西郷隆盛

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zoom RSS 道を行う者は固より困厄に逢うものなれば… 【西郷南洲翁遺訓解説】 第二十九条

<<   作成日時 : 2017/05/19 16:40   >>

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道を行う者は、固より困厄に逢うものなれば、如何なる艱難の地に立つとも、事の正否、身の死生などに、少しも関係せぬものなり。事には上手下手あり、物には出来る人出来ざる人あるより、自然心を動かす人もあれども、人は道を行うものゆえ、道を踏むには上下下手もなく、出来ざる人もなし。故にひたすら道を行い、道を楽しみ、もし艱難に逢うてこれを凌がんとならば、いよいよ道を行い、道を楽しむべし。予、壮年より艱難という艱難に罹りしゆえ、今はどんな事に出会うとも、動揺は致すまじ。それだけは仕合せなり。


(大意)道を行うものはどうしても困難や災厄に遭遇するものだから、どのような困難な状況に立たされても、事の正否、自らの身の安危などに少しも心を惑わされてはならない。世上の物事には上手下手もあり、また出来る人も出来ない人もいるものだから、その点については自然心を動かす人も出てくるものだが、人は道を行わなければならないものだから、そんなことにかかずらっていてはならない。道を踏み行うこと自体には、道を踏み行うという、その人の意志が肝要で、上手下手も、出来る出来ないもない。だから、ただひたすら道を行い、その道を行うことを楽しみ、もし艱難に直面してこれを乗り越えて行こうとするならば、いよいよ道を行い、いよいよ道を楽しむがよい。自分は、壮年の時から艱難という艱難に出遭ってきたから、今はどんなことに直面しても動揺はしないだろう。それだけは仕合せだ。


【解説】「道楽」という言葉がある。損益勘定とは無縁で、熱中できる趣味とか遊びの意味だが、悪い意味だと、人生や生活を破綻させかねない頽廃的な遊び、例えば「飲む、打つ、買う」といった、酒、ばくち、女、に溺れることに用いられる場合もある。
 歌道、茶道、華道など芸道や武道全般。なんでも「道」にしたがる日本人にとって一般的な意味合いでは、それに熱中し歩むことによって、人生を豊かにする対象全般が「道」になりうるという意味で、「道楽」とは決して否定的なニュアンスの言葉ではない。
 伊藤仁斎は「道はなお路のごとし、人の往来するゆえんなり。故におよそ物の通行するゆえんの者、みなこれを名づけて、道と曰う」と言っている。
 仁斎によれば、「道」とは人間の社会的交際を中心とする物事の出会いと交流の場なのである。人生を豊かにしないわけがない。しかし、人生を豊かにするはずの「道」が往々にして人生を破綻に招くことがあるという皮肉な結末がありうるからこそ、そこだけを抽出して否定的な用法も生まれたのだろう。「道」が、人々が行き交い、物事と出会う場を意味するなら、衝突事故や流れに飲み込まれることを回避する、規範意識やある種の節度が人には求められるだろう。そして、目的地にたどり着くには(そういったものがあるとして)、地図があると便利だし、ある程度の道順を知らなければ目途が立たないものだろう。

 孔子が理想とした『中庸』『中道』とは、例えるなら、これらを踏まえ、身につけ、事故を起こすことなく、道を往来することが出来る君子を形容した言葉である。
しかし、「道」にはいまだ人が歩いたことのない「道」や人が通ることもまれで舗装されていない「道」もある。さらに険路や隘路もある。断崖絶壁によって隔てられ、前に進むことさえかなわない前人未到の土地もあるだろう。
 「道」の開拓者が名を称えられるべきなのはそこに根拠があり、開拓に成功したにしても、失敗したにしても、あとに続く者は、それを踏むか外すかは別にして、彼の歩んだ道を目途にして、次に、あるいは別の方向に進むことが出来るのである。
 
 「聖人」とは同じく例えるなら、人知を超えた存在である「天」に導かれるかのようにして、かつて、これらの障害を乗り越え、道を切り拓いた人物を指す言葉である。南洲翁はこういった「聖人」になる志を持て、というのだから、その意識は過去に向いていると同時に、未来へつながる開拓者になれと励ましていることになる。 
 前条で触れたように、翁にとって本当の意味で「聖人」といえる人がいるとすれば、それは先君、順聖公こと島津斉彬こそがそういった存在であっただろう。それは日本語に翻訳すれば「神」ということになる。

 翁はこの「道」という、日本の伝統を、江戸時代の人々の人生・生活を豊かにしていたものを深く、強く体現しつつ、集大成しつつ、当時日本が直面しつつあった別の「道」を奉ずる西洋文明という難問を乗り越え、万国交際の場である国際社会という大道に踏み出そうとしたのだが、一方で近代西洋文明という人工の光源に照らされた文明はその陰でキリスト教という彼の「道」に支えられてようやく、その世界規模に膨張した巨大な運動体を支えてきたのであった。インターナショナリズムという侵略思想とキリスト教はともに手を携えて「極東」に押し寄せてきたのである。

 戦前・戦中・戦後を通じてその慧眼を失うことのなかった小林秀雄は、その晩年、日本の知識人はニーチェを潜り抜ける必要があると繰り返し述べていたそうだが、ニーチェは、近代合理主義をニヒリズム(価値相対主義)と批判して、突き抜け、よく知られているように、それを陰で支えてきたキリスト教をデカダンス(頽廃)として排撃した。つまり、そこに深い虚無が口を開けて人々を飲み込もうとしていることを看破していたのである。彼は、現在という時間における自分は前後に二つの門の前に挟まれるようにして立たされていて、その門は一つは過去に通じ、一つは未来に通ずる別々の道であるとした。もちろん未来は想像力によって認識するほかないが、それは過去も同様であり、歴史の客観的認識はあり得ないと看破されていたのである。つまり、未来も過去も自らが動くことによって、その認識は変わるのである。彼はその認識によって、西洋文明が直面しているこの虚無という深淵をいち早く認識し、「超人」となって飛び越えようとした。一般には彼はそれに失敗し、奈落に転落したとみるが、肉体的には確かにそうであったかもしれないが、その精神は深淵を超えて飛翔したと筆者は考えている。彼がその認識のモチーフと跳躍のばねを得たのは古代ギリシャ文明の神ディオニュソスで、この神は陶酔、狂気、豊穣を象徴する闇黒神であった。ディオニュソスは一方で、予言・幻想・造形の神アポロンと一体であり、こちらは光を象徴する神である。ニーチェは要するにこの神と一体化することによって、その内面においてこの虚無を乗り越えたが、西洋文明は二度にわたる世界大戦を経験することによって、この虚無に飲み込まれ、いまだにこの難問を克服したとは言えない状況にある。
 この虚無につけこんで勢力を回復したのがキリスト教に抑圧されてきたユダヤ教徒すなわちユダヤ人であって、これに抵抗し反撃しているのが同じく抑圧を受けてきたイスラム教で、昨今の世界情勢の混乱は旧約聖書を聖典とするこれらの文明の勢力争いに起因するものである。その意味で、ユダヤ人およびユダヤ人の国際金融資本勢力が支えた国際共産主義運動とそれを憎悪したヒットラー率いるナチスの台頭という二〇世紀中頃の世界を揺るがした問題は現在も決着を見ていないどころか、再び深淵となって、その大きな口で近代文明の発展で狭くなった国際社会を再び飲み込もうとしているのである。その深淵はこれまで、グローバリズムという光で人々の目を眩ませてきたが、世界の混乱はこの深淵を人工の光などで覆い隠せないほど大きくしてしまっている。グローバリズムの正体は、人・物・金・情報による国境を越えた人間の支配欲であり、それを推し進めるものは一部の人間の怨望という闇に他ならない。
 
 ナショナリズムの台頭はそれに気づく人々が多くなってきたからで、イギリスのEU離脱の選択もその表れである。イスラム圏からの移民問題で揺れるEUの中心国の一つフランスではマクロンの勝利、ルペンの敗北によって、グローバリズムが勝利した。もう一つの中心国ドイツではナチスの後遺症でドイツ・ナショナリズムは表向き許されない。ユーラシア大陸のハートランド(心臓部・核心地域)ロシアではプーチン大統領をナショナリズムが支えている。アメリカではクリントンの敗北、トランプの勝利によってナショナリズムが一応は勝利したが、彼の国の体質(國體)を考えれば、ナショナリズムとグローバリズムの綱渡りをどう乗り切るかが最大の課題となってきているようであるし、それはアメリカと同じく海洋国家で同盟を結んでいる我が国においても変わらない。ナショナリストとして首相に返り咲いた安倍首相はトランプよりいち早く、ナショナリズムとグローバリズムの綱渡りを強いられているように見受けられる。両者がニーチェ流に言えば「超人」となって、タイトロープ上で立ち尽くすか、あるいは渡りきるか、それとも転落するか。
 もちろんこれらは決して他人事ではなく、とくに安倍首相がすでに綱を渡り始めた以上は渡り切れるよう、国民がこれを支えなければならないもののはずだ。安倍首相の転落はすなわちわが国民の転落に他ならないからである。もちろんこの日本国民に「世界市民」の含意を持つ「市民」と称する人々は含まれない。

 日本を取り巻く東アジアの国際情勢はこれらの問題と密接に関係しつつ、また別の要素がある。国際共産主義を受け入れてきた中華人民共和国はその深淵を偏狭な愛国主義で隠してきたが、ケ小平以来グローバリズムに衣替えしてきたため、最早この路線は破綻寸前である。習近平は毛沢東を礼賛したが、グローバリズムとの綱渡りは避けて通れず、国内には国民の不満という形で大きな深淵が口を開いて飲み込まれようとしている。同じく国際共産主義を取り入れて、偏狭な愛国主義で深淵を埋め合わせてきた北朝鮮はグローバリズムを取り入れることもできず自家中毒で断末魔のように見受けられるが、同じ民族でお隣の韓国に、長年の工作により、文在寅大統領率いる親北政権の樹立に成功して、北を中心とする緩やかな連合に向けて大きく一歩踏み出した。東アジア情勢は一気に不安定化している。
 これが彼の状況を大雑把に知るということだが、日本は己を知って、国際社会という「道」を開拓する努力を自覚することで己れを全うする必要性がこれまで以上に高まっているのではなかろうか。それが筆者の問題提議である。


 ここで大道の体現者である南洲翁に話を戻そう。

 翁はまず、道はこれを踏み行なうという志が大事であり、次いで志を持った当然の結果として困難や災厄に直面することになるが、その際、艱難の中で道を行うことを楽しむのが大事だというのである。

 孔子は「これを知る者はこれを好む者に如かず、これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」と言っていて、物事に臨む態度として、楽しむという態度が最上のものであるとしている。
 孔子もまた幾たびの艱難を乗り越えてきた人物であったが、孔子と弟子の一行が陳という国で混乱に巻き込まれ、食糧も尽きて、従者が立つほどが出来ないほどの困窮に見舞われたとき、弟子の子路が苛立ちをあらわにしながら「君子もまた窮すること有るか」と孔子に食って掛かったことがあった。これに対し、孔子は落ち着いて「君子固より窮す、小人窮すればここに濫(みだ)る」と鮮やかに答えたものである。人は困難に遭って初めてその真価が問われる、というのが孔子の考えだが、道を知識として知る者より、道を好む者の方が、さらに道を行うことを楽しみにする者の方が、一層、困難に遭って動揺せずに済むだろう。好きで楽しいと感じる者の方が余計な心配をせず、それに取り組むことが出来る。これは人間の本性に根差した考え方だ。
 孔子はまた君子でも「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ」とも述べていて、知者は流れ行くもの、すなわち事象の推移変化を楽しむもので、後者は不動のもの、すなわち物事の本質や核心とともにあることを楽しむ者としている。だとするなら、その楽しみは、物事に被さったヴェールが剝がれる、非日常的な困難の中にあってこそ極まる、と言っていいだろう。

 身近な例として、交通事故や病気など生命の危機に直面することによって、死を考え、それと表裏一体の生について認識を新たにするということはありふれた経験である。大事なものを失って初めてその大事さを認識するという経験の延長で捉えることができるはずだ。
 一般庶民の目には同じような、安定した生活を壊しかねない危なっかしい生活者にしか映らない道楽者であっても、そういった本来の意味での道楽者は極めてまれであることがわかるだろう。

 翁はそういった意味で真の道楽者であった。

 坂本龍馬の盟友で陸援隊の隊長を務めた中岡慎太郎の翁に対する評は非常に有名だ。

「(西郷は)人となり、肥大にして御免の要石(土佐は御免という土地の力士)に劣らず、古の安倍貞任(現在の安倍首相の御先祖)などもかくの如きかと思いやられ候。この人、学識あり、胆略あり、常に寡言にして、最も思慮雄断に長じ、偶々(たまたま)一言を出せば確然、人の肺腑を貫く。且つ徳高くして人を服し、艱難を経て頗る事に老練す。その誠実、武市(半平太)に似て学識これ有ることは優り、実に知行合一の人物也。是れ即ち洛西第一の英雄に御座候…」

 中岡慎太郎の人物眼の確かさは維新史がこれを証明している。
 
 命懸けで忠義を尽くそうとした斉彬の死に直面して、翁は一旦殉死を覚悟したが、これを思い直し、その遺志を継ごうと決意した。しかし、斉彬を毒殺した疑いもある前藩主で父の斉興が実権を奪い返した結果、藩の方針は百八十度転換して、後ろ盾を失って絶望した翁は、勤皇僧月照とともに錦江湾に投身自殺を遂げた。月照はそのまま帰らぬ人となったが、蘇生した翁はこの死に方を非常に悔悟したらしい。逆に、その信義を全うする行為に感激した斉興は幕府の追及をかわすために翁を奄美大島に匿うことにした。
 死の淵からの蘇生を天による命の付与と考えた翁は、その命に応えるべく、島での学問に勤しむようになったようで、二度の遠島中にこの学問は深化を遂げたらしく思われる。

 翁は斉興の死後、息子で藩主の忠義の父として「藩父」と呼ばれ、藩政の実力者となった島津久光によって奄美大島から召還される。久光は斉彬が死の直前になそうとしてなしえなかった率兵上京を行い、朝廷を守護するとともに、幕政を改革しようとの遺策を実行するつもりで、斉彬の手足となって動いた翁を召還したのである。ところが、翁はこれを無謀と考え、意見を問いただした久光の面前で、田舎者を意味する「地五郎」と放言して引きこもってしまい、後々、両者の関係のボタンの掛け違いの端緒となってしまうのである。
 しかし、翁のこの時の諌止の内容は非常に常識的な内容であった。久光はこの時無位無官にして、ましてや藩主であった事すらない、中央政界から見ればただの人である。そのただの人が、大藩である薩摩藩主の父というだけで大兵を率い、斉彬でさえ細心の注意を払った根回しをすることもなく、古今未曽有の率兵上京を果たすというのだから、常識的に考えて無謀との判断を下すのは当然である。翁は一応藩への忠義心からそれを言ったまでであったが、それでも敢えて、斉彬の遺策を継ぎ、朝廷への忠義を尽くそうと気負っていた久光にしてみれば、屈辱にすら感じられたであろう。しかし、それでも久光は怒りを抑えて、翁に密命を与えるのである。

 筆者は久光の人物について一般より高く評価している。翁びいきの感情によって久光を貶めて言うのは、家康の言葉を借りるなら「その方どもが存じ寄りは世上にて判官贔屓とて、うばかか(姥嬶)共の寄合って茶のみ雑談にする事にて、一向用に立たぬ批判といふものなり」ということになるだろう。歴史や政治を判官びいきによって見るのも一つの見方であるが、あくまでも、それは一つの見方として認めるということであって、國體、あるいは國政の観点から慎まなければならない感情であろう。

 なんだかんだ言っても、翁もこの未曽有の事態を看過するわけにもいかず、この企画を推し進めてきた大久保の頼みもあって、久光の密命を受けて出立することになるのであるが、久光の出馬は、全国の志士たちの過剰な期待もあって、すわ討幕じゃと、上方の物情は騒然とさせていた。率兵上京の趣旨について熟知している翁は、志士たちの無謀な突出を抑えるべく、下関で待機せよとの久光の命を破ってまで京に乗り込むが、これが未曽有の壮挙を前にして緊張していた久光の神経を逆なでにした。突出したとの嫌疑を受けた翁に捕縛命令が下されたのである。
 この時、絶望した大久保が兵庫の浜辺で翁と刺し違えてともに死のうと謀ったことは有名だ。
 
 この事件に関しては大久保から当時話を聞いた薩摩藩士で誠忠組の同志であった誉田弥右衛門が後に回想している。大久保は翁を兵庫の無人の浜辺に誘い、次のように告げたという。

「…かかる境遇に落ち入りたれば、予も君側を退けらるるの状況あり。多年尽瘁せし大計画も、ここに至りては画餅水泡に帰せしは是非もなし。これ天命なり。顧うに、兄、謂れなく奸吏の手に捕縛せざるべきにあらず。予も、今はこの世に生きて何かせむ。只死あるのみ。死せば、必ず兄と共に刺し違えて死せん。これ我志なり。」

 ここは無二の忠臣楠木正成の最期の地、湊川の戦跡であるということで、大久保も感傷的になっていたのだろう。
 翁はこれを聞いて、従容として、次のように答えたという。

「これは大久保の言とも覚えぬものかな。公の激怒と君側の形勢、かくの如くに至りしは、今更是非もなし。予は君が想う如く、自裁処決するものに非ず。たとえ縲紲の辱めに逢い、如何なる憂目を見るとも、忍んで命に従い、大計の前途を見んと期する者なり。君もまたかくの如くなるべし。もし今にして、われら二人とも刺し違えて死せば、天下の大事去らん。かくまでに推し進み来れる例の画策は、誰がこれを継承すべき。男子忍耐、事に当るはこの時ならずや。吾人二人なくしては、皇室を如何んかすべき、国家を如何んかすべき。辱を忍び、事に耐えるは只この時なり。勉むべし、勉むべし。」

 これにより大久保は翻意したということだ。 
 これを聞いた本田は事件の翌日、捕縛され、大坂は安治川口に繋留された舟に監禁されていた翁に面会した。
 本田は明治三十二年に回想して言っている。

「翁は舟中に平座し居たり。村田(新八)森山(新蔵)も側に在り。如何にや如何にやと安否を尋しに、翁は『勤皇道楽のなれの果てなり』と呵々と大口開いて笑う。」
 
 翁のこのセリフを引用するためにこの事件を叙述してきたのだが、出京してからの翁は、緊迫した情勢にもかかわらず、冗談もいい、常に従容としていて、その命は天の付与する所であるとの信念が確固としていたことが窺えるのである。
 「勤皇道楽のなれの果てなり」との呵々大笑は、翁がすでにこの段階で、艱難の中でも道を楽しむ境地にあったことを証している。
 
 以下は本田が回想するところの、緊迫した情勢下における翁の風韻である。

「…宇治の里あたりに物せんとて打列れ立て、万碧桜に登り、朝日山に対い清流に臨みて、酒くみかわしつつ、『浮世の外なりけり』と翁はいとよろこびて、今宵はここに宿りぬべしと定め、初夜にも成りぬる頃しも、使いの者参りて、伏見より御文の候とて、さし出したるを見れば、甲東兄(大久保)の急報にて『公駕(久光の乗り物)兵庫に停まり給う隙に、寸暇を給りて、要道を告んものと伏見邸に来て見れば、本田は奴何たる事ぞや、かかる世の中に西郷など打列れ立て、宇治の川逍遥に物したりとは実に驚きたる振舞かな。速かに帰り給え』云々とあり、沈着慎重なる甲東ぬしが君側を離れて、ここまで馳せ登りたるは、至急至要の事こそあらめ、急ぎ帰りなんと人々ひしめきぬ。
翁は『大久保ここに来りなば、共に美景をもながめて杯酒の間に、物語りもすべきものを、例のやかましき男かな』と戯れたり。
ここより歩みゆかんも程遠しな、と人々いう。船により河を下りなば、奴何に早からん。宇治の紫舟に打ちのりて、清流に掉さすもよかるべしと漕ぎ出しぬれば、四月初頃の月影さし登りて、波の上に浮へる景色は所から面白く、舟は矢を射るが如く早し。この趣きは得がたき佳堺になんといえば、翁は打笑いて『河は流るるもの、月は望になれば円くなるものよ。何のめづらしき事やはある』とねちけさまに答えらるるもおかし。」

 情勢の切迫と翁の従容たる態度は著しいコントラストをなしている。
 翁はこの事件の後、死罪であるべきところ一等減ぜられて、沖永良部島への遠島、しかも牢獄入りの処分を受けることになる。
 牢獄は過酷な環境であったらしく、その様子が岩波文庫『西郷南洲遺訓』所載の逸話に出てくる。

「…その時の牢獄は二坪余りにして、東西に戸なく南北に壁なく、繞らすに粗大なる格子を以てし、その片隅に厠あり。風雨は吹通し、殆ど人の住む処にあらず。翁はその中に在り、水を求めず、湯を乞わず、喫煙を絶ち、終日端座黙想す。
間切横目役なる土持正照、一日翁柝(ひょうしぎ)をあたえて、用事あらば之を打たんことを請う。翁その厚意を謝したるも、一度も之を打ちしことなし。
かくて数月、翁の言動和気旧のごときも、顔色憔悴して、この世に久しかるべくもあらず。正照之を苦慮し、強いて在番の藩吏に請い、私費にて新に屋舍を造り、その中に座敷牢を設けて翁を移す。これより翁の健康旧に復す。翁その誼に感じ、正照と兄弟の約を結ぶ。
翁は三宅尚斎獄中の作なる左の詩を牢壁に書して、日夕吟誦したり。

富貴寿夭(命の長短)心を二せず
只面前に向て誠心を養う
四十余年何事を学ぶ
笑って獄中に座す鉄石の心」

 このようなものであったらしいが、学問に打ち込み、半年後には次のような趣旨の手紙を書いている。圍(かけ、おりのこと)入りにて、脇からには余程窮屈に見えるらしいけれども、拙者には却って宜しく、俗事に紛れることもなく、余念なく学問一筋にて、このままいけば学者に成りそうな塩梅です、と。
 遠島当初、翁は「屈虫」という雅号を使っていたというが、これはしくじって窮屈な檻に閉じ込められた自分に対する自嘲の気持ちからであっただろうか。しかし、やがてよく知られるように「南洲」との雅号を好んで使うようになる。これはシナの忠臣義士伝である『靖献遺言』の中心人物ともいえる謝枋得に因んだものであったように思われる。そこには「初め竄せらるるや、謫所の山門に因って、自ら『疊山』と命じ、門を閉じ、道を講ず」とあり、翁もまた、謫所である南の島(洲)に因って、自らを「南洲」と命じ、門を閉じ、道を講じていて、自らを謝枋得に準えたのではなかっただろうか。翁は後に牢の中から島の子供たちに道を講じている。
 翁はこの苦境にあってもその勤皇道楽を改めることはなかったのである。

 次の有名な漢詩はこの境地にあって詠まれたものだ。

 朝に恩遇を蒙り、夕に焚抗せる
 人世浮沈、晦明に似たり
 たとえ光を回さるも、葵日に向う
 もし運を開くこと無きも、意誠を推す
 洛陽の知己、皆鬼と為る
 南嶼の俘囚、独生をぬすむ
 生死何ぞ疑わん天の附輿
 願くは魂魄を留て、皇城を護らん

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