人に対して言えないことはない、と申された。独りを慎んで学ぶということがどういうものかこれでわかるであろう。人の意表に出て、あっと言わせて、一時の快適に浸るというのは未熟者のすることだ。自戒するがよかろう。

【解説】ここで例に挙げられている司馬光は北宋の頑固な保守政治家で、後に朱子が称賛したことで、特に朱子学を学ぶ者の間で評価が高い。翁も当時の武士の例にもれず、学問の基礎を朱子学で築いたことから、司馬光のエピソードに親しんでいたのだろう。
 
 道を志す者は、道をこつこつと歩んでいくことが大事で、偉業という結果は後からついてくるものであって、それ自体を目的とすべきではない。日頃からの行いが重要で、例えるなら、多くの人が往来する大路を歩む時はもちろんのことながら、往来の少ない小道を歩む時も、また人のいない路地裏を歩む時も、人が見ていないからと言って気を抜いて乱れず、コツコツと自分の足で歩んでいくことが大事だ。そういうことになるだろう。
 常に道を歩み、路傍で休息するときも、道脇の宿に泊まる時も、一時も道を離れず、それに反したことはしない。
 その歩んで行った結果として、天災や人災によって道が塞がれていたり、断崖絶壁で道が途絶えているところに直面することがある。それを踏み越えたときに、ここまで続いてきた道が修復修繕されるか、あるいは新たな道が開拓されるかして、結果として偉業は成されるのである。

 翁がこれを、すなわち慎独の学を日頃から実践していたことを証する証言を二つ紹介しておくことにする。

 一人は島津久光の腹心として、翁とともに幕末の薩摩藩の王政復古討幕の枢機に参画した精忠組の同志で、家老の岩下方平の史談会における証言。

「…全体あの男は細かい事は知らぬ、知らぬ事もないが頓着せぬ男で、…(中略)…諸藩から使いなどが来たり、どうしようと云って来るに、打ちやって置けば宜しい、というような事で、甚だ乱暴なるもので、寝転んで話すような事で、何か国事の事とか何とかいう事になれば、直ぐに起き上がって話しました。うっかり言い出すと改まって応答するので気の毒と思った事が度々ある。国事に係るとしゃんと坐って話しましたが、その位の事を一つ覚えて居る―それは妙でござりました、少し国事になると、―それでちょっと人となりが分かります。」

 ちょっと注を挿入しておくと、薩摩では親しい若者の間では寝転がって歓談する風習があり、下級藩士であった翁は家格の高い岩下や明治に入って早々、若くしてこの世を去った小松帯刀の前でも、そのように「お行儀悪く」振る舞ったらしい。しかし、それは岩下や小松を精忠組の同志として認め、信用していたことの証しであろう。
 上級武士としてお行儀よく躾けられた岩下にはそれが異様に映ったらしいが、明治二十六年にもなると、六十七歳の岩下の記憶の中で、西郷の思い出と言われて即座に思い出すことが上記の事だったのは滑稽なようだが、西郷という人物の個性の一面をよく表していると言えるだろう。気を許した仲間内の会合にあっても、話が国事に及べば姿勢を正した、というのである。
 これは翁の認識していた天命が国事に関することだったからだろう。

 もう一つは、岩下の証言と関連するが、王政復古から戊辰戦争の頃に翁の近くにいた薩摩藩士高島鞆之助の証言である。

「…藩主に何か申上げる時でもあると、その日は朝早く起きて斎戒沐浴し、あの洒落な人が、きちんと机の前に正座して、少しも体を崩さず、然る後静かに筆を執られたものじゃ。かように如何な場合でも礼譲という事を忘れられなかった。」

 時期的に見て、ここに言う藩主とは斉彬ではなく、島津忠義か、あるいはその父で藩父として藩政を後見した久光の事である。
 国事に関する意見具申を藩主に行う際は、身も心も清めて、つまり正して、これに取り掛かった、という点では、岩下の記憶の中の翁と一致している。
 筆者はこの証言を読むと、ある国で家臣が主君を殺すという事件が起きた際、沐浴して参朝し、自国の主君に、この非道をなした人物を討つよう進言したという、『論語』「憲問編」の一節を想起するのであるが、孔夫子を教師とせよ、と言った翁ならば、当然それに倣っていただろうと思うのである。

 高島はまた、翁の厳正な一面として次のような例も挙げている。

「またこんな事もあったじゃ。一日の事、翁は友達を訪問すると言われるので、例の如く我輩が随従して麹町の今の英国公使館のある辺へ来ると、向こうから一人の老人がやって来た。すると翁は至極叮嚀に挨拶をされたのじゃ。老人が通り過ぎてから我輩は『あれは誰です』と聞いたじゃ。すると芸州藩の家老の辻(将漕)だとの答じゃ。
 例によって我輩は無頓着さね、歩きながら辻の事について色々話しかけると、翁は我輩をハタと睨みつけて『そんなことは道で話すべき事じゃない』と言われた。かく場合によって礼譲を重んぜられる事は、到底他人には真似ができなかったよ。」

 筆者はここまで読んでやはり『論語』の一節を連想する。

「己れを克(せ)めて礼に復(かえ)りて仁を為す。一日、己れを克めて礼に復れば、天下仁に帰す。仁を為すこと己れに由る。而して人に由らんや。」

 以上の『大西郷秘史』(大正三年刊)に掲載された高島の談話は『論語』のこの語を敷衍するような内容で、次のように結ばれている。

「申すも畏れ多い話じゃが、こんな有様だったから 先帝陛下(明治天皇)の御信任もまた深かったじゃ。翁の没後、我輩が御前に伺候すると、 陛下にはよく翁の事をお話しなすっては、往時を追懐遊ばしてあの時西郷はこう言ったとか、あの時にはこうしたとか仰せ給うたものじゃ。想うに翁は誠心誠意忠勤を抽んでられたものじゃから、他の功臣よりも一入(ひとしお)深く聖意に止まったのじゃろう。」

 要は、高島は翁の英雄的側面のみならず、時処位に応じて礼譲を守る姿を目撃して、その仁に服したのである。畏れながらも、明治天皇の御心もまたそうではなかったかと忖度しながら。
 それは同じ教養を持つ幕末育ちの明治人としての観察として貴重な証言だろう。
 筆者も西南戦争に対する明治天皇の反応を調べてみて思い当たるところがある。

 その後大日本帝国憲法発布に伴って、翁の名誉が回復されると、いまだに多くの誤解があるにもかかわらず、本人の言行や多くの証言者が語るエピソードが、多くの日本人を魅了し、心服する人が後を絶たずに現在に至っていることを考えてみると、「一日、己れを克めて礼に復れば、天下仁に帰す」という抽象的な一節が具体性を持ってくるのである。

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