西郷隆盛

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zoom RSS 渡部昇一氏の業績

<<   作成日時 : 2017/06/07 16:14   >>

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 去る四月十七日、保守派知識人の重鎮として活躍された渡部昇一氏が逝去された。八十六歳であった。

渡部氏の本職は英文学者であったが、大変な読書家で、その該博な知識を駆使しての洗練されたエッセイで多くの読者を獲得した。
 また、その知性は常識的で、保守は保守でもヨーロッパ、なかんづくイギリスの保守知識人の良き伝統を身につけた、芯の強いジェントルマンであったように思われる。ユーモアとウィットに富んだ、洗練された文章を書かれたが、その本領は該博な知識とそこに張り巡らされたコモンセンスにあり、偏向に満ちた戦後の「閉ざされた言語空間」に風穴を開けた功績は計り知れないほど大きい。

 カトリックに入信しておられたようだが、神秘体験はお持ちではなかったようで、その信仰がどのようなものであったのかは面識のなかった筆者の知るところではない。

 筆者は西郷南洲翁の史伝を上梓した後、なぜか本居宣長という不思議な人物に興味がわいて、小林秀雄の『本居宣長』を読み、渡部氏がこの有名な書を取り上げた読書エッセイ「古事記・宣長・小林秀雄」(『新常識主義のすすめ』所収)を読む機会があって、これに前後する時期に書かれた渡部氏のエッセイを蒐集し、愛読するようになった。筆者と同年代の頃に氏が書かれたエッセイは面白く、それまでも氏のエッセイを読んだことはあったが、この頃になってようやく、氏のエッセイの真味を解するようになったというだろう。
 
 氏が論壇にデビューした四十代の頃のエッセイは落ち着いた文章の中にも緊張感や勢いがあって、筆者にとっては啓発的であり、後の円熟老熟期の啓蒙的な著作より、年齢的なものから来る感覚に合致するものがあるのだろう。

 氏のように生涯を通じて知的研鑽を積まれた方の業績を総合的に批評する力量など筆者にはないが、それでも氏の知力のある面での一つのピークがこの時期のエッセイには表れているような気がしてならない。

 筆者がこの時期の氏のエッセイで興味深く読んでいるのは、認識の問題であり、とくに氏のオカルティズムに関する見識は非常に啓発的であった。

 渡部氏によれば、われわれにとって奇怪な印象を持つ言葉である「オカルト」という英単語は、ラテン語の「オクレレ」の過去分詞を起源とする言葉で、本来は隠されたものを意味する言葉だという。つまり、一般の目から隠されているからオカルトで、人に心を開かないことや下心も隠された動機を持っていることであるからここに含まれることになり、日常にありふれた行為を指す言葉であった。

 宗教は神秘体験をその起源に持つからすべてオカルトである。その範囲はキリスト教のような世界的普遍主義的宗教や土俗信仰・アニミズムから淫祀邪教、カルト教団に至るまで幅広い。
 氏はその他にも、オカルティズムとして陽明学を挙げ、オカルティストとして、晩年の三島由紀夫や本居宣長を挙げ、本居宣長を深く論じた小林秀雄をオカルティズムがわかる資質の人であったとしている。
 『古事記』はオカルティズムのテキストであり、この発想から言えば、仏教神道のみならず、陽明学以外の朱子学やそれ以前の儒教もまた、合理主義的側面を持ちながら、その根底にはオカルティズムが横たわっていることになる。

 氏は一九七三・七四年に書いた「文科の時代」「オカルトについて」などのエッセイで、近代文明が曲がり角に差し掛かっていて、「オカルト」という闇をこの世から駆逐しそうな勢いであった近代文明という光が、再びたちこめはじめた闇に後退を余儀なくされていることを様々な例を挙げて考証している。その一つとして、当時悪魔祓いをテーマにした『エクソシスト』というアメリカ映画が世界的に大ヒットしたことを挙げているが、その後の社会事象や流行現象を今振り返ると思い当たることが多い。例えば『エクソシスト』の四年後に世界的流行となったSF映画『スター・ウォーズ』シリーズは超近代的な兵器が登場する宇宙戦争の話であるが、物語の骨格は、闇に飲み込まれた絶大な力を持つ主人公が新たな光を宿した息子によって、闇の世界から抜け出し、銀河を闇の支配から救うという話であった。このシリーズの生みの親であるジョージ・ルーカスとスピルバーグが組んで世界的に大ヒットした『インディ・ジョーンズ』シリーズのテーマはそのものずばり、オカルトである。

 日本でも光に満ちた高度経済成長期にありながら、折伏で世間を騒がせたカルト教団が政界に進出して、日本の支配をもくろみ、今も政権与党の位置にあるし(会長はまさに隠された存在である)、バブルの崩壊期にはオウム真理教の一連のテロ事件が社会を震撼させた。
 これらの背景にあった国際情勢として考えられるのは米ソ冷戦で、キリスト教という光と闇を抱えた近代文明であるアメリカと、内面に虚無を抱えた超近代主義である唯物論という共産主義イデオロギーを掲げたソ連を中心とする共産主義国が、世界を席巻する勢いであったが、その勢いが曲がり角に差し掛かりつつあったことと関係があるのだろう。両イデオロギーに対する幻想が失望に変わりつつある時代に氏のエッセイは書かれたことになる。
 氏が留学したのが、比較的伝統を重んじる傾向のあるイギリスやドイツであったことも、これらのイデオロギーと距離を置く上で、好都合であった。


 光(善)と闇(悪)の対立という二元対立論はいかにもキリスト教的な感じがするが、渡部氏はゲーテの言葉を次の引用している。

「暁の薄暗いうちから早く起き出して、太陽を待ち焦がれていたのに、太陽が上がってくると目が眩んでしまうような人の気持ちを私は学問において味わった。」

 自然の一部である人間は光と闇の織りなす自然の中を生きていて、光だけの中にも、闇だけの中にも、長くとどまっていることはできない。闇あっての光であり、光あっての闇である。白昼、木陰に憩う一時、日暮れに灯をともして憩う一時は人生の楽しみの一つであろう。つまり人間とは光と陰の調和のとれた運動の中でやっと長く落ち着くことが出来るという性を持って生まれているのである。

 氏は次のような優れた比喩をしている。

 ヒマワリの葉や花は日を指向するが、それが存在しうるのは日に背を向けて地中という闇を指向する根が深く張っているからである。 
 そして、人の生存にとって本質的に重要なのは、光よりむしろ闇の方でないのか、と問いかけるのである。
 
 では、われわれ現代人はこのオカルトとどのように向き合ったらよいのか。

 クリスチャンである氏はイエス・キリストの言葉「樹はその果実によって知られる」を引用し、ある樹がよい樹であるか、それとも悪い樹であるかは、その果実によって判断されるべきだとしている。
 その果実によって西洋文明をよき樹と判断した氏は、だからキリスト教に入信されたのであろう。西洋文明を担った優れた知識人を見、ハイエクやカール・シュナイダーに師事し、多くの優れた人物に出会ったことが判断の根拠となったものと思われる。
 その点、内村鑑三の弟子というプロテスタントの家に生まれ、クリスチャンであることを宿命として受け入れた山本七平とは異なる。

 「オカルトについて」というエッセイは、オカルトに向かう態度について、ゲーテの次の箴言を引用して締めくくられている。

「考える人間の最も美しい幸福は、窮め得るものを究めて、窮め得ないものを静かに崇めることである」

 これが学者・知識人としての氏の生涯を通じての態度になったものと思われるのである。

 しかし、これだけでは、窮め得ようとした第一級の知識人であったとはいえ、われわれ日本人という立場から見れば、西洋かぶれの一知識人でしかない。
 氏を、そういった西洋かぶれの知識人から一線を画した、われわれにとって特別な存在にしたのは、日本に対する愛国心であり、その矜持である。

 ここからは氏の日本人としての根について考察してみたい。

 氏は昭和五年、山形県鶴岡の生まれである。
 山形と言えば江戸時代は庄内藩だったところで、氏が学んだ小学校は藩校の致道館跡であったという。藩校の伝統は戦前でも生きていて、小学6年生の時に、素読を習ったという。素読は古くからの漢籍の学習法だ。
 最初に習ったのが楠木正成の「壁書」で、次いで「西郷南洲翁遺訓」であったという。この学習は氏の血肉になって、還暦を過ぎても、大西郷の有名な「幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し、丈夫玉砕して甎全を愧ず、一家の遺事人知るや否や、児孫の為に美田を買わず」の漢詩を暗誦できたという。

 庄内藩は佐幕勢力で、戊辰戦争を賊軍として戦った歴史を持つが、頑強な抵抗の後降伏し、本来なら屈辱的な城の明け渡しに際し、この方面の官軍が大西郷の指導下にあったこともあって、武士としての礼を尽くした寛大な処分を行ったことから、藩士たちは大変感激して、大の西郷びいきとなった。
 維新後も、遠路はるばる鹿児島を訪れ、西郷の薫陶を受けたものも多く、彼が西南の役で非業の最期を遂げた後もその熱は冷めやらず、大日本帝国憲法発布に伴って西郷の名誉が回復されたことを機に、旧藩士たちが受けた教えをまとめた『西郷南洲翁遺訓』を編纂し、これを全国に頒布した歴史を持つ。
 王政復古維新の精神が厚く沈殿した土地が庄内であり、渡部氏もその影響を強く受けたようだ。これが彼の思想の根が育った土壌という事になる。
 
 氏が高等学校時代の恩師で、「格物致知の権化」と表現した英語教師佐藤順太先生の知的生活の感化を受けて英文学を志し、キリスト教系の私立大学である上智大学に進学し、日本のエリートコースの主流とは一線を画す、独立した言論活動を行ったのも、こういった出自にその源泉があったのだろう。

 氏は戦後上智大学に進学し、二年生への進級を控えた春休みに帰郷した際、隠居して晴猟雨読のような生活を送っていた佐藤先生の元を訪れ、その示唆をきっかけに、それまで単なる「時局便乗の右翼爺い」ぐらいにしか思っていなかった戦前の大言論人・徳富蘇峰への認識を大いに改めるに至ったという。

 「真の戦闘者・徳富蘇峰」というエッセイで紹介されている昭和二十五年頃のエピソードだが、老師は氏に対し、庄内藩の官軍との目覚ましい戦いを詳細に書いた歴史書は徳富蘇峰の『近世日本国民史』くらいしかないが、その信憑性はどれくらいのものなのか、君の大学に出向されている辻先生(善之助;戦前の国史学の大家)のお考えを知りたいので一つ聞いてきてくれないか、と頼んだという。
氏は休暇を終えて大学に戻ると、さっそく辻の元を訪れた。先の問いに、辻は50%だな、と不愉快そうに即答したというが、その表向きの理由は、蘇峰は多くの助手を使い、史料編纂所の史料も使っているから、とのことであった。 

 実は戦前、辻は蘇峰の文章報国五十年祝賀会で『近世日本国民史』に対する講演を行い、この書を大絶賛したことがあった。これに対し、講演の後を受けて挨拶を行った蘇峰自身が謙遜して、辻先生が花を持たせてくださった、五割引きぐらいが相応だ、と言った経緯があったのである。 
 渡部氏が辻に質問した昭和二十五年頃の日本はまだ米軍の占領下にあり、戦前戦中に活躍した人々が公職追放令に怯えていた時代であり、自由な言論空間は奪われていた。だから、『近世日本国民史』の信憑性が50%との見解は、引用された史料については100%の信憑性ということだが、蘇峰の歴史叙述については判断を留保するという意味合いが込められていたと受け止めるべきだろう。

 このことがあってから、渡部氏は徳富蘇峰を興味を以て読むようになって、すっかり見直したという。

 また次のようなことがあった。
 大学三年の時の英詩のゼミで、指導教官から、ミルトンの『失楽園』とケンブリッジの碩学であるクイラ・クーチ教授のミルトン研究を読んでゼミでレポートするように、という課題を与えられた氏は、これらの書を精読するとともに、古本屋で手に入れたばかりの八百頁を超える蘇峰の力作『杜甫と弥耳敦(ミルトン)』を併せ読んだが、ケンブリッジの碩学が書いた本よりも、こちらの方から学ぶことが多かったという。

 徳富蘇峰は熊本県出身で、その父は横井小楠の弟子であり、維新の精神を受け継いだ、敗戦までの明治・大正・昭和を、すなわち大日本帝国を代表する教養人であり、ジャーナリストであり、歴史家であった。
 少年期にキリスト教に興味を持ち、創立したばかりの新島襄の同志社で学んだこともあり、後に内村鑑三の『代表的日本人』の出版に関わるなど、西洋文明の理解者でもあった。復古的側面を持ちながらも同時に開明的でもあるという、その教養の垂直軸の高低、水平軸の広がりを考えれば大いなる知性であったことは間違いない。
 
 これは戦前戦中を少年として過ごした渡部氏が、戦前を支えた言論、価値観歴史観を、批判精神を保ちながらも、受け継ぐきっかけとなったものだろう。蘇峰を読むようになったことは少年期という渡部氏の人間の基礎と、青年期に学んだ西洋的教養の間に生ずるギャップを埋めると同時に、これらを大きく支える知性を得る経験になったと拝察されるのである。言わば、国産のまだ育ち切っていない木に、異国産の竹を継ぐような、無理のあるバランスの悪い知性とならなかったのは、ひとえにその間を継ぐこの経験がものをいったのだろう。
 この経験が日本人としてのコモンセンスを育む上で重要なものであったと筆者はみている。 

 渡部氏が戦前の少年期の記憶を大事にしていたのは、彼の著作を読めば明らかで、戦後の手のひらを返したかのような知識人主導の歪な教育やマスメディアのこれまた歪な言論の深刻な影響を受けることがなかったのも、この少年期の経験学習と、まずはアメリカではなく、当時没落していた、伝統の色濃く残るヨーロッパに留学した経験、および戦前の日本にも一流の知識人がいて、世論に大きな影響を与えていたことを認識したことが大きかったのだと拝察される。

 氏はこれらの経験を基礎に留学先でヨーロッパの歴史と伝統の問題に深く思いを凝らした。
 肩身の狭い敗戦国からの留学生ではあったが、またカトリックに入信した氏であったが、日本人であるとの自覚を捨てたことはない。
 氏が西欧文明に見出した光で逆に日本の出来事を照射するようになったについては主に二つの経験があったようだ。

 小中学校で教えられたままに、日本を天皇を仰ぐ万邦無比の國體であると信じてきた氏は、中学三年生で敗戦を迎えたが、二十六歳頃、ドイツはミュンスター大学への留学中に、古英語のルーン文字詩を比較言語学・比較宗教学の見地から解読し、それまで解読不可能であったフランクス・カスケット(ドイツ北東部で発掘された七世紀のもので、鯨骨にルーン文字が彫られている)の右面を解読するなどの業績を上げた学者カール・シュナイダーの講義を受けた。
 講義の内容はキリスト教が入る前のゲルマン人の宗教や文字についてであった。日本で言えば、漢字が入ってくる前のこの国の宗教(古神道)や言葉について、本居宣長やその仕事を受け継いだ国学者から講義を受けるような経験である。
 シュナイダー教授の講義で氏は、古代のゲルマンやギリシャの諸部族の長の系図をたどると、途切れることなく神の系図に連なることを知り、神に連なる系図を持つ日本の天皇が古代においてはありふれたものであったことを知った。万邦無比という固定観念はこれによって相対化された。なんだ、万邦無比でもなんでもないではないか、ということだ。
 
一方で、ドイツ人学生との何気ない会話から、戦前戦後を通じて同じ天皇(昭和天皇)が在位していることが彼らにとって驚きであることを知って、認識を改めることになる。よく考えてみれば、ヨーロッパにおいてはその系図を遡って神に連なる王家など既に存在しない。そこで、あらためて、神に連なる系図を持つ天皇を戴く日本の國體が万邦無比であることを再認識したのである。
 件のドイツ人学生は「日本人は重厚な民族である」と言ったそうだが、そのことがあってから渡部氏は、ドイツ人に会えば、当時の昭和天皇は第百二十四代天皇であり、日本の國體は例えるなら、創造神ゼウスに連なるアガメムノン王の子孫が現在でもギリシャ王として国を治めているようなものだ、と自慢した。
 この自慢に対し、少しでも教養のあるドイツ人は例外なく電撃的なショックを受けている様子であったという。
 
 戦後の日本社会の表層において確認できる事象は軽薄そのものであるが、その下において重厚に物事が推移していくのは現在も看取しうるが、その根源はこれらドイツ人の直観にも認めうるのではないだろうか。

 それはさておき、続けてイギリスに留学した氏は、ここでも先の自慢を繰り返したが、やはり十分に通用したという。というのは、古いと言っても、イギリスの王家でさえ、二百数十年しか遡ることは出来ず、しかもその王朝でさえ、ドイツのハノーヴァから渡来してきた異民族王朝なのだ。
 これに対して、日本の皇室は皇紀で言えば二千六百以上を遡って神に連なることになる。文字通り桁違いなのだ。

 ということは、背負っている伝統の重みも桁違いということであり、読者によく推移を見守っていてもらいたいのは、昨今マスメディアを騒がせている今上陛下の御高齢による「退位」問題である。
 軽薄な輩は女系天皇への道を開くために、雅子皇太子妃殿下の問題を利用し、女性宮家創設などの新儀を言い立ててやまないが、それらは日本文明の重厚な根幹を覆そうとしていることになるということで、今後、これらの問題がどのように推移するかによって、敗戦によって大きく傷つけらたわが文明が本当の意味での復興を成し遂げることが出来るのか、それとも衰亡するのか、その分かれ目になるはずである。

 日本文明が敗戦とその後の占領政策により深刻な傷を受けたことを強く認識しておられた昭和天皇が、わが国の本当の復興は二百五十年はかかるだろう、と予言されたと伝えられることを想起されたい。
 桁違いの重みを背負って言うのなら、「退位」は「譲位」であるべきはずだし、重要なのは「公務」より祭祀であるし、「女性宮家」創設よりも旧宮家復活であるし、「新天皇御即位」よりもまずは皇太子殿下に摂政に就任していただくことである。皇室への忠誠心に欠ける宮内庁のリーク情報などに惑わされてはならない。


 氏の晩年の主張もこれらに則っておられたが、先の留学中のエピソードは、少年期に教育によって植え付けられた種が、一つの知性となって芽を出し、その枝葉を広く伸ばす一方で、深く広く根を張っていく様を表しているようだ。 

 氏は留学から帰国するに際して、ギリシャを経由し、パルテノン神殿の遺跡を見たが、日本に帰国してから日本の一地方でその土地の人々によって神社の祭りが盛大に行われているのを見て、古代ギリシャの神々は死んでいてパルテノン神殿は廃墟だが、日本の神々は生きているということを実感された、という趣旨のことを、出典は忘れたが、どこかで書かれていた。
 『貞永式目』に「神は人の敬いによって威を増す」とあるが、それを想起させるエピソードである。そういった日本人の伝統的な宗教感覚を再認識する体験だったように思われる。
 こうして見ていくと、氏はカトリックへ入信していたとはいえ、イザヤ・ベンダサンが言っていたような、「日本教徒キリスト派」というのが近かったのかもしれない。

 これは西洋文明の果実を見て、よい樹と判断し、そこに実際に暮らし、その文明が持つ根幹、光と闇を認識するところまで学んだが、その光で日本という文明を逆照射し、また闇に浮かび上がらせることで、むしろ、わが国こそよき樹である、と再認識されたと理解してよいのではないだろうか。
 少なくとも氏の言論がそういったベクトルを持つものであることは年々顕著になっていったように思われる。

 氏はそういった貴重な経験を経て、考える人間の最も美しい幸福、すなわち窮め得るものを究めて、窮め得ないものを静かに崇めるという、ゲーテ流の知的態度を貫かれたのだろう。

 その模範となったのが、一つは高校時代の恩師佐藤順太であり、もう一つが英国の歴史を学ぶ過程で知った、『人間本性論』の不可知論者で『英国史』で知られる英國體論の草分けであるデイヴィッド・ヒュームの生き方であったように思われる。

 それが四十代からのエッセイによる日本人に対する啓蒙的言論となっていったのだろう。少なくとも、氏はこのような言論を、英文学者ではありながら、英語圏の人間に発信していくことは、その必要性は認めながらも、積極的ではなかったようだ。
 幕末以来、英国式の議会制民主主義を理想としてきた日本の政党政治に、その歴史を本場で学んできたものとして、それを支える世論に正しい知識とそれに基づく常識を与えようと苦心してきたのが、渡部氏の業績と言えるのではないか。敗戦により歪んだ日本の言語空間において、渡部氏はそれに最もふさわしい経歴を持つ草莽の人物であったといえるだろう。

 氏の業績の中で後世に受け継いでいくべき最大のものは、戦前の日本をめぐる朝日新聞を中心とするマスメディアの意図的な偏向報道に断固立ち向かい、東京裁判史観を払拭すべく、「閉ざされた言語空間」に風穴を開け続けてきたことだろう。いわゆる「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」など、事実に基づき、事件自体を否定する論陣を張ってきた。
 そういった孤独な闘いの中で、先に紹介した大西郷の漢詩の一節「幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し、丈夫玉砕して甎全を愧ず」などは少なからず心の支えになっていたようだ。(もっとも詩の後半部については違和感があったと告白しておられる。この違和感は時勢の違いと目指す所、すなわち志の違いの一つの表れであろう。)


 氏の昭和史に対する見識は、昭和天皇の崩御、すなわち昭和という時代が終わったのを機に、『日本人から見た日本人』【昭和編】にそれまでの言論の集大成としてまとめられているが、その後、新たな史料の発掘があって初めて明らかにされた真相も多く、また、まだどこかに眠っている史料も多くあると推測され、この「昭和史」と呼ばれる分野は、新たな史料の発見とともに常に書き換えが必要な分野で、氏自身も後に出版した書籍でそれを行ってきた。
 還暦を目の前にしたときに書かれた前掲書が一つの契機となったと思われるが、そのさらにあと、七十五歳のときに書いた『昭和史―松本清張と私』の中で、「私の場合、特に老齢になってよかったと思うことは、昭和史の太い流れが、疑問の余地なく見えるようになってきたことである」と述べておられ、たゆまない知的研鑽を積んでこられたこの碩学にしてようやく見えるようになった、この「昭和史の太い流れ」と表現された歴史認識こそ、日本人が受け継いでいくべき遺業の一つであろう。 
『論語』に「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」とあるが、氏の昭和史に対する語りに、筆者はこの孔子の言葉を想起する。
 流れ行くものを見究める内に、不動の山の姿が見えるようになった氏の、鋭い論理的な文章から一般人に向けた啓蒙的な語り口への変化を表現するのにふさわしいように思える。


 以上は渡部氏の言論に対する一つの見方を示したに過ぎない。
 すべての著書を読破したわけでもなく、また古今東西、該博な知識を駆使して思考した氏であれば、他の視点からの切り口はいくらでもあり得ようが、何か理解の手がかりになるようなものが必要であり、筆者としては自分にとってのそれを明らかにしておきたかった。
 氏は日本という文明の根幹を強くし、枝葉を繁らせ、より多くの良質な果実を稔らせることを念願していたであろう。
 その志を継ぐことこそが氏の学恩に報いることになるのではないかと強く思う次第である。

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