西郷隆盛

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zoom RSS 道を行う者は、天下挙って毀るも足らざるとせず… 【西郷南洲翁遺訓解説】 第三十一条

<<   作成日時 : 2017/06/02 17:01   >>

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道を行う者は、天下挙って毀(そし)るも足らざるとせず、天下挙って誉むるも足れりとせざるは、自ら信ずるの厚きが故なり。その工夫は、韓文公が伯夷の頌を熟読して会得せよ。
 

(大意)道を行う者は天下挙って彼を非難したとしても不満を言わず、天下挙って称賛したとしても満足しない、というのは自らを信ずること篤いからである。その心の工夫は、韓文公(韓退之あるいは韓愈)の「伯夷の頌」を熟読して自分のものとせよ。


【解説】この条は前条の解説に倣えば、『孟子』の「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖も吾往かん」を彷彿とさせるものだ。
 
 翁が遠島中に読んだ形跡のある浅見絅斎『靖献遺言』から、韓退之の「伯夷の頌」を引用しておこう。

「士の特立独行(とくりつどくこう)するは、義に適(かな)えるが故のみ。人の是非するを顧みざるは、皆豪傑の士にして、道を信ずること篤くして、しかも自ら知ること明らかなる者なり。一家これを非とし、力行して、しかして惑わざる者はすくなし。一国一州、これを非とし、力行して、しかして惑わざる者に至りては、蓋し天下に一人のみ。世を挙げてこれを非とし、力行して、しかして惑わざる者の如きに至っては、すなわち千百年にすなわち一人のみ。
 伯夷のごとき者は、天地を窮め、万世に亘りて顧みざる者なり。昭乎たる日月も明らかと為すに足らず、崒乎(すうこ)たる泰山も高しと為すに足らず、巍乎(ぎこ)たる天地も容と為すに足らざるなり。
 殷の亡び、周の興るに当たりて、微子は賢なり。祭器を抱きて、しかしてこれを去れり。
 武王・周公は聖人なり、天下の賢士と天下の諸侯とを率いて、しかして往きてこれを攻めしが、未だかつてこれを非とする者あるを聞かざるなり。彼の伯夷・叔斉は、すなわち一人以て不可と為せり。殷既に滅び、天下周を宗とせしも、彼の二子は独りその粟を食らうを恥じ、餓死してしかも顧みず、これによりてしかして言えば、それあに求むることあって、しかして為さんや。道を信ずること篤くして自ら知ること明らかなる者あればなり。
 今世のいわゆる士なる者は、一凡人これを誉むればすなわち自ら以て余りありと為し、一凡人これを阻めばすなわち自ら以て足らずと為す。彼独り聖人を非として、しかして自ら是とせることかくの如し。
 それ聖人はすなわち万世の標準なり。余、故に曰く、伯夷のごとき者は特立独行、天地を窮め万世に亘りてしかも顧みざる者なり。しかりといえども、二子なかりせば、乱臣賊子迹(あと)を後世に接せん、と。」

 翁は、このような特立独行の精神を以て、本質的危機に瀕していた国家再生の大業に果敢に取り組んだのであった。そして結果的に、西南戦争という乱暴を為し、国賊・朝敵として世を終えた。それは確かに形跡から言えば、やや強引な力行であったと観察されても仕方ない面がある。
 しかし、翁はあえてそのように生き、そしてこれを生き抜いたのだ、ということを踏まえておく必要があるだろう。

 たとえば、翁には驕りの心が生じていたのだという根強い観察がある。
 これは同時代人で言えば、板垣退助や大久保利通が翁に直に接して漏らした観察だが、いわゆる征韓論破裂直後に鹿児島に帰省したばかりの翁を訪ねた土佐の軍人林有造に至っては、「先生の言、傲慢に過ぐるに似たり」と、面と向かってたしなめているほどである。
 後の時代ということになると徳富蘇峰などがその代表であろう。彼の西郷論は後世の史家や知識人に大きな影響を与えてきた。
 
 これらの観察は、翁の特立独行の精神とそれに基づく行動が、周囲にそういった印象を与えたからといっていいだろう。
 確かに人間関係に軸足を置けば、それを驕りとする観察も分からぬではない。というよりも、日本人一般の和の感覚からみれば、そういった反応を引き出すのが当然とさえ思う。現代ならKY(空気が読めない)などと言われてしまいそうである。しかし、大半の日本人がそうであるように、空気を読んでそれに順応することばかり考えていては長いものに巻かれるだけで、特立独行などできるはずがない。
 翁の言動を史実に即して緻密に追っていくと、周辺の人が漏らしたそういった観察は、むしろ英気と呼ばれるべきもので、翁に傲慢の気が生じたといった形跡はほとんど見出すことはできない。
 遺訓二十五条に「人を相手にせず、天を相手にせよ。天を相手にして、己を尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし」とあるが、ここには天と己の関係があるのみである。裏返せば、天下を相手にするなとの教戒である。
 つまり、翁の周辺の人々が感じた驕りとは、相手にされなかったことで生じた感情に基づく評価であり、翁自身は天を相手に己を尽くすことで、また身を慎んで修めることで、驕慢の気を生じることを防いでいたのである。少なくともそのように努めていたということだ。
 翁は最期まで、その哲学に殉じた。
 
 翁の言動をもし驕りというなら、下層社会の一員として生まれながら、「天、徳をわれに生ぜり、桓魋それわれを如何」(「述而」)とうそぶき、「聖と仁とのごときは、すなわちあに敢えてせんや」と謙遜しながら、「そもそもこれ(聖と仁)を為して厭わず、人をおしえて倦まずとはすなわち謂うべきのみ」と言って、天下を救おうと志願し、聖人の代行者として振舞った孔夫子でさえ、驕っていたということになるだろう。これは孟子にも言えることである。
 また吉田松陰にしても、彼は孔子と孟子を論じた『講孟余話』の中で、その冒頭に「経書を読むの第一義は聖賢に阿らぬこと要なり」として、これから論ずる孔子や孟子を絶対化するどころか、その不義を指摘してさえいる。「孔孟の教え」は、我が国の「道」という形而上的なものに到達するための階梯に過ぎないのである。こういった異国の聖人に対する知的態度は我が国の優れた知識人の伝統的態度といってよい。しかもそれは一日にして成ったものではなく、江戸時代を通じての学問的成熟がその背景にはあった。
 松陰にせよ、翁にせよ、その伝統の中にある。

 その伝統は、敗戦による米占領軍の占領政策および敗戦利得者たちによって大きく傷つけられてしまった。その傷を回復するのも、その傷口にさらに塩を擦りこむのも、われわれ次第であり、そこに日本文明の再生力が問われているのである。

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